田中正明興亜観音を守る会会長
興亜観音を語る
聞き手・早瀬利之
田中正明先生

誰よりも中国を愛した人 ― 松井石根

荒尾精こそ興亜運動のルーツ

 ―戦後50年目の節目の年こそ、大東亜戦争とは何であったかを見直そうと、各界でイベントが組まれています。
 「興亜観音を守る会」としましても、興亜観音の由来、南京事件を正しく見直してみよう、若い人にも知ってもらおう、というモチーフから今回、機関誌「興亜観音」の発刊に踏み切ります。先ず昭和十七年に興亜同盟が設立され機関誌「興亜」が発刊され、田中先生は懸賞応募で一等入選されたそうですね。
 田中 十七年十二月でした。私は三十一歳で徴集になりました。その前に、「興亜」という雑誌が応募作品の懸賞をやりまして、私は戯曲「荒尾精」を書いて応募しました。なんとこれが一等入選したんです。審査委員長は吉川英治でした。
 でも私は戦地へ行っとったから、家内が代理で表彰式にのぞみ、会長の林銃十郎大将から懸賞と彰状をいただいた。家内から詳しい手紙と写真を贈ってもらい大変うれしかったですね。生まれて初めて書いた戯曲でしたからね。
 ―荒尾精中尉は東亜同文書院の前身「日清貿易研究所」を設立され、東亜の将来に役立つ青年の育成に努められ三十八歳で客死していますね。
 田中 そう。この荒尾精こそ興亜運動のルーツです。三十七歳で台湾の旅舎に「ああ、東洋が、東洋が、東洋が・・・・」と叫んで客死しました。荒尾は松井と同郷で、東亜の志士だった。
 荒尾の東亜優先の精神こそわが生涯のめざす道である、と若き日の松井は固く信ずるようになったのです。
 戦後生まれの方々に分かっていただくために、ちょっと松井の人物小伝を述べましょう。
 松井大将は陸大を卒業して、のちにフランスに行きますが、陸大の軍刀組は欧米の駐在武官となり、それ以外の者は中国関係と相場は決まっていた。しかし松井は自ら進んで北京の武官として勤務し、さらに上海で勤務する。
 一時参謀本部に帰るが、間もなく今のベトナム駐在を命ぜられる。第一次大戦のときはパリにいましたが、再び動乱の中国に戻った。そして上海から南京、漢口と長江一帯を駆け回る。
 やがて北京駐在武官として北京、天津等に常駐した。その頃、孫文と接触し、その中国革命を支援するんです。
 蒋の不遇のとき、田中義一総理に引き合わせたりもして、孫文の中国革命に必死でしたね。
 しかし歴史は皮肉なもので、のちに西安事件後、蒋介石はスターリンやルーズベルト、イギリスにあやつられて、日本と戦うことになる。
 昭和十二年の蘆溝橋事件になると上海に飛び火して第二次上海事変となり、南京攻略へと発展する。蒋介石は中支那方面軍司令官に親補された松井石根大将と対決することになる。そして松井大将は戦犯として処刑されるのです。

