興亜観音を仰ぐ

世田谷郷土大学学長 高橋正二

 今年も5月18日が回って来た。
 昨年は家内同道で参拝したが、今年は私独り。
 入院術後の養生の為家内を家に残して来たが、私は家内の分迄拝礼祈願をし、何と爽やかな1日であった事よ。
 本堂前のステージ、休憩室、参道等が著しく補強改修されており、細い参道で資材運搬は大変なご苦労であったと思う。
 又何よりも例祭の参加者が年々増加して来た事が喜ばしい。
 関係者各位に対し深甚なる感謝を表したい。
 去る平成10(1998)年11月6日「英霊に答える会」主催の「東京裁判史跡見学会」に参加し、日比谷の第一生命ビル内マッカーサー元帥の執務室 --- 市ヶ谷駐屯地の「極東国際軍事裁判」(東京裁判)所跡を縮少移転再現した記念館 --- 巣鴨拘置所七士処刑跡 --- 横浜久保山火葬場跡地等を実地につぶさに見学して参りました。
 その何れの場所においても今更の如く「東京裁判」の不当さに憤激を禁じ得ないものがあった。
 その感情未だ覚めやらぬ今日、熱海伊豆山に眠られる「七士之碑」に額突き感慨一入のものがあった。
 思い起こせば昭和15(1940)年、南京攻略の軍司令官であった松井石根大将が日中双方の彼我の戦没将兵の霊を弔う為に、彼我の戦血染みたる江南地方各戦場の土を採って観音菩薩の像を建立し、此の興亜観音を開山されたのであった。
 その開山以来、長い間堂守を続けて来られたのは、法華宗の僧侶伊丹忍礼師、キヌさんご夫妻でした。
 松井大将がA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に行かれるその朝ここに参詣し「あとは頼んだよ」と言われたその一言を深く胸に秘め、キヌさんは近くの旅館の手伝い、娘さん達はゴルフ場のキャデイなどして苦しい自活をしながらお堂を守って参りました。
 昭和60(1985)年9月15日、忍礼師が不遇のうち他界、キヌさんは夫の後を継いで僧籍に入り、妙真尼として堂守を勤めて来られました。
 妙真尼も平成2年11月23日お亡くなりになりました。
 残された三人の娘さん達は進んで僧籍に入り、妙徳尼、妙晄尼、妙浄尼として両親の志を継いで立派に堂守を続けて来られました。
 時の流れとともに崖は崩れ、お堂は傷み、三姉妹の日常生活すらままならぬ状態が続きました。
 地元奉賛会や心ある方々の暖かいご好意と、彼女達のひたむきな使命感によって辛うじて持ちこたえて参りました。
 然し、耐貧生活にも限界があり、このままですと興亜観音そのものの存続すら危くなるでしょう。
 この現状を見るに見兼ねて、有志の者が奉賛会とは別に、宗教宗派にとらわれず、全国的規模で同志を募り、末永く興亜観音をお守りしようと、援護活動をするために創られたのが「興亜観音を守る会」であります。(同会説明書より)
 希わくは興亜観音に眠られる諸英霊よ、安らかにわれら蓋忠の誠をみそなわせ給へ。

松井将軍之義恩
倶七士英霊感温
妙徳妙晄妙浄誠
萬古仰興亜観音

 (陸士48期、南方総軍参謀、大本営参謀、明治薬科大学元理事長)


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