●講演録●
南京大虐殺の徹底検証
20世紀最大の嘘南京大虐殺の徹底検証(後編)
■ 平成12年1月23日 於・大阪国際平和センター(ピースおおさか)

■ 念法真教機関紙「鶯乃声」平成12年3月号より転載■

亜細亜大学 東中野修道教授近影

東中野 修道 亜細亜大学教授


4万体で埋葬は完了

 さて、今まで市民が殺されたのか、捕虜が殺されたのか、という順序でお話してきました。
 そこで次に全体としての被害者数の問題に移りたいと思います。
 この数の問題は埋葬の記録から合理的な判断が可能となります。
 南京の支那の正規軍が死体を放置したまま逃げますと、その死体を片付けるということは、ペストやコレラの疫病の発生を防ぐという意味から日本軍の行わねばならない宿題となりました。
 日本軍特務機関がその埋葬計画を立て、佐方繁木特務機関長がその実行を特務機関の丸山進氏に一任いたしました。
 丸山氏は埋葬を紅卍字会に一括委託し、2月上旬から始めて3月15日頃には終わったと言います。
 また一体当り手数料0.3円を支払ったということを証言されています。
 0.3円と言うと、当時中華民国の警官の月給が3円から5円の時代に、0.3円支払われたわけです。
 この丸山さんの証言を裏付けるものとして、例えば南京救済国際委員会、――国際委員会というのは2つございまして、今申しましたのは南京安全地帯国際委員会が発展的解消を遂げて、昭和13年2月下旬にできた国際委員会です。
 その南京救済国際委員会が支那事変から2年後の昭和14(1939)年、夏に「南京救済国際委員会報告書」という英文の報告書を出版しました。
 その報告書の中に、「必要な埋葬作業の全てが紅卍字会によって行われた」とありますから、埋葬は全て紅卍字会が行ったという丸山さんの証言と一致するわけです。
 さらに「埋葬完了のために2千5百40万ドルが使われた。実働約40日間に紅卍字会はおよそ170人を雇った。実働1日あたり40セントの標準賃金で請け負われた」と書いてあります。
 そこで計算してみますと、1日に170人を雇って、1人当り0.4ドルを支払いますと、1日当たり68ドルを支出したことになります。
 1日68ドルの支出額を37.3倍しますと2540ドルになります。
 つまり実働約40日間というのは38日と推定できます。
 丸山さんに私が初めてお会いしたのが平成7年でございました。
 それから2年後の平成9年でしょうか、ラーベの日記の翻訳が出ました。
 そのどこかに埋葬開始の記述があるのではないかと思って読んでましたら、2月1日に埋葬が始まったとラーベは書いております。
 そうしますと2月1日から3月15日までは43日間となり、「南京救済国際委員会報告書」の言う実働38日よりも、5日多いではないかという疑問が出てきます。
 が、これは当然でして、雨が降ると道路が泥道になり、大八車を引っ張れない。
 作業中止です。
 従って丸山氏の証言と先ほどの計算がほぼ一致するわけです。
 つまり実働38日から40日であったことが確認されます。
 次に全体で埋葬体はどのくらいになったかを計算していくことにします。
 2月は1日200体は無理だとラーベも書いております。
 丸山さんも仰(おっしゃ)っております。
 しかし最大限の200体が連続25日間埋葬されたとしても、2月は5千体の埋葬です。
 3月は、ドイツの南京大使館ローゼン書記長のベルリン外務省宛て報告書(3月4日付)に、1日600体×15日で、3月の埋葬は9千体です。
 これを足しますと1万4千体、簡単に1万5千体と申し上げておきましょう。
 私にとりましては、実質1万5千体であろうと公称4万体であろうと、それほど問題は無いのです。
 ただ実際には1万4千体、それに揚子江に少し流された死体もありますから1万5千体と判断しました。
 ところが紅卍字会は既に埋葬完了当時から4万3千体と公称していました。
 丸山氏はそれは「水増しの事実を知りながら何故お認めになったんですか」とお尋ねしましたら、「先生、私たち特務機関の仕事は難民救済です。難民の救済のためにはお金を放出しなければならない。だから目を瞑(つぶ)って市民活性化のために出したのです。」と仰ってました。
 そうしますと、南京の埋葬は実質1万5千体で、公称4万人しか死体が無かったということは、多く見積もっても5万人以上は殺されなかったということを意味する。
 4万人虐殺が主張できる上限です。
 ですから中華人民共和国が30万人虐殺だとか、或いは笠原十九司教授達が20万人逆殺だとか言うのは、全く根拠の無いことになります。
 その笠原教授達が、「南京大虐殺否定論十三の嘘」という本を出しましたが、その本は「南京救済国際委員会報告書」が<南京の埋葬は紅卍字会によって完了した>と記録していることは完全に無視しています。
 南京の埋葬は紅卍字会の作業で完成した、水増し数を除けば紅卍字会の埋葬で完了したと考えるのが正しい。
 そのことがこの「南京救済委員会報告書」に書いてあるわけです。

