■松井大将作漢詩■
終戦述懐二篇の紹介
徳富太三郎
終戦に際して松井大将は、終戦述懐としと題して漢詩二篇をお作りになった。
その一は
死は猶毛羽のごとく 義は山嶽なり。
玉砕瓦全ともに隣をなす。
利鈍云うこと莫れ興亜の事。
身を殺すは元是仁を成すにあり。
そのニは
輪くるも亦官軍 贏(か)つも亦賊。
人生万事幻を追うが如し。
中興建武日星煌く。
東亜まさに払うべし千載の恨。
前者は、自分の生死は問題ではない。
興亜即ち白閥打破と云う高い理想が、力及ばずに挫折して了った。
是を再現させるには今後多大の年月を要するであろう。
賢者も愚者も今は黙っている外無い。
敗戦の責任を取って、自分は死ぬであろうが、自分の生涯を賭けて来た行為は、アジアを心から愛した結果であり、疚(やま)しいことは些(いささ)かも無い。
仁を成すと云う誇りに満ちている。という意味に解する。
後者は、この度の戦は、決して悪いから敗けたのではない。
道義は吾にある。
しかし力及ばずして敗れて了ったことは、寔(まこと)に残念である。
しかし、緒戦に於ては、我武力により、大東亜から侵略者である白人勢力を追い払った事実は、厳然と存する。
是こそ今次大戦における我が国の目的であったのだ。と言うような意味に解する。
一、ニ共に我国の理想は決して間違っていないと云う自信、自負を格調高く詠んでおられる。
満州で終戦を迎えた私が帰郷したのは、昭和二十年十月下旬であった。
私は大将のお宅に伺った。
大将は前記一の詩を色紙に書いて下さった。
それを祖父(蘇峰)に見せると、声を出して、すらすらと読み、「うーん、松井さんは覚悟しているな」と呟(つぶや)いていた。
その一はその時頂いたものである。
尚そのニは、大将が書いて、祖父に贈ったものであり、表装は祖父による。
この一、二の漢詩を読むと、終戦後、祖父の作った都々逸
「当座のやりくり諸公に任す 私は仮眠の五百年」を思い出す。
生前祖父は自ら墓碑を作った。
自然石の正面中央に「五百年の後を待て。」右脇に「百敗院泡沫頑蘇居士」。左側に「平常院静枝妙浄大姉」。両脇のものは、祖父自ら作った蘇峰夫妻の戒名である。
松井大将の「利鈍云うこと莫れ興亜の事」と、蘇峰の「五百年の後を待て」とは通ずるものがある。」
白閥打破とは、有色人種特にアジア諸民族に対する愛情の発露である。
松井大将の大アジア主義は、孫文の三民主義に原点がある。
蘇峰の考えは、キリスト教の道徳律、陽明学等に基づいた平民主義から始り、藩閥打破、閥族打破と進み、更に之を敷衍すれば当然の気結として白閥打破となる。
人間の正義、即ち虐げられた多くの人達に対する愛情に於て、両者は肝胆相照らす仲であった。
この白閥打破は、当時の我国において、経済は自存、国防は自衛と相伴って、国策であり、バックボーンであり、良心であり、悲願でもあった。
本来ならば、相提携し、協力して白閥打破に当たるべき蒋介石政権が、我国の真意を解せず、事もあろうに、白閥に頼り、我国に敵対したので、やむを得ず戦ったのが支那事変である。
この戦は、中国民衆を愛するが為に、選択を誤った蒋介石を覚醒させる為の聖戦であった。
古来、英雄、聖人の最期は、多く悲劇的である。
キリスト而り、屈原而り、文天祥而り、松蔭、景岳而り、大西郷先生而り。
松井大将を思うとき、之等歴史に大なる名を留めた人々と、極めて似た魅力を感じるのは、筆者一人ではないと思う。
心の底から愛した中華民国の恵まれぬ多くの人々に理解されず、非命の死を遂げられた松井大将と、ニ千年前ゴルゴダにおいて十字架にかけられたキリストとは、明かに共通項がある。
それは愛であり、仁である。
前記二篇の詩は、興亜観音と共に、この事を後世に伝える為の貴重な物証である。
付記 蘇峰日記(徳富敬太郎氏所載)より 昭和二十一年三月二日
午後松井大将来ル。
同氏モ決心スル所アルガ如シ。
病床ニテ相語ル。
気色極凄蒼也。
松井大将ヨリ鮪一片送リ来る。
予松井氏ノコトヲ懐、中心頗ル沈鬱、但大将決心ノ点ハ大満足ナリ、ソレハ大将の口述文ヲ一読シタレバナリ。
三月五日
松井大将出立 塩崎氏見送ル 忠義填骨髄ノ小品をオクル。