興亜観音と出会って

松尾一郎


それは不思議な運命

 今から約3年前に田中正明先生とお会いした事が興亜観音と出会うキッカケだった。
 当時、南京事件に関してニフティ(富士通のパソコン通信サービス)で南京事件は有った、無かったという論争を行っており私はもちろん無かったという説を主張していた。
 ところが敵もさるもので秦・笠原両教授説を用いながら松井大将陣中日誌を持ち出した。
 私はその当時それに関する知識が無く、困ってしまい「田中正明先生に会って直接聞いてみる」と言い出して直接先生宅に聞きに行った事がキッカケで南京事件は元より興亜観音、靖国神社などに関りたいと思い始めた。
 今思うと私自身もしかして運命めいたものが有ったのかも知れない。
 何故なら時折、不思議な糸にたぐり寄せられている様な気がする。
 私は昭和42年1月31日生まれである。
 同月の10日にパール博士が亡くなられており、その丸々3週間後に誕生している。
 更に今から6年前に私は突然バングラ・デシュにODAの一員として参加した事がある。
 そして電話設備を敷設するために全土を駆け回った。
 パール博士はベンガル地方の生まれで現バングラデシュで生まれたそうだ。
 そして一昨年にはパール博士のご子息と会う事も出来た。
 私にとっては、余りにも何か運命めいたものがある様な気もするが、その他にも不思議な出来事がいくつかあるのだが又の機会にしたいと思う。
 とにかく興亜観音に参加してて3年にもなるがどうしても運命めいたものがある様な気がしてならない。

南京事件の真実が知りたい

 お恥ずかしい話しだが数年前まで私は南京事件が有ったと考えていた。
 どうして今の様に変わったかと言えば、米国留学後に、田舎から悪友が上京し、観光ついでに、生まれて初めて靖国神社に行った。
 その時、遊就館で山本建造著『大東亜戦争は正当防衛であった!』という小冊子を二百円で購入した。
 中に「南京事件はデマである」とする記載があり、当時の私は「こんな意見もあるんだ。」程度しか感じなかった。
 ところが、これが始まりだった。
 その後バングラデシュに行きその後、再び米国に留学する。
 その留学先の航空学校では欧州、東南アジア、中東等から生徒が集まっていた。
 当時、日本はバブル全盛期と言っても百万円はそれでも大金である。
 さらに日本以外の国から来ている人達にとってはかなりの負担でもあった。
 彼らの親族や自身の仕事はかなりハイ・クラスだった。
 ところで、ある日、その学校でスミソニアン博物館の原爆論議について皆が私に尋ねて来たのだ。
 元々私は自衛隊にいたし、階級は軍曹であった。日本軍(「自衛隊」と言っても通じない)の軍曹と言えば、フランスの兵、日本の下士官、ドイツの士官と言われる位に一目置き要するに日本人自身どのように認識しているか、それなりの経験を持つ私に聞きたかったらしく、私は学校で教えられた様に素直に「ハワイの真珠湾を攻撃したのはどこの国か、だから原爆展示についてつべこべ言うべきで無い」とハッキリ述べた。
 その時、彼らの多くは何も言わずじっと私を見ていた。
 私は多少、変だな。と思いつつもその時は正しい事を述べた、という気持ちでいっぱいだった。
 それから帰国と渡米を幾度か繰り返しながら各種免許を取得していく内に航空機の歴史に興味を持ち始めた。
 飛行機の歴史は戦争の歴史である。
 私は丹念に調査をし始めて行き、そして昭和12年の第2次上海事変を調べているうちに南京戦である不思議な事に気付いた。
 それは30万人も殺されたと言われているにも関わらず、死体の山が見あたらない。
 それどころか一目で見て合成と分かる幼稚な写真や地獄のごとき風景を想像していたのに全く逆の風景の写真である。(私の世代は写真週刊誌のヤラセを見なれており写真にヤラセがある事は子供の頃から知っている。
 私の脳裏には山本建造著「大東亜戦争は…」が再びよぎった。

