パール博士の正論に想う
興亜観音を守る会 
会長 田中正明
■日本無罪論を主張しつづけたパール博士■

 「明るい日本」国会議員連盟、という組織がある。
 自民党の衆参両院議員によって組織されている政治団体である。
 会長は自民党の長老奥野誠亮先生、事務局長は森田次夫参議院議員で、衆議院議員92名、参議院議員55名、計147名の国策推進の議員連盟である。
 旧臘(きゅうろう)のある日、奥野先生から私に電話があった。
 「今の若い議員は不勉強で、東京裁判の事も、ましてこの裁判は不法な裁判であり、被告全員は無罪であると判決したインドの代表判事パール博士の論理など、ほとんど承知していない。ついてはあなたにパール判事の法理論について講演してもらえないか」というお話であった。
 話す相手は「明るい日本」国会議員連盟、期日は12月9日午後3時から約1時間、場所は自民党本部8階の会議室、詳細は森田事務局長とうち合わせて欲しいという要請であった。
 勿論(もちろん)私はこころよく承諾しし、森田事務局長と詳細について打ち合せした。
 森田局長は、拙著(せっちょ)『パール博士の日本無罪論』を出版元の慧文社から147部取り寄せ、また、下中(弥三郎)記念財団が発刊した拙著『パール博士のことば』も取り寄せて全員に配布した。
 なお奥野先生からのお電話で「代議士は忙しがって分厚い本などなかなか読まない。そこでご面倒だが、要旨、つまり勘所(かんどころ)を原稿用紙3・4枚にまとめて下さらぬか」との注文であった。
 この奥野先生のご要請に応えて著述したのが、この『パール博士の正論に想う』である。(その後若干書き加えている)

法律なき復讐のリンチ

 マッカーサーの創るところの、『極東国際軍事裁判(俗称「東京裁判」)所条例(チャーター)』なるものは何であったか。
 いわゆるA級戦犯28人が起訴されたのは昭和21年4月29日(昭和天皇の御誕生日)であり、東條英機首相以下7人が処刑されたのは昭和23年12月23日(今生天皇陛下の御誕生日)である。
 この一事をもってしても、この裁判がいかに執念深い復讐裁判であり、国民と皇室の離反、日本の国体破壊をめざした裁判であったかがわかろう。
 この裁判は、法なき裁判である。法無き裁判は、リンチ(私的な制裁)である。
 この裁判は司法の鉄則である「罪刑法廷主義」に背(そむ)き、戦後あとから作った「平和に対する罪」といった、新しい刑罰=事後法によって裁いた違法裁判である。
 パール博士は、「格好は裁判の形をとっているが、裁判にはあらず内実は、マッカーサーの日本占領政策のプロパガンダに過ぎない」と喝破(かっぱ)された。
 そして国際法違反のこのような裁判の執行はマッカーサーの裁権であり、違法行為であるとまで非難した。
 さらにキーナン主席検事は「本裁判の原告は文明である」と豪語したが、パール博士はこれに対しても「勝った国が敗(ま)けた国の国王や将軍の首を刎(は)ね、人民を奴隷にした中世のリンチと何ら変わらない復讐裁判劇である。こんな裁判は数世紀の文明を抹殺するもので、国際法違反である」と重ねて非難している。
 パール判事の判決(意見書)は90万語にも及ぶ堂々たる国際法理論の結晶である。多数判決=清瀬弁護人の言う、6人組の判決(米・英・ソ・中・カナダ・ニュージーランド)=杜撰(ずさん)きわまる間違いだらけの判決文より遥かに浩瀚(こうかん)で、適切な国際法理論の展開である。
 だいたい11人の判事中、交際法学者はパール博士1人であり、ウェップ裁判長はじめ比島、仏・露・中の5人の判事は裁判官としての資格すらない判事である。
 しかも仏のベルナール判事は、「被告の刑量を定める会議に11人が一堂に会したことは1度も無い」と内部告発までしている。
 つまり、6人だけで決めた判決だと言うのである。
 ついでながら、この裁判は法律なき裁判ゆえ、6ヶ国判事のほか、他の5ヶ国の判事もそれぞれ個別の判決文(意見書)を提出しており、6つに分かれた裁判であったことを附記したい。
 当初マッカーサーは欧米の裁判にならって少数意見も発表するとチャーターで公約しておきながら、その発表厳禁した。
 ことに、パール判決についての言論統制は、厳重を極めた。

