興亜観音開基六十年、
興亜観音を守る会創立六周年の当たって

興亜観音を守る会 田中正明会長近影

興亜観音を守る会会長 田中正明


 本年は熱海伊豆山に松井石根大将発願の興亜観音が建立され、開眼式が行われてから満六十年となる。
 またこれを支える「興亜観音を守る会」が結成されて満六周年を迎える。
 松井石根大将が上海派遣軍司令官として赴(おもむ)かれたのは昭和12(1937)年8月であった。
 上海戦では我に倍する敵に苦戦したが、その後抗州湾に上陸した第十軍と共に、怒涛の如く首都南京に教到し、遂に昭和12(1937)年12月13日これを攻略した。
 大将は翌昭和13(1938)年2月帰還後、天皇陛下に復命したが、大将の考え方は、支那事変は日支双方とも莫大な生命を消滅しており、実に千歳の悲惨時である。
 この犠牲は、興亜のための尊い礎石なのである。
 大将はこうした信念からこれらの霊を弔うために日支両軍の戦血に染みた戦場の土を取り寄せ、これに日本の陶土を加えて観音像を作ることを企画した。
 大将は尾張常滑の仏像陶工師柴山清風氏に協力を諮(はか)られた。
 帝展審査員小倉右一郎氏の指導により成就したのが堂側に安置された高さ一丈の合掌観音である。
 さらに尾張瀬戸市の後の人間国宝、加藤春二氏によって高さニ尺の堂内の本尊が製作された。
 この本尊の左右に「支那事変日本戦没者霊位」と「支那事変中華戦没者霊位」を併置した。
 大将の怨親平等の精神である。
 堂宇は、名古屋の社寺専門の宮大工魚沢弘志棟梁が、熱田神宮造営の余材が保存されてあったのでこれを寄附して、設計建立にあたった。
 敷地は、かつて大将が南京の戦塵を洗うために投宿した時、淙々園主古島安二氏が大将の興亜観音建立の構想にいたく感銘して、鳴沢山の中腹の一部を寄進したものである。
 街道から境内に到る約三百メートルほどの土木工事等は、熱海市の在郷軍人会、青少年団等の勤労奉仕によるもので、市長樋口修次氏は興亜観音奉賛会会長として協力を惜しまなかった。
 本堂天井の「龍の墨絵」は著名な日本画家堂本印象画伯の力作であり、その他の壁画も当代一流の洋画家宮本三郎ら、の油絵で見事である。
 開眼式は昭和15(1940)年2月24日、願主松井石根大将をはじめ、朝野の名士、戦没者遺族多数参列のもと芝増上寺貫主大島徹水僧正を導師として盛大に行われた。
 なお境内には、松井大将らA級戦犯として殉国刑死された7士の碑とその遺骨、ABC級戦犯として殉国刑死された1068柱の追悼碑が建立されている。
 因みに興亜観音は建立以来、伊丹忍礼・妙真夫妻が堂守りとして尽くしてきたが、先年相次いで他界された。
 その遺志を継いで三姉妹の妙徳尼、妙晄尼、妙浄尼が交代で観音を支え続けている。
 (興亜観音を守る会)設立当時の有力な奉賛会の役員はほとんどこの世を去り、その存続すらも危ぶまれるところから、奉賛会の責任者役員の方から孤峯会に支援の依頼があった。
 かねてから興亜観音の護持に熱心に関与していた三明正一氏、徳富太三郎氏の陸士58期の同期生らが一斉に起ちあがり、平成6(1994)年9月12日に九段会館において守る会の発起人会が開かれた。
 かくして6年11月18日に熱海の川口市長や内田前市長も出席して熱海水葉亭で発会式が開かれ、78名が参加、不肖私が会長の任を仰せつかった。
 事務局長は陸士58期の渡邊二雄氏で、現在会員数2300名、寄進額は平成12年7月迄に****万円に達している。
 また建立以来60年の歳月で荒廃した堂宇前の舞台の改修や参道の整備など、一昨年来徳富運営委員を中心に進められたが、その費用****万円を支弁することができた。
 なお、道路の落石防止など未完成の工事は今後の課題である。


会報12号・目次のページへ