●講演録●
南京大虐殺の徹底検証
20世紀最大の嘘南京大虐殺の徹底検証(前編)
■ 平成12年1月23日 於・大阪国際平和センター(ピースおおさか)

■ 念法真教機関紙「鶯乃声」平成12年3月号より転載■

亜細亜大学 東中野修道教授近影

東中野 修道 亜細亜大学教授


事件は必ず調べられる

 昨年の暮れ、ハワイに行きました。
 5日間の滞在でしたが3つのことを経験いたしました。
 私より1日遅く日本から来たというお年を召された男性が、嫌なことがあるもんですね。今日ハワイに着きましたけど、機内に、2、3時間も閉じ込められ随分疲れました」と仰るんです。
 「どうして閉じ込められたんですか」とお尋ねしましたら、「ホノルル空港で爆発物が仕掛けられたことが発見され、それで」と仰る。
 「爆発物は見つかったんですか」とお聞きしましたら「見つかったようですが、どうも日本人が仕掛けたようですよ」ということでした。
 爆発物ということにも驚かされましたが、日本人の犯行と聞いて、もっと驚かされ、がっかりしたことでした。
 ところが翌日、現地のバスガイドの日本人の方が仰るには、その爆発物というのは日本人のスーツケースに新型の小型ビデオカメラが入っていて、それがホノルル空港の係官には爆発物に見えたということでした。
 私たちはたまたま真相を聞きましたので真実を知りましたが、その話をされた男の方は事の顛末(てんまつ)を知られたのだろうか、まだ爆弾騒ぎというふうに思っていらっしゃるのではないかと思ったりしました。
 2つ目は、交通事故の目撃です。
 私たちが乗ったミニバスが時速20キロ10キロとゆっくり徐行しておりました。
 ちょうど20メートルくらい先にライトバンが停まっておりました。
 そのライトバンと私たちの間から乗用車が出て来て右折し、ライトバンに近づいた時、ライトバンの運転手がそれに気づかずドアを開けてしまった。
 接触事故です。
 ライトバンの運転手がどんなに自分の正当性を主張しても、車の破損状況や当事者の事情聴取、また大通りや私たち旅行者の目撃者により、非はライトバンの方にあると、話は一致すると思います。
 3つ目は、昼過ぎにホテルで休んだのちカーテンを開けてみますと、ホテルに隣接する真向かいのマンションの駐車場に、人の死体が見えました。
 正確には死体の上にビニールが被せてありましたが、手が見えていました。
 その死体の横には人の形のような血痕が残り、肉片が散らばり、死体の場所からは血が流れていました。
 非常に喫驚したのですが、警官が来て事情聴取をしており、もし私がたまたまその死の瞬間を目撃していましたら証人となっていたことでしょう。
 その死体が警察の車で運ばれたのが4時過ぎでした。
 この3つのことから言えることは次のことなんです。
 事件というものは必ず調べられる。
 そして結論が出るまで、答えが出るまで、調べ上げられるということなんです。
 今、私が申し上げたことを、どうか心の片隅にちょっとおいて南京の問題を御一緒に考えていただきたいと思います。