興亜観音の着想は昭和十三年南京より凱旋後

 ―南京占領が十二年十二月十三日で、翌十三年二月二十一日、上海から日本に凱旋します。その間のことは、先生の「松井大将陣中日誌」に詳しく書かれていますので省略致しますが、松井大将が興亜観音に思いつかれますのはいつの頃からですか?
 田中 熱海市伊豆山・淙々(そうそう)園主人古島安二氏の「興亜観音建立由来記」によると、昭和十三年五月二日、大将は文子夫人同伴で伊豆山淙々園に来られて数日間滞在され、戦塵を洗われたとあります。
 大将はその年の二月二十四日に南京より戻られて、そのまま東京駅から宮中へ向かわれる訳ですが、それから二ヶ月後の伊豆山行きですね。よほどこの地が気に入ったと見えて滞在中に「伊豆山に余生を送りたい、住まいをつくりたい」と相談される。そして地主の黒沼氏の土地二百坪を寄進されて住まいを建てられた。
 それから数日後、観音像の話をされていますね。それは、大将が出征のさい、某氏から熊谷慈光師作の十一面観音を寄進され、陣中、常に大切に奉持されておられる。しかし、自分の家は神道であるためこれを安置する仏壇がないので、いささか困っていると。古島さんはその相談をうけてふと自分の山に観音様をおまつりしようと思いついたと書かれています。
 古島さんは部下将士二万余の英霊を弔われてどうかと提案される。松井大将は非常に喜ばれ「ぜひやってくれ。他人に迷惑をかけないでくれ」と言われたそうです。
 そしてさらに大将は、部下戦戦没将兵だけではなく、中国の戦没将兵も一緒にまつろうと提案されたのです。大将によると「当時、中国兵は督戦隊に強要され、戦争の意義などは判らず、牛馬のように死んでいった極めてあわれむべき将兵も多くいた。
 もちろん立派な将兵もいたが、死んだら敵も味方もない。よろしく一緒にまつろうではないか」と提案されたのです。
 大将がどれだけ中国の人たちが好きだったか、こんなエピソードがあります。
 私はのちに軍司令部付通訳官の岡田尚氏から聞いた話ですが、軍司令部が湯水鎮に進出した頃のこと。焼け跡から赤子の鳴き声が聞こえる。「当番兵と2人で、岡田、捜して来い」と松井大将に言われて、捜しに行ったら、赤ちゃんが置き去りにされて泣いていたそうです。
 女の赤ちゃんがね。大将はその子に松子と自分の名前をつけ、ミルクを飲ませて育てるんです。そして南京入城の時は、その赤ちゃんと一緒に入城したそうです。のちに松子は上海の東京クラブのマネージャー鳥井夫妻に養女としてもらわれ、その後麻疹で亡くなるんですがね。

日中両軍の戦没将兵を慰霊
本堂に掲げられている松井大将揮毫(きごう)の「興亜観音」の額
興亜観音神社に掲げられています

 松井大将は十二月十八日の南京入城翌日の慰霊祭の時も、中国の戦没将兵も一緒に慰霊しようと提案されたそうですが、参謀の反対で実現しなかったといういきさつもありました。
 中国人を愛した松井大将の気持ちがよく表れています。現在の観音堂内に、右側に「日本国民戦死者霊位」、左には「中華民国戦死者霊位」の位牌がありますが、これは松井大将の考えなんですね。
 中華民国の歴代の大使やラマ僧が必ず参拝されたのは、ここに位牌があるからです。
 ―南京に向かって合掌されている立派な観音様は、戦場の土を取り寄せて作られたと聞きますが。
 田中 そうです。大場鎮や南京の激戦地の日中両軍将兵の血に染めた土をわざわざ取り寄せ、瀬戸や常滑の仏師が魂をこめて作った観音様です。これも松井大将の発案です。
 ―記録には、畑軍司令官の認可を得て、岡田尚さんが南京や大場鎮の土十樽分輸送したとありますが。
 田中 それをニつに分け、一つは瀬戸の、後に人間国宝になられた加藤春二氏、いま一つは常滑の著名な仏像陶工柴田清風氏が製作しました。
 ―発注依頼したのが十四年三月、完成したのが十五年二月三日と記録にありますね。
 田中 「興亜観音縁起」には次のように書いておられますね。
 「支那事変は友燐相撃ちて莫大の生命を喪滅す、実に千載の悲惨事なり。然りと雖(いえども)、是れ所謂(いわゆる)東亜民族救済の聖戦たり。惟(おも)ふに此の犠牲者たるや、身を殺して大慈を布く無畏の勇、慈悲の行、真に興亜の礎たらんとする意に出でたものなり。
 予大命拝して江南の野に転戦し、亡ふ所の生霊算なし。洵(まこと)に痛惜の至りに堪へず。茲に此等の霊を弔う為に、彼我の戦血に染みたる江南地方各戦場の土を採り、施無畏者慈眼視衆生の観音菩薩の像を建立し、此の功徳を以って永く怨親平等に回向し、諸人と倶(とも)に彼の観音力を念じ、東亜の大光明を仰がん事を祈る。願主、陸軍大将 松井石根」