南京の欧米人も認めていた

 そこで、この公称4万人がアウシュビッツのように虐殺された死体なのか、換言すれば<殺害された市民と捕虜の死体>なのか、それとも<戦場で戦死したり合法的に処刑された死体>なのかということが、残された問題となってくるわけです。
 このことについて私は先程、市民の虐殺はなかった、支那兵の処刑は合法であった、と述べました。
 これより確実なものとして裏づけているのが次の事実です。
 当時、南京虐殺事件について、南京の欧米人の外交官や大学教授は次のように検証をし、次のような結論を出したという事実について、話をしたいと思います。
 昭和12年12月18日は南京陥落から5日後の事になります。
 「シカゴ・デイリーニュース」のスティール記者が12月18日付けの「シカゴ・デイリーニュース」に、囚えられた支那兵は「略式裁判もなしに殺戮された」と書きました。
 彼は12月15日、南京を離れていましたから、これは南京の欧米人の間で広く知られていたことを物語っています。
 同じく12月15日、国際委員会が日本大使館宛ての抗議文の中で支那軍正規兵は「法的資格を満した捕虜」であると宣言いたします。
 平たく言えば支那軍正規兵は囚われても戦時国際法に照らして見る限り捕虜となる資格があるから、日本軍は支那兵を捕虜として扱い、決して殺してはならない、と国際委員会は認識していたことになります。
 先程も申しましたように、陥落後、日本軍は反抗的な正規兵を摘発し、白昼公然と揚子江岸で処刑していました。
 南京城内で処刑しては市民に与える影響が良くないということで揚子江岸で処刑していました。
 この処刑を欧米人は「裁判なしの捕虜処刑」であり、違法だ、と判断していたことになります。
 国際委員会は16人の欧米人で組織された私的な組織でした。
 メンバーには、委員会のドイツ人ジョン・ラーベのほかに、南京大学教授ルイス・スマイス等々の社会的地位のある方々が入っていました。
 従って12月15日の4号文書が「法的資格を満した捕虜」というふうに記したことは、国際委員会16人の一致した意見だったと判断されます。
 ところがこの12月15日だけの1日のみで、つまり16日も処刑が行われたはずですが、その後国際委員会のどの文書にも、日本軍は「法的資格を満した捕虜」を「略式裁判もなしに殺戮した」といった記述が一切見えなくなります。
 たとえば、南京のドイツ大使館にゲオルグ・ローゼンという書記官がおりました。
 見るからに日本嫌いと評された方です。
 このローゼンは1月20日付報告書の中で、南京下流の揚子江の中の島で日本軍が18日以降展開する予定の掃蕩に対して、これは「無防備の敵兵の殺害のことであり、人道的な戦争遂行の最高原則に矛盾している」、つまりハーグ陸戦法規に違反していると非難しました。
 ところが、その4日後に、南京の安全地帯で展開された掃蕩に対しては、ゲオルグ・ローゼン書記官は一言も非難の言葉を発していないのです。
 それから4日後の1月29日付報告書の中でジェッフリィ英国領事は、「軍(日本軍)の法律無視が続いている。司令部の統制がないためである。その大多数の事例は略奪の事例である」と書いております。
 事の当否を別にすれば、略奪が日本軍の法律違反の典型であるとは言っておりますが、虐殺が日本軍の戦時国際法違反の典型だとは書いていないのです。
 ところがその4日前の1月25日、南京の有名な宣教師の南京大学教授マイナー・ベーツが4万人虐殺説を「メモランダム」の中に書いております。
 これがティンパーリが1938(昭和13)年3月に編集した「戦争とは何か」に掲載されます。
 ベイツは何と主張したいかと言いますと、日本軍は市民を殺すな、捕虜を殺すなと定めた国際法を「無視」して、1万2千人の市民と3万人の捕虜を殺した、と「メモランダム」で主張しました。
 お手元の資料にあるベイツの一文がそれです。
 「非武装の4万人近い人間が南京城内や城壁の近くで殺されたことを埋葬証拠は示している、そのうち約3割は決して兵士ではなかった」
 つまりベイツは埋葬された4万体を全て虐殺されてできた死体とみなして4万人虐殺を主張した訳です。
 これが1月25日に書かれました。
 他方、1月5日、漢口の総統司令部の宋美鈴はアメリカの友人に宛てた手紙の中で南京虐殺数千人に言及しておりました。
 また、2月13日には漢口の「大公報」は日本軍が南京市民2万人を虐殺したと報道しました。
 3月19日には、漢口の準政府機関の支那国際連盟協会が編集する「チャイナ・フォーラム」が8万人虐殺を主張する匿名論文を載せています。
 従って、日本軍は南京で何をしたのかという問いに対して、1938(昭和13)年3月までには異なる2つの見解があった、というふうに指摘できるわけです。

