南京大虐殺否定の論拠について

興亜観音を守る会
会長
田中正明

 最近憂慮すべき事態が日米間に生じつつある。
 その原因は1997年(平成9年)米国で出版された中国系アイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」の主張と、それに煽動された反日キャンペーンの渦が、この問題の中心にある。
 この著書のサブタイトルは「第二次世界大戦の忘れられたホロコースト」とある。
 つまり南京大虐殺は、ユダヤ民族の絶滅を期して行った「ナチスのホロコースト」同様に、中国民族ばかりというシロモノである。
 今から六十数年も前の南京攻略戦争について、殆ど記憶も関心も持っていなかったアメリカ人にとって、この本は日本及び日本人に対する憎悪と嫌悪感を高めることに成功した。
 在米中国人グループの支援や宣伝効果もあって、この本はたちまちベストセラーとなり現在五十万部以上の発行部数を占め、すでに政治問題にまで発展している。
 一昨年(1999年)8月、カリフォルニア州議会では、「南京大虐殺を中心とする日本軍の残忍性とその非道の罪」に対して謝罪と賠償を求める決議まで採択するに至っている。
 かくの如き日本国の不名誉に対して、日本国政府は何をしたか?
 斎藤駐米大使はチャンとTV番組の中で面接した。
 マスコミと見守る中で斎藤大使は、チャンのウソ八百の誇大宣伝を反撃することなく「日本の歴史教科書には、南京事件のことはちゃんとのっています」と語った。
 南京三十万の虐殺はチャンの言う通り、日本政府も認めており、これらをそのまま教科書にのせて教えているのだとマスコミは書きたてた。

昭和の聖将 松井石根大将

 松井石根(いわね)大将は陸大を主席で卒業し、恩賜の軍刀を頂いた秀才である。
 その彼が自ら望んで、駐在武官として十六年間も中国に勤務し、孫文の第二革命を支援し、「大アジア主義」に生涯をかけた陸軍きっての中国通であった。
 1937年(昭和12年)第二次上海事変が起こるや、参謀本部は大将を予備役から現役に復帰せしめ、大将を軍司令官とする上海派遣軍を派遣した。
 日本軍三万五千に対して中国軍は三十万にも及び、敗色濃くなったため柳川兵団(第十軍)が杭州湾に上陸し、大勢は一変した。
 十二月一日、多田参謀次長が飛来して南京攻略の命下り、大将は派遣軍と第十軍を統率する「中支那方面軍司令官」に任じられて南京に向かった。
 大将は敵将唐生智に「和平開城」を勧告したが拒否され十二月十日総攻撃に移るに際して部下に次のように訓令した。
 「皇軍ガ外国ノ首都ニ入城スルハ有史以来ノ盛事ニシテ世界ノ注目スル所、軍紀粛正、正々堂々、将来ノ模範タルベシ」と。
 さらに南京の略図を兵に与え、中山陵、明孝陵、安全区、各国大使館等を明記して立ち入ることを禁じ、歩哨を配置せよと命じた。
 さらに大将は「掠奪行為ト不注意ト雖(いえど)ドモ失火スル者ハ厳罰ニ処ス」と厳しく命じた。
 十二月十三日南京は陥落した。
 十七日入城式、十八日英霊の追悼式、この時大将は、敵にはあれど中国の戦死者も気の毒だ、一緒に追悼してやろうと提案した。
 しかし参謀や師団長の反対で皇軍のみの追悼式となった。
 この大将の思いは戦後も変わらず、1940年(昭和15年)熱海市伊豆山に日支両軍の英霊を祭祀する「興亜観音」を建立した。
 大将の「建立縁起」によれば、支那事変は友隣相撃つ千載の悲惨事であるが、歴史的に大観すれば、東亜民族救済の聖戦であり、興亜の礎石である。
 やがてアジア民族復興の時代が到来すると予言した。
 日支両軍の血に染まった土を取りよせ、これに日本の陶土を混合して陶工師柴山清風氏に高さ一丈(三・三米)の露座観音を創作せしめ、さらに人間国宝陶工師加藤春ニ氏に、本堂の霊座観音(六十・六糎)を製作せしめた。
 この霊座観音をさしはさんで石に「日本軍将兵之霊位」左に「中華民国将兵之霊位」と並び祭祀した。
 本堂には熱田神宮の廃材を用いた。
 東京芝増上寺の大山徹水僧正を招いて盛大なる開眼落慶式が行われた。
 昭和の聖将といわれたこのような将軍が、三十万もの虐殺を命じ、かつ許容することがあるのであろうか?

虐殺否定の南京の真実

 1938年3月、松井大将は南京から帰還すると、天皇陛下に復命したのち、大阪、名古屋、仙台等の陸軍病院に、私をつれて親しく部下の傷病兵を見舞った。
 その時私に「その後の南京の治安状況が気にかかる。視察してくれないか。」との依頼があった。
 私はその年の7月(南京陥落の半年後)「従軍記者」の許可を頂いて南京を視察した。
 松井大将の紹介とあって、雨花台、紫金山、下関、新河鎮などの古戦場はもとより「安全区跡」など隈なく視察し、その後の治安状況も見聞した。
 人口はすでに40万人近くにふくれ、商店も夜店も繁盛し、女の独り歩きも安全とのことであった。
 その詳細を私は大将に報告申し上げた。
 私は1942(昭和17)年、32歳の時、招集令状を受け、上海の中支那兵器廠に転属した。
 1945(昭和20)年の終戦の玉音放送は、無錫支廠で拝聴した。
 信州の実家に帰還したのは、その翌年の4月のことであった。
 松井閣下はA級戦犯で巣鴨刑務所に監禁されていた。
 私は信州伊那谷から、東京の巣鴨まで、3回お見舞いした。
 大将曰く「わしは南京大虐殺などという話を、この東京裁判ではじめて聞いた。南京入城後一週間ほどして上海に帰った。上海で2回も外国の記者を交えた記者会見を行ったが、虐殺の話など全然聞いていない。」
 南京裁判で死刑に処せられた第六師団長谷寿夫中将も、南京に大虐殺があったことなど、部下からも誰からも全然聞いておらず驚いた、と述べている。
 東京裁判で私の最も尊敬する松井大将が、ウエッブ裁判長から絞首刑の判決を受けた時私は食事も喉を通らないほど口惜しい思いであった。
 そこで私は「パール博士の日本無罪論」(彗文社・昭和38年)を執筆し、次いで「東京裁判とは何か」(日本工業新聞社・昭和58年)を著述し世に訴えた。
 さらに「南京虐殺の虚構」(日本教文社・昭和59年)、「松井大将の陣中日誌」(芙蓉書房・昭和60年)、さらに「南京事件の総括=虐殺否定の十五の論拠」(謙光社・昭和62年)の3冊を相次いで次々と出版し、世に問うた。
 わけても前記の「虐殺否定の十五の論拠」は私の南京事件研究のエッセンスである。
 このエッセンスを英文にしたものが本書である。
 アメリカの有力な政治家、学者、ジャーナリスト、オピニオンリーダーをはじめ多くの方々に是非ともお読み頂きたい。
 チャンのいう三十万人以上の大虐殺だとか、八万人以上の強姦事件の戦時国際法の違反行為など、全然無かったことがアメリカの人々に理解されるものと思う。
 日米両国民の信頼と友情は、両国のみならず世界の平和と安定につながる問題である。
 相互に誤解やデマゴーグなどに惑わされないよう、お互いに警戒し、真実を求めるよう努力したいものと思う。
 この著書は南京事件の真実を述べたものであることを重ねて申し上げたい。


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