市民に対する虐殺はなかった

 いわゆる南京大虐殺事件というのは、昭和12(1937)年12月13日に南京が陥落してから起こったと言われています。
 虐殺とは、市民や、捕虜が、軍隊により、組織的に殺害されるということです。
 従って、この事件の検証のポイントは、市民が組織的に殺害されたのか、捕虜が組織的に殺害されたのか、殺害されたとすればその数はどのくらいだったのか、などです。
 ところが今日「虐殺数」に関しても、30万人虐殺だとか20万人虐殺だとか4万人虐殺だとか、はては3千人虐殺だとか、まちまちに言われていて、答えは一致しておりません。
 これは未だにこの事件が調べつくされていないということではないでしょうか。
 そこで、まず最初に、南京で市民が大量に殺害されたのかということから話を進めていきたいと思います。
 昭和12(1937)年12月8日、南京が陥落する5日前の日、重要な決定が2つ出ます。
 まず城門が全て閉門されます。
 南京の城壁は東京の山手線と同じ34キロなんです。
 ちなみに大阪の環状線は22キロです。
 その城壁の出入り口となっている城門が閉じられるのです。
 もう1つは南京城内の市民は全員が安全地帯に避難するようにという、南京防衛軍司令官唐生智の避難命令が出ます。
 その安全地帯というのは避難民のための非武装地帯で、広さは3.86平方キロメートルです。
 従って、0.96平方キロメートルの皇居前広場の4倍の広さになります。
 そこに20万人が避難しました。
 王固磐警察長官が、南京陥落の約1ヶ月前に南京残留市民20万人と発表していました。
 その数字が国際委員会に踏襲されて、国際委員会は人口20万人というふうに発表したわけです。
 しかしこの20万人という数字の根拠の裏付けが長い間分からなかったのです。
 ところが、国際委員会委員長ラーベの日記が出たことにより初めて判明しました。
 次に、安全地帯の外はどうだったのかと言いますと、安全地帯の外から内に市民全員が避難しておりましたから、安全地帯の外は無人地帯でした。
 ラーベの日記には城内の安全地帯の外は人影が無いと書かれてあります。
 日本軍の戦闘詳報にも人が見えないと書かれてあります。
 そして、ティンパーリ編の「戦争とは何か」にも安全地帯の外は「事実上の無人地帯」と書かれてありますから、これは一致しているわけです。
 城壁の外、城外ですが、そこはどうであったかと申しますと、城外は戦場となることが予測されておりました。
 戦場となるところに残るような物好きな市民はおりませんから、城外の市民は安全地帯に避難するか、遠くへ逃げておりました。
 従って安全地帯以外は事実上の無人地帯であったと考えるのが自然です。
 ところが、中国系アメリカ人のアイリス・チャンは、安全地帯以外に多くて30万人が残留したと書いています。
 そんな30万人という人間の大集団を目撃した記録は1つもございません。
 そういう人間集団が城外にいるということに触れた記録も1つもございません。
 以上のことから全ての市民が南京の安全地帯に避難していたと考えるのが自然になります。
 そのような状況のもと日本軍が城内に入ってきました。
 12月13日に南京が陥落して、注意深く一歩、一歩、足を進めて城内の飛行場の西の第一公園まで進みます。
 そこから更に西に進むと鮨詰めの安全地帯の南端に達することになりますが、それは翌14日のことになります。
 13日の時点では日本軍がまだ安全地帯に入ってなかった。
 ところがアイリス・チャンは、12月13日に南京が陥落すると日本軍は手当たり次第に殺しまくって、最終的には30万人が殺されたと言っております。
 そんな大量無差別殺害というものはラーベの日記にも出てこないわけです。
 もちろん、同時代のどの記録にも出てきません。
 安全地帯の外は無人地帯でしたから、無人地帯で殺人などできるはずもありませんでした。
 また、安全地帯で日本軍が組織的に市民を殺害したと仮定しますと、必ず誰かが目撃していたはずです。
 というのは安全地帯の面積は先程も言いましたように3.86平方キロメートルでした。