洗脳が解けた時

 そして南京事件に関する調査を続けているうちに私の洗脳は徐々に氷解し始めて行った。
 それでも最初、日本軍は報道管制を引いていたのではないか?調べればその一片でも見付かるのではないか?と考えていたが山積の死体は兵士の死体(戦争だから当たり前、当時は無抵抗の市民が殺されたと教えられていた)ばかりでこれのどこが虐殺なのか?と思い始めた。
 そしてもう一度あの山本建造氏の読みやすいマンガ冊子を丹念に読んだ。
 すると当時の南京には120余名もの報道陣がいたにも関わらず現在言われているような光景を見た者はただの1人としていなかった。
 全て戦後に言い出した事であることをを知り、私はショックを受けた。
 そして日本は侵略行為を行っていない事を・・・・その小冊子でさらに知った。
 私は先の米国留学時に述べた事は事実無根である事を知り、そして自分に対する激しい嫌悪感が生まれた。
 私は、その時はそれが正しい事と考えていたが自国の罪を正直に述べる事は決して悪い事ではないと、考えていたのだ。
 だが事実と相反する事を世界各国から集まって来ている連中の前で述べてしまった。
 私は決して事実無根の罪をしたてあげたい訳ではなく、私自身日本に対する愛国心は人一倍強いつもりだ。
 だからこそ正直に述べたつもりだったがそれは逆に日本の罪をねつ造してしまったのだ。
 私はその後何とかしてかつての私の様に、今も洗脳されて続けている人達に真実を知って欲しくなった。

私の特技、パソコンとインターネット

 95年冬から「ウインドウズ95」というパソコンソフトが出回り初めていた。
 この画期的なソフトはパソコン通信(通称インターネット)が利用でき、電話線一つあれば日本国中・各国どこでも容易に情報を送受信出来る画期的なモノだった。
 私はまずニフティという国内向け通信にて南京事件の真実を伝えようと、し始めた。
 ところが当初、私の意見は誰にも受け入れられなかった。
 だが根気良く、粘り強く説得している内に仲間が若干出来始め。
 そのニフティでは、田中先生から教えて頂いた資料で勉強したにも関わらず結局は論争に敗北した。
 だが私は敗北理由を研究し常時資料を提供し続ける事が出来るインターネット上に入手しにくい南京事件資料を提示し多くの人に見て頂く為にホーム・ページを作成した。(ニフティは掲示が一日で消去されるため継続的な資料提供が出来ないという弱点がある)
 南京事件を信じる人達の、大きな理由は資料が世間一般に流通しないからなのだ。
 私は経験上その資料を提供する事で皆の洗脳が解けるはずと考えた。
 そして、独自のサーバーも完成させた。
 ところで、この3年の間に小林よしのり著「ゴーマニズム宣言」にも取り扱われた事もあって若者達の中にも南京事件に対する認識が変わりつつある。
 徐々に南京事件に対する探求の興味が湧き上がりつつある。
 ところで興亜観音を創られた松井大将は東京裁判で南京事件という冤罪を着せられ殉難死されている。
 その東京裁判の一つの目玉として南京事件は存在するがこの事件が事実とは違う事を知れば、東京裁判自体その構造は崩れ去る。
 これは松井大将の名誉回復にもつながり、最近米国においてアイリス・チャン著「ザ・レイプ・オブ・南京」によって南京事件に関する関心が高まりつつある。
 これは逆に言えばチャンスなのではないかと私は考える。
 もし仮に南京事件が無かった事を証明すればこのピンチをチャンスに変える事が出来るのだ。
 今後の我々自身の努力次第では逆に優位になるのではなかろうか?
 私達に課せられた問題はいかにして対外的な反論活動を行う事こそが急務であると考えられる。


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