開戦六十周年に思ふ
防共戦としての大東亜戦争

獨協大学教授
昭和史研究所代表
中村 粲

 歴史教科書の検定・採択や首相の靖国神社参拝をめぐる論議で、別して暑かった今年の夏は一段に暑い夏となった。
 「有言実行」を看板にした小泉首相も結局は内外からの干渉や圧力に抗し切れなかった。
 かねて私は、首相が「八月十五日には必ず参拝する」と断言した後で、「しかしそれは決してあの戦争を正等化するものではない」と弁明がましい言を弄するのを聞いて、「この人は威勢はいいが歴史観は脆(もろ)いのではないか」と危惧(きぐ)していたが、矢張りさうだつた。
 元気のいい言葉を裏から支へる歴史観が欠落してゐるのだ。
 八月十三日の靖国参拝に際して出された「首相談話」の自虐のひどさが、小泉首相もまた日本悪玉史観の持ち主であることを端なくも露呈してゐるではないか。
 私は首相が公約通り八月十五日に靖国神社に参拝し、それによって中韓両国の歴史観ときっぱり対決し、長年の歴史論議に終始符を打って欲しかつたのだが、所詮それを期待する方が無理であつた。

 この蓋では来年も再来年も、中韓両国から不当な干渉と、それに対する卑屈な宥和や弁解が繰り返されるに違ひない。
 この国家的醜態にピリオドを打つには、日本の指導者が中韓の歴史認識と対峙する明確な歴史観を打ち出す以外にないと考へる。
 その歴史観とは、中国に対して申せば、支那事変を含む大東亜戦争が防共の思想戦であったことの再認識から出発せねばならない。
 ソ連に支嗾された支那の赤化は、第一次国共合作と北伐の行はれた1920年代に急速に拡大する。
 満州事変はその結果であった。
 事変が塘沽(タンクー)停戦協定で決着してから、日華関係は改善へ向ふが、この時期に和平を売国と呼び、対日戦争を煽動したのが中共だ。
 中共は早くも昭和七年四月には「対日宣戦布告」を、同九年五月には「対日作戦宣言」を発出して中国国民に日本との戦争を訴へてゐる。
 蒋介石の剿共(そうきょう)戦で追ひ詰められた中共は、日本と国民党軍を戦はせることで生き延び、更に党勢を拡張せんと画策した。
 所謂漁夫の利を得んとしたのだ。
 盧溝橋事件に始まる支那事変が、コミンテルンと中共の仕組んだ「民族統一戦線」方式通りに展開してゐる事実を見落としてはならない。
 これによって之を観れば、戦争を欲し、計画し、盧溝橋での不法射撃で戦争を開始したのが中国共産党であることは明らかであらう。
 支那事変は本質に於て防共戦だつた。
 さればこそ、時のローマ法王ピオ十一世は「支那事変は日本の侵略戦争ではなく、防共の聖戦であるから、カトリック教徒は日本の戦争に協力せよ」と全世界三億五千万人のカトリック教徒にメッセージを発したのである。
 世界には斯様な理解者も居たのだ。
 支那に対して侵略の意思なき日本は、軍事的には圧倒的優位でありながら、大小様々なる対支和平工作を試み、それに気脈を通じ、呼応する動きは支那側にも確かにあったものの、日支和平で自己の立場を失ふことを惧れる中共は、終始和平に反対し、これを妨害し、戦争の惨禍をアジアに拡大した。
 実に中国共産党こそ戦争を惹き起こした張本人なのである。
 しかしながら「無謬」であるべき共産党の歴史を守る立場にある中国共産党政権は、あくまで日本を侵略者とする異議申立ては聊(いささ)かでも許容することはあるまい。
 それに対しては、こちらの歴史観に理解を求めるが如き屈辱的な姿勢ではなく、大東亜戦争を防共戦とする明確なアンチテーゼで中国と対決する他ない。
 攻撃は最良の防禦なり。
 折から大東亜勃発六十周年の此の秋(とき)、その反共思想戦としての意義を再確認し、歴史論争の立脚点たらしめる要を痛感する。
 (平13・8・29)


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