 計算しやすいように4平方キロメートルとしますと、そこに20万人が避難していたということは、100平米(30坪)の土地に5人が避難し、縦5メートル、横4メートルの20平米の土地に1人がいたことを意味します。
 殺人とか強姦とかの不祥事件が発生すれば誰かが必ず目撃していたわけです。
 ところが、その大量市民殺害の目撃の記録がありません。
 国際委員会委員長ラーベも、日本軍も、全く目撃しておりません。
 何よりも安全地帯の掃蕩(そうとう)を担当した日本軍第9師団の第7連帯は13日ではなく、14日に、安全地帯に入っています。
 では実際どれくらいが安全地帯で殺されたのか、どのくらいの殺人事件があったのか、それが「南京安全地帯の記録」という本に記録されています。
 本書は重慶の国際問題委員会の監修の下に準備作成されたと書かれてあります。
 編者は燕京大学(現北京大学)教授の徐淑希でした。
 この本が1939(昭和14)年に上海、香港、シンガポールで出版されます。
 ここで重要なことは、中華民国の国際問題委員会 Council of International Affairs というのは政府機関であると考えられる点です。
 その理由は、委員会と申しますと、私どもの日本では民間機関というふうにも考えられますが、中華民国の委員会はれっきとした政府機関でもありました。
 たとえばナショナル・ミリタリー・カウンシルと言えば、これは中華民国政府の軍事委員会のことで、蒋介石が委員長でした。
 この「南京安全地帯の記録」すなわち「ドキュメント・オブ・ザ・ナンキン・セイフティ・ゾーン」というのは、南京市民の被害届けの総特集です。
 この本の中に何件が書いてあるかと言いますと、殺人事件は26件です。
 被害者は52人です。
 ところがそのほとんどが伝聞、つまり他人から聞いたという噂に過ぎませんでした。
 殺人の瞬間を目撃したというのは2件です。
 しかも2件とも合法です。
 目撃はしなかったが死体が確認されたという事件が3件で、死体は6体でした。
 これが南京の市民に関する被害の全体像です。
 日本国政府外務省は、非戦闘員に対する殺害は動かすことのできない事実であると申しますが、どこにその主張を裏づける確証があるのでしょうか。
 こういうふうに申しますと、1人殺しても虐殺は虐殺だと仰る方がいらっしゃいますので、ご参考までに申し上げておきます。
 戦前海軍の鎮守府のあった広島県呉に昭和20(1945)年10月6日、アメリカ軍が占領のためにやってきました。
 呉には昭和21年2月から昭和27年までは英連邦軍(同年末現在で、豪軍、インド軍、英軍、ニュージーランド軍)が駐留しますが、昭和20年10月6日から年末迄の50日間に、アメリカ兵による殺人事件の被害者は14人でした。
 呉大虐殺とでも言ってよろしいでしょうか。
 それは言えません。
 その理由は、個々の兵士の悪行から市民殺害に至ったことと、軍隊が命令して組織的に殺害したこととは、区別しなければならないからです。
 これは要するに個々の兵士の悪行の結果と言えます。
 さて南京の問題に戻りますと、先程申しましたように陥落後に人口は20万でした。
 陥落後に虐殺があったのであれば当然人口は減ります。
 ところが陥落1ヶ月後の人口は25万人に増加します。
 人口25万人というのは国際委員会の記録に出て来る国際委員会の認識でした。
 何故25万人というふうに国際委員会が発表したかと申しますと、日本軍が市民に良民票を発行して市民登録を行っておりました。
 しかしその際「10歳以下の子供」と幾つかの地区では老女が含まれていなかったため、それを勘案して国際委員会は1月14日、「25万から30万」と発表していますが、これを多すぎると見て17日には25万と下方修正します。
 虐殺があれば人口は減る。
 平和で安全であれば人が集まって人口は増えます。
 従って、5万の人口増加、正確には4万なのか6万なのか分かりませんが、ともかく、数万人の人口増加という認識に、誰も異論を唱えなかった。
 そのことに注意する必要があるわけです。
 数万人増加というのは人が増えて安全であったことを意味するのであります。
 つまり市民に対する虐殺がなかったということを強く私たちに示唆しているわけです。

