興亜観音の護持に格別の御尽力下さった、小田村寅二郎先生((社)国民文化研究会前理事長、亜細亜大学元教授、小田村四郎拓大総長の兄上)が去る6月4日、数へ86歳でお亡くなりになられました。
●追 悼●

小田村寅二郎先生

 思へば5年前の平成6(1994)年6月、興亜観音についてご相談にお伺いしたところ、そくご存知で「あれは松井石根大将が支那事変の最中、日中双方の戦没将兵をお祀りした観音様で、いわば日本文化の真髄だよ。月刊「国民同胞」に折込みを挿入して会員に協力を呼びかけよう」と、早速に自らが筆をとられて勧誘文を執筆され始められました。
 そのお姿を今でもまざまざと思ひ浮かべます。
 小田村先生の格別のお力添へで、(社)国文研の同人の「守る会」入会は70名を超えており、先生からは極めて多額のご協賛を頂戴いたしました。
 今から58年前、昭和16(1941)年8月、私は中学4年生で陸軍士官学校受験のため、山口高校(旧制)在学中の兄(正資、昭和20年5月沖縄特攻戦死)の下宿を訪ねた時のことでした。
 受験前日の夕食を終へた後、兄から「おい読んでおけよ」と、さほど部厚でもない刷り文を手渡されました。
 それは「矢部貞治先生に奉るの書」と題する小田村先生の論文でした。
 私は夢中になって読み、読み了へた時、未だかつてない深い感動を覚えたのでした。
 その内容を一言で申しあげれば「矢部助教授の政治学の講義は欧州における政治原理であって、肝心かなめの日本の政治についての解明も将来の展望も全く無い」といふ痛烈な批判の論文でした。
 学生の身にしてこれだけ鋭く的確な論文をお書きになられたということも驚嘆でしたが、小田村先生は試験の答案に代へてこの論文を提出されたといふこと、それは試験の成績は零点になることを覚悟の上で"政治学の講義を糺された"といふことだったのです。
 己の一身は顧みず祖国の前途を思はれる熱情、その己むにやまれぬ思ひがほとばしり出た小田村先生の姿に触れた時、世の中にこんなに素晴らしい人物が居られるのかと身体が震えるほどの感銘を味わったのでした。
 これが小田村寅二郎先生との始めての出会ひでした。
 小田村先生とは(社)国文研の運営などについて語りあったのは当然のことですが、聖徳太子の勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)の研究も長年に亘ってご一緒しましたし、お酒を酌み交はしたことは幾度か数知れませんので、思ひ出は語り尽すことができません。
 印象深い思い出の1つは昭和天皇崩御の日、昭和64(1989)年1月7日のことでした。
 あの日の夕刻「淋しいですね、淋しくてどうしようもないのでお訪ねしました」と、突然小田村先生が拙宅へお見えになりました。
 淋しさをまぎらわす為、お酒をお出ししたのですが、お互ひにお酒はすすまず、「淋しいなぁ」を繰り返すばかりでした。
 それでも2時間ばかり経ってお帰りになられましたが、お帰りの時のしょんぼりした後姿は忘れることが出来ません。

一生(ひとよ)をばみ国のために世のために
捧げたまひし大人(うし)逝きましぬああ

再びは会ふことかなはじ大人はな
ぞはや逝きませるか嘆きはてなし

大人と共に太子のみ訓(をし)へ究めむと
語らひし日々思へば悲し

ご遺志をば友らと共にいや継ぎて
天(あめ)なる大人にこたへまつらむ

天にます大人のみ霊を朝な夕なをろ
がみまつるうつし世われは

松吉基順

 (陸士58期、運営委員)


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