確認された「南京」の史実

 ところが意外な事実が発見されました。
 4万人虐殺を主張するベイツの「メモランダム」は、1938年3月の翌月、4月に、中華民国の国際問題委員会の編纂した「日本人の戦争行為」に再び掲載されました。
 また、「要約・日本人の戦争行為」(1939年1月)、「チャイニーズ・イヤーブック1938−39」(1939年3月)、「南京安全地帯の記録」(1939年5月)にも再録されます。
 この4冊はいずれも中華民国の政府機関と考えられるカウンシル・オブ・インターナショナル・アフェアズが監修した本です。
 カウンシル・オブ・インターナショナル・アフェアズ、漢字表記ではどのように表記されていたか不明ですが、これを直訳しますと国際問題委員会となります。
 この国際問題委員会の監修する本に、ベイツの「メモランダム」がそっくりそのまま再録されたのですが、どうしたことか、右に引用した「非武装の4万人近い人間が南京城内や城壁の近くで殺されたことを埋葬証拠は示している。そのうち約3割は決して兵士ではなかった」という肝心な4万人虐殺部分だけは、右の英文4冊において、そっくりそのまま削除されました。
 ベイツ「メモランダム」の心臓部が中華民国政府機関と考えられる国際問題委員会によって否定されてしまったのです。
 この事実を全く無視して、「南京大虐殺否定論十三の嘘」は論じています。
 そして昭和13(1938)年4月下旬、東京のアメリカ大使館の大使館付き武官キャーポット・コービルが南京までやって来て広く南京の状況を聞き取りました。
 このときコービルと会ったのは、アリソン領事、エスピー副領事、ベイツ教授、スマイス教授(米)、ジェッフリィ英国領事、ローゼン書記官(独)ほかでした。
 彼ら6人は東京のアメリカ大使館のコービル武官に対して、どこそこに死体があるという話はしましたけれども、日本軍の戦時国際法違反の殺害を指摘したことはありませんでした。
 つまり戦時国際法に違反して日本軍が市民や捕虜を殺したという話は一切しませんでした。
 大事なところですので、一緒にお考え頂きたいのですが、このベイツの4万人虐殺否定と南京在住欧米人の言動は、どのような意味を持つのでしょうか。
 私は次のように考えています。
 南京陥落から3ヶ月間、様々な虐殺説が飛び交いました。
 南京在住の欧米人は、すべてそれを知っていました。
 その話が本当なのかどうか調べていました。
 そして終(つい)に陥落から4ヶ月目の昭和13年4月には、日本軍に対する審判を、全員が一致して下したということです。
 日本軍が、南京で虐殺をした、戦時国際法違反をした、ということは妥当であるとは判断しなかったのです。
 それが顕著に分かるのが、ベイツの4万人虐殺説の箇所の4回にもわたる削除です。
 そしてその結論に対して誰も異論を唱えなかったということも重要です。
 1938(昭和13)年3月まで飛び交った南京虐殺の非難は、翌4月を境にして、その後3年間一切公式には言及されません。
 その3年間に見られる主な記述を見てみます。
 たとえば「チャイニーズ・イヤーブック 1938ー39」という支那人の編纂した英字年鑑は重慶の国際問題委員会の所有する「公式資料」から作成されておりますが、この「チャイニーズ・イヤーブック 1938ー39」の中に「捕虜殺害」という章があります。
 その中に、ベイツの「メモランダム」前文が掲載されていますが、4万人虐殺説だけは完全に削除されています。
 その1ヶ月後、昭和13(1938)年5月27日、国際連盟の理事会が開かれます。
 この中で極東に関する決議が採択されますが、南京虐殺ということが出てまいりません。
 毛沢東が5月26日から6月3日まで9日間、あの有名な「持久戦について」という持久戦論をぶちます。
 その9日間の中で南京という言葉が度々出てきます。
 日本軍はまずいことをしたと言っております。
 日本軍は南京で包囲したけれども殲滅しなかった。
 殲滅、すなわち皆殺しにしなかった。
 だから我々は助かったが、日本軍としてはまずかった。
 こういう意味の発言をしております。
 これが5月から6月にかけての講演です。
 そして蒋介石は、7月7日の日中戦争、支那事変一周年の時に「日本国民への声明」と「友好国への声明」という2つの英文のメッセージを発表しましたが、その中で一切「南京虐殺」に触れておりません。
 半年前の1月5日に総統司令部宋美鈴がアメリカの友人に南京虐殺数千人を主張していたにもかかわらずです。
 つまり昭和13年4月に南京の欧米人が下した最終的な結論に対して裏では宣伝があったにしても、公式には誰も一切文句をつけていないわけです。
 次に上海の英文雑誌ですが、アヘン戦争から3年後の1845にイギリス租界が出来て以来、かつての上海には警察権と行政権を外国が持つ租界が成立しておりました。
 その国際都市の上海では、外国人が様々な英文の雑誌を自由に編集し、出版しておりました。
 その英文雑誌は南京陥落3ヶ月間は南京の欧米人の主張を基に「南京虐殺」を書いていましたが、1938(昭和13)年4月以降になりますと文責の明らかな論評は一切「南京虐殺」に言及しておりません。
 さらに、当時の国際連盟の各国の協会の1つとして支那国際連盟協会が存在しておりました。
 準政府機関の支那国際連盟協会の発行する週刊の英文雑誌「チャイナ・フォーラム」は1938年3月19日号が匿名論文で、「南京虐殺8万人」を主張しておりました。
 ところが、それにもかかわらず、日中戦争1周年の時の7月7日号の特集記事「日中戦争の1年−研究グループのための練習問題」は「南京陥落後」を問題にしながら、「南京虐殺」に全く触れないわけです。
 これは自己否定、即ち3月19日号の「南京虐殺8万人」説の白紙撤回でした。
 この事実もまた今まで隠されてきたわけです。
 同じことは、支那に関する最も権威ある英字年鑑「チャイナ・イヤーブック」に関しても言えます。
 上海で英国人の編集発行する「チャイナ・イヤーブック」1938年版は末尾に「過去の主な出来事」という索引を載せております。
 その索引の「南京」の項目に出てくるのは、1927(昭和2)年3月に蒋介石の国民革命軍が日英米3カ国の領事館やキリスト教会を組織的に襲撃して5人を虐殺した忌まわしき「南京暴行事件」でした。
 しかも、この歴史認識は誰からも非難されませんでしたから、翌年の「チャイナ・イヤーブック」1939年版もこの歴史認識を明記しつづけています。
 つまり南京で戦時国際法違反の市民殺害(や捕虜殺害)があったとすれば、それは1937年の日本軍南京占領時ではなく、その10年前の支那の国民革命軍南京占領時であった。
 この事実が「南京大虐殺否定論十三の嘘」という本では完全に無視されております。