非捕虜の処刑は違法ではない

 次に捕虜が殺害されたかということに話を移します。
 昭和12(1937)年12月14日、南京陥落の翌日に初めて第7連隊が安全地帯を掃蕩(そうとう)します。
 掃蕩というのは軍事用語でして、敵を蹴散らすという意味です。
 陥落直前、安全地帯に、支那の多くの正規兵が軍服を脱ぎ捨て、武器を隠し持って潜伏しました。
 司令官が逃亡していましたから、高級将校、その他も逃亡しました。
 そこで烏合の集団となった支那兵たちは、指令官が逃亡した悒江門から逃げ出そうとします。
 しかし支那軍の督戦隊が、兵士の逃亡を阻止するため、機関銃で友軍兵士を撃ちはらったため、死体の山ができます。
 やがて督戦隊も逃げますが、1つの門に多くの兵士が殺到したため、かなりの兵士が圧死しました。
 ちょっと横道に逸(そ)れますが、現在小学校で使われている教育出版の教科書「社会6上」は、南京事件に関して次の様なアメリカの新聞記者の目撃談話を載せています。
 「ナンキンの道路上には、たくさんの死体が横たわっていた。私たちは、時には死体を前もって移動させてから自動車で通行することもあった。」
 これは12月18日の「ニューヨーク・タイムズ」に出たダーティン記者の記事です。
 これを読んだ小学生は日本軍に殺された死体の山を連想するでしょう。
 ところが、その死体の山は、支那兵が悒江門から城外へ脱出する際に「踏みつけ」合って「圧死」してできたものでした。
 ダーティン記者とスティール記者は、南京陥落50周年後に、そのように訂正し、真相を告白しています。
 つまり南京陥落直後の城内の兵士は次のように分類が可能でした。
 (1)戦闘で戦死した兵士
 (2)野戦病院に運び込まれた負傷兵と、運び込まれたけれども死んだ兵士
 (3)支那軍の督戦隊に撃たれて死んだ兵士
 (4)城壁から城外に脱出した僅かの兵士と、脱出時に転落死した兵士
 (5)悒江門を通って城外に出た兵士
 (6)軍服を脱いで、武器は捨てるか隠匿(いんとく)して、城内の安全地帯に潜伏した兵士

 以上の6種類に分類が可能です。
 このうち問題になるのが、武器を隠匿して安全地帯に潜伏した兵士です。
 もし支那の軍隊が安全地帯で蜂起して日本軍を攻撃しますと、安全地帯が戦場になります。
 市民が傷つきます。
 日本軍も安全が脅かされます。
 そこで南京市民と日本軍の安全を確保するため正規兵の摘発が必要不可欠となってきたわけです。
 ここで断っておきますが、もし安全地帯に1人の支那兵も逃げ込んでいなければ、また欧米人が安全地帯に逃げ込んでくる支那兵の侵入を断固として拒否していたならば、日本軍の掃蕩も摘発も処刑も必要なかったわけです。
 このような状況の下で日本軍は摘発しました。
 そして反抗的な兵士を処刑し、その他の兵士を捕虜として扱い、苦力(クーリー、人夫)として働かせておりました。
 問題は、この時の処刑が不法殺害に当たるのかどうかということなんです。
 まず認識しておかなければならないことは、戦争という状況下の出来事であったということです。
 平和な状況下であれば、それは酷(むご)い、可哀想だと、色々な意見が出て来ますが、殺すか殺されるか、一瞬を争う時には何を判断基準にするか、判断基準がどうしても必要となってまいります。
 それがハーグ陸戦法規です。
 戦争には戦争のルールがあります。
 戦闘員には戦争における義務と戦争における権利があります。
 それを定めたものが「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」です。
 ご存知かと思いますが、これについて簡単に説明しておきます。
 これは、「陸戦に関する諸法規を包括的体系の下に成文化した唯一の条約として、この条約は不滅の意義を担う」と、今日なお専門家に評価されている戦時国際法です。
 簡単にはハーグ陸戦法規と言いますが、これは条約附属書が「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」です。
 その第一条が「交戦者の資格」となっております。
 最も重要な事項が第一条に出てきますが、それが「交戦者の資格」なのです。
 言葉を換えて言えば「交戦者の資格」とは「捕虜の資格」なのです。
 第一条を読んでみます。