「東京裁判の影響は原爆の被害より甚大だ」

 パール博士の2度目の来日は、昭和27年の11月である。
 サンフランシスコ講和条約により、この年の4月28日が日本の主権回復の日で、日本のマスコミは、「日本独立」を祝賀して大々的に報道した。
 博士は来日の羽田空港の記者会見で、「独立には、少なくとも次の4条件が具備されねばならぬ。
 (1)国内法の源泉である憲法は自分の手で書くこと。
 (2)自分の国は自分の力で守る体制が整っていること。
 (3)祖先の精霊や国家のために殉じた英霊の祭祀。
 (4)古代からの自国の文化や歴史が正しく子孫に教育され、伝承されていること。
 この4条件である。日本は果たして独立国家と言えるかどうか」と厳しく批判された。
 パール博士によれば日本は独立国家にあらず、“半独立国家”だと言うのである。
 この時から今日まで約半世紀近く経ているが、博士の言うこの“半独立国家”の態度が少しも変わっていないことは残念の極みである。
 パール博士は広島の原爆慰霊碑に献花して黙祷(もくとう)を捧げた。
 その碑に刻まれた文字に目を止められ、通訳のナイル君に何と書いてあるか訊(き)かれた。『安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから』・・・、博士は2度3度確かめた。
 その意味を理解するにつれ博士の表情は厳しくなった。
 「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。勿論(もちろん)、この碑は日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、私は疑う。ここに祀(まつ)ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落とした者は日本人でないことは明瞭(めいりょう)である。落とした者が責任を感じ《2度と再びこの過ちは犯さぬ》と言うなら肯(うなず)ける。
 この過ちがもし太平洋戦争を意味していると言うなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は、西欧諸国の東洋侵略のため蒔(ま)いたものであることも明瞭だ。
 さらに、アメリカはABCD包囲陣を作り、日本を経済的に封鎖し、石油禁輸まで行って徴発した上、ハルノートを突きつけてきた。
 アメリカこそ開戦の責任者である」
 このことが新聞に大きく報ぜられ、後日、この碑文の責任者である濱井(はまい)広島市長とパール博士との対談にまで発展した。
 このあと博士は私に「東京裁判の、何もかも日本が悪かったとする日本統治の戦時宣伝のデマゴーグが、これほどまでに日本人の魂をダメにし、奪(うば)ってしまったとは思わなかった」と慨嘆(がいたん)された。
 そして「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ」と嘆かれた。

誤った子弟への教育を憂慮

 パール博士は広島高裁で、次の如く講演した。
 《イギリスの国際事情調査局の発表によると、『東京裁判の判決は結論だけで、理由も証拠も明示されていない』と書いてある。
 ニュルンベルクにおいては、裁判が終わって3ヶ月目に裁判の全貌を明らかにし、判決理由とその内容を発表した。
 然るに東京裁判は、判決が終わって4年になるのにその発表がない。
 他の判事は全員有罪と判定し、私1人が全員無罪と判定した。
 私は、この無罪の理由と証拠を微細にわたり、明確に記録した。然るに他の判事らは、有罪の理由も証拠も、何ら明確にしていない。おそらく明確にできないのではないか。
 これでは感情によって裁いたと言われても、何ら抗弁できまい。
 要するに、彼ら(欧米)は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史に銘記することによって、自らの正当性を誇示すると同時に、日本の18年間のすべてを国際犯罪であったと烙印(らくいん)して、その罪の意識を、日本人の心に植え付けることが目的であったに違いない。
 私は1928年から45年までの18年間(東京裁判での日本審議間)の歴史を、2年8ヶ月かかって調べた。
 各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中にはおそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴(つづ)った。
 この私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。然るに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。
 そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙や大虐殺を敢(あ)えて行ったのだ』と教えている。満州事変や満州事変から太平洋戦争勃発にいたる真実の歴史っをどうか私の判決文を通して充分研究していただきたい。
 日本の子弟が、歪められた罪悪感を背負って、卑屈・頽廃(たいはい)に流されてゆくのを、私は見過ごして平然たるわけにはいかない。
 彼らの戦時宣伝の欺瞞(ぎまん)を払拭(ふっしょく)せよ。誤られた歴史は書き替えられねばならない。》
 博士は慈愛と情熱を込めて切々して訴えられた。

パール博士顕彰碑の建立

 この時の博士の来日は、下中弥三郎先生が委員長をつとめる広島における「世界連邦アジア会議」のゲストとしての来日であった。
 その翌年も、下中先生の招聘(しょうへい)で来日し、全国を遊説している。
 博士は下中先生と義兄弟の契りを結び、箱根には「パール・下中記念館」が設立されている。
 さらに昭和41(1966)年、岸信介、清瀬一郎両氏の招聘で4たび来日し、日本政府から勲一等に叙せられた。
 これよりさき、博士は、国連の国際法委員会の委員長を1958年から6年間勤められており、インド最高の栄誉賞であるPADHNA・PRI勲章を授与されている。
 そして博士は67年1月10日、カルカッタの自邸で逝去された。
 パール博士の顕彰碑が京都・東山の霊山(りょうぜん)護国神社境内に建立されたのは、平成9年11月のことである。
 同台経済懇話会(会長・瀬島龍三氏)が中心となり、予算5千万円で、日本が世界に誇る技術=セラミック(磁器に焼きつけた写真版)で、博士のお姿が、研きあげられた半円の花崗岩の壁の中央に、浮き出るかたちで建立された。
 除幕式には、博士の長男夫妻が来日し、インドの大統領閣下からも鄭重(ていちょう)なる祝電が寄せられ、インド大使も、日本の外務次官も、出席して祝辞を述べられた。
 この背後の半円の花崗岩(かこうがん)右側の壁面には、パール博士の判決文最後の予言的な名句が、墨痕(ぼっこん)あざやかに刻まれている。
 
 時が熱狂と偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥(は)ぎ取った暁には、その時こそ、正義の女神は秤の平衡(へいこう)を保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう。

霊山護国神社境内に建立されたパール博士の顕彰碑


 そして左側には、英文でこの名句が刻まれている。
 記念碑の前に立つと自動的にパール博士の経歴と、法の真理を守った世界的な功績が、日本語と英語で解説される。
 この霊山には、明治天皇の命により、明治維新の多くの志士たちの遺体が祀(まつ)られており、坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像もあり、麓には明治維新記念館もある。
 またこの霊山からの展望は素晴らしく、京都の街を一望に鳥瞰(ちょうかん)できる。
 読者の皆さん、京都に行かれたら、是非パール博士の記念碑をお訪ね下さい。
 本年(平成12年)はパール博士の33回忌にあたります。


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