「南京」の悲劇

 このように、多くの人が3ヶ月間「南京虐殺」を散々主張した揚げ句、昭和13(1938)年4月以降は「南京虐殺」についての言及がばったりと止まるのです。
 このような状況をどのようにお考えになりますか。
 私はいわゆる南京大虐殺事件に関しては既に1938(昭和13)年4月の時点で一致した答えが出ていたと考えます。
 それにもかかわらず、その答えが人目につかないよう隠されてきたと考えます。
 最初のハワイの死体に戻りますと、仮にそれを検証した警察が、自殺という結論を出したとします。
 その自殺という結論を否定して、たとえば、1年後に、いや自殺ではないんだ、他殺なんだというためには、その他殺説を支える決定的な新証拠が出されなければならないわけです。
 同じように、1938年4月の段階で南京の欧米人が一致した結論を出していたにもかかわらず、それを覆(くつがえ)そうと思うのであれば、それを覆すに足る決定的な新証拠を提示する必要があります。
 しかしそのようなものは存在しませんでしたから、1938年4月から3年間「南京虐殺がなかった」という欧米人の一致した答えを、誰も覆すことができませんでした。
 ところが、エドガー・スノーの「アジアの戦争」(1941年)はベイツの4万人虐殺説が再三再四「公式資料」から削除された事実をひた隠しにしたまま、ベイツ説を基に4万人虐殺を主張しました。
 しかもスノーは兵士と市民の比率を逆転させ、そのうえ大部分が女子供であったとベイツの言わないことまで主張します。
 しかし、そこには、新証拠も新発見も何もありませんでした。
 ただの蒸し返しでした。
 この蒸し返しが日本にとって第一の悲劇でした。
 ところが、それが検証された結論であるかのように、東京裁判で主張されました。
 これが日本にとって第二の悲劇となります。
 東京裁判は勿論(もちろん)何の確証もなしに「南京虐殺はあった」と判決を下しました。
 それがそのまま今日に至っています。
 昭和47(1972)年に本多勝一氏の「中国の旅」が出て以来、それからはたくさんの本が、また学校の教科書までが、「虐殺はあった」と言い続けてきました。
 そのため私たちの中には動かしがたい先入観があります。
 しかし、今まで説明してきましたように、1938(昭和13)年4月の段階で既に南京の欧米人が南京で虐殺はなかったという一致した結論を出したという、この忘れられた隠された事実に立ち戻って、私たちは常に考え直さなければならないのではないでしょうか。
 最後までご清聴いただきありがとうございました。


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