 第一条[民兵ト義勇兵]戦争ノ法規及ビ権利義務ハ、単ニ之ヲ軍ニ適用スルノミナラズ、左ノ条件ヲ具備スル民兵及ビ義勇兵団ニモ亦之ヲ適用ス、
 一、部下ノ為ニ責任ヲ負フ者其ノ頭ニ在ルコト
 二、遠方ヨリ認識シ得ベキ固著ノ特殊徽章ヲ有スルコト
 三、公然兵器ヲ携帯スルコト
 四、其ノ動作ニ付戦争ノ法規慣例ヲ遵守スルコト

 この「交戦者の資格」四条件は「民兵ト義勇兵」にのみ適用されると解釈される人がいます。
 しかし立作太郎(たちさくたろう)「戦時国際法論」(日本評論社、昭和6年)が4条件に触れて、「正規の兵力たるときは、是等の条件は当然之を具備するものと思惟(しい)せらるる」と言うように、正規兵も当然この4条件を順守することは、言わずものがなの鉄則でした。
 そこでこの「交戦者の資格」4条件を支那軍正規兵に当てはめて考えてみますと ------ 。
 「」にあるように、部下のために責任を負う指揮官をいただくことは、味方にとっても、敵にとっても、大変重要でした。
 たとえば指揮官がいれば指揮官の命令のもと全軍一丸となって降伏することができます。
 指揮官がいなければ全軍一丸となった行動が望めない。
 一方がバラバラの行動に出たら、他方が困ります。
 ところが南京の支那軍は昭和12(1937)年12月12日20時に司令官の唐生智が逃亡していました。
 このように指揮官不在ということは第一条件に違反していました。
 「」は遠方より認識できる固有の特殊徽章を有することでした。
 交戦者と非交戦者とを区別することがハーグ陸戦法規の最も重要な観念でしたから、戦闘に市民が巻きこまれないように遠くから戦闘員と分かるよう、軍服を着て階級章を着けていることが、交戦者の守るべき義務でした。
 ところが城内の支那軍は軍服を脱いで安全地帯に潜伏しました。従って第二条件に違反していました。
 「」は公然と兵器を携帯することでした。
 外国の新聞をご覧になると分かりますが、紛争地の兵士は公然と兵器を携帯しています。
 隠し持っていません。
 ところが支那軍正規兵は武器を隠し持って安全地帯に潜伏しました。
 日本軍の特務機関はトラック50台分を摘発しました。
 従って第三条件に違反していたわけです。
 「」は戦争法規を遵守することでした。
 たとえば第一条の「一」「二」「三」その他を守らなければなりません。
 ところが第三条件を破っておりましたから第四条件にも違反していたことになります。
 ここで注意すべきは、義務を守って初めて権利が生じるということです。
 義務の違反は権利の消滅を意味します。
 南京の支那軍正規兵は「交戦者の資格」第四条件を守っていませんでした。
 従って彼らは囚われても捕虜となる法的資格がなかったのです。
 囚われても捕虜に非ず、今はここではこれを「非捕虜」と申し上げておきます。
 また、今ここでは彼らの法的資格を問題にしているのであって、実際にはこの「非捕虜」を日本軍は相当数「捕虜」として待遇していたことをも言い添えておきます。
 さて、彼らの法的資格の問題ですが、「捕虜の処刑」と「非捕虜の処刑」とでは、意味が全く違います。
 「捕虜の処刑」は明確に禁止されています。
 しかし、「非捕虜の処刑」は明確に禁止されていません。
 しかも「現代戦争論」(啓正社、昭和54年)において足立純夫防衛大学教授(当時)が書かれているように、「武装部隊は、戦争法規で明確に禁止されていない一切の手段をもって敵を攻撃し又は敵に抵抗する権利を有し、敵が抵抗を継続している限りそれを破摧(はさい)することができる」のです。
 安全地帯の支那軍正規兵は「降ヲ乞ウ」て来ませんでしたから、抵抗を継続していたと認識されます。
 このような時、明確に禁止されていない「非捕虜の処刑」が行われたとしても、それは合法であるということになります。
 従って、後に述べますように、南京の欧米人も日本軍の処刑を合法と認識していました。
 今ここではそれだけを申し上げて先に進みたいと思います。
 (後篇次号へ続く)


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