なんとも美しい観音像

 ―それにしても、なんとも美しい観音像ですね。南京に向かって合掌されて・・・・
 田中 ええ、国宝級ですよ。実に美しいね。昭和十五年に興亜観音が建てられましたがそのお堂の壁画は堅山南風、堂本印象といった当時一流の日本画家、納められた観音経は、著名の三十三氏の染筆になるものと聞いています。(注を参照)
 松井大将は昭和二十一年三月、巣鴨拘置所に下獄するまで、さながら仏門に入ったような生活でした。雨の日も風の日も、この二キロ以上の参道をのぼり、観音堂参詣と朝夕の観音経の奉唱は欠かすことはありませんでした。
 ―ここには七士の遺骨も納められていると聞きます。しかも吉田茂元首相が揮毫した「七士の碑」の下に眠っているとか。
 田中 七士の遺骨奪取計画は、弁護士の三文字正平さんです。三文字さんは横浜の久保山火葬場付近の興善寺住職とは旧知の仲でした。
 三文字さんは七人の遺骸もここで火葬するに違いないと目星をつけていたんですね。そこで市川和尚に、遺骨奪取計画を打ちあけて協力をえたのです。
 市川和尚の紹介で火葬場長の飛田美善さんに会い、残骨のかき集めに成功するんです。それを熱海の興亜観音に隠し、のちに密かに供養します。
 その後、昭和53年愛知県幡豆町三ヶ根山に香盒(ごう)一杯分が分骨されました。

戦犯として処刑された七士の遺骨も眠る

 ―先生の本にあります東條英機、松井石根ら七戦犯の処刑責任者、ヘンリー・ウオーカー中将の事ですが、朝鮮戦争で、死刑執行の同月同日同時刻、しかも中将以下七人が死亡するという偶然の死がありますね。
 田中 ヘンリー・ウオーカー中将は、松井石根大将、東條英機ら七戦犯の処刑執行責任者です。日本駐留軍の司令官でした。
 昭和二十五年に朝鮮戦争が始まり、ウオーカー中将も兵を率いて朝鮮へ出征する。ウオーカー中将の率いる米軍は、仁川に上陸して北朝鮮軍の背後を衝いた。それから十二月暮、雨の夜でした。
 ウオーカー中将が戦場視察のため海岸道路を走っていて、うしろから友軍の貨物自動車に追突されるんですね。その時、中将の車と後ろからきた貨物自動車は断崖絶壁から転落し、乗員全員あえない最後をとげているのです。
 しかもその日が、なんと十二月二十三日。
  三年前の同月同日は、しかも時刻は同じ午前零字。松井大将ら七人が、当のウオーカー中将によって処刑された日で、その同時刻なのです。不思議な事ですね。仏教で言う因縁と言いましょうか。さすがのマッカーサー元帥もこのことに恐れをなし、興亜観音に使者を派遣して七士の霊を弔ったと聞きます。
 ともかく、この観音さまを、皆んなで守って下さい。誰よりもアジアと日中復興の発展と平和を祈る観音さまです。
 ―それはまた、松井大将の悲願でもありますね。ありがとうございました。

(注)観音経の写経を依頼した三十三人の芳名
大森亮順 (金龍山浅草寺主大僧正) 杉村愛仁 (従三位勲三等)
近衛文麿 (公爵、内閣総理大臣) 小林教純 (護国寺第五十世)
渋谷慈鎧 (天台座主大僧正) 荻野仲三郎 (従四位)
大谷正男 (正三位) 大島徹水 (増上寺精舎主三来老納)
佐伯定胤 (法相宗管長法隆寺貫主) 高楠順次郎 (文学博士)
鈴木貫太郎 (海軍大将) 望月信享 (大僧正)
中山玄秀 (毘沙門堂跡僧正) 小笠原長生 (海軍中将子爵)
鈴木孝子 (鈴木貫太郎妻) 菅原時保 (建長寺貫主)
長澤徳玄 (東叡山輪王寺門跡寛永寺大僧正) 林銑十郎 (陸軍大将、内閣総理大臣)
白根喜美子 (男爵白根松介夫人) 清水龍山 (前立正大学)
大西良慶 (興福寺京都清水寺住持) 江部鴨村 (仏教雑誌社長)
宮城長五郎 (正三位勲一等) 高井観海 (智山専門学校長権大僧正)
金山穆韶 (高野山大学) 松井石根 (陸軍大将)
犬養 健 (中華民国国民政府顧問) 田島徳音 (慈雲山主)
加藤精神 (大正大学長) 松井文子 (松井石根妻)
大村桂巌 (大正大学教授) 牧 次郎 (陸軍少将)
清水谷恭順 (天応山主権僧正)

 観音音菩薩は「世音」を「観」じて、さまざまの「三十三身」に身を現じて衆生を救済するというところから、三十三名に写経を依頼したものである。


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