東京裁判とは何か、
七烈士五十三回忌に当たって

パール博士像贈呈式(平成13年11月17日)

 会報14号でお知らせしたとおり、昨年11月17日の九段会館に於ける興亜観音を守る会の七周年懇親会の主行事として、同台経済懇話会から御旨書を添えてパール博士の写真像の贈呈式が行われました。
 これを受けて、昨年12月23日には、熱海伊豆山の興亜観音に於ける殉国七士の命日法要に当たり、贈呈の趣旨に沿って、恙なく奉額供養をとり行ったことを報告いたします。
 なお命日法要の当日、田中正明会長の熟誠溢れるご挨拶があり参列者一同に大きな感銘を与えましたが、後日田中会長が敷延加筆されたものを、以下にご紹介します。


パール博士の全員無罪の論理

 このたび興亜観音の本堂正面須彌壇(すみだん)の右側に、東京裁判におけるインド代表判事ラダ・ビノード・パル博士のお写真を奉納することになりました。
 このお写真は今から5年前、同台経済懇話会が中心となりまして、京都護国神社境内に「パール博士顕彰碑」を建立されましたが、それと同じ形のものを、懇話会が製作して下さったものです。
 昭和20(1945)年8月、日本がポツダム宣言を受諾し、敗戦を宣言するや、米のダグラス・マッカーサー元帥は多くの部下を引き連れて、日本を占領し、支配しました。
 マッカーサーはまず東京市ヶ谷台の自衛隊の講堂を改造して、ここを「極東国際軍事裁判所」としました。
 この裁判の検事には知人のアメリカ人キーナン氏を据えました。
 マッカーサーはこの戦争で戦勝した11カ国に対して1人づつ判事を提供するよう任命を依頼しました。
 しかも彼は最後にこの裁判の規則・規約などを考案して、次の結論を得ました。
 この裁判における戦争犯罪者を28名に絞り、これを昭和天皇の御誕生日である4月29日に起訴しました。(開廷は5月3日)
 この28名に対する起訴事実は、次の3類55訴因に分類しました。

 第1類 平和に対する罪 (訴因第1 ― 第36)

 第2類 殺人の罪 (訴因第36 ― 第52)

 第3類 通常の戦争犯罪および人道に対する罪 (訴因第53 ― 第55)

 「平和に対する罪」というのは、被告らが共同謀議をして侵略戦争を計画し、準備し、開始して世界を混乱したという罪です。
 これがA級戦犯のA級たるゆえんです。
 これはヒットラー一党を一網打尽にするために考案された新しい罪で、もちろん国際法にも、慣習法にもありません。
 これをマッカーサーは東京裁判に当てはめたのです。
 「殺人の罪」というのは、条約違反の罪から引き出されたものであって、宣戦を布告せずしてなされた敵対行為は戦争ではない。
 従って、その戦闘によって生じた殺傷は殺人行為であるというのです。
 これはニュールンベルク裁判条例にもない罪で、マッカーサーによって発明された新たなる罪名です。
 「人道に対する罪」というのは、非戦闘員に対して加えられた大量殺戮、または捕虜の虐待などの戦争犯罪を総括して言います。
 これに「人道に対する罪」などという特別な名称をつけたのは、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人虐殺の非人道的行為を罰するために、これまたニュールンベルク軍事裁判所条例で新しくつけられた罪名です。
 日本ではこのような大量殺戮は行われなかったのですが、ニュールンベルクの先例に習って、このように呼称したのです。
 全く東京裁判はナチス・ドイツの暴虐のそば杖をくったというべきでしょう。

田中会長のあいさつ

蒋介石の悔恨の涙

 さて話題を変えましょう。
 極東国際軍事裁判の13人の判事の1人、インドから選出されたラダ・ビノード・パール博士は、ただ1人国際法の学位を持つこの道の権威です。
 博士はネール首相の懇請により、カルカッタ大学の総長を辞任して、判事としてこの裁判に参加したのです。
 このパール判事の日本無罪論に関連して私の印象に残っている1つの思い出話を申し上げたいと存じます。
 皆様ご存知の通り、昭和35(1960)年、岸内閣の時、日米軍事同盟が締結されましたが、この時左翼が猛烈に反対しました。
 全学連は国会議事堂を取り巻いて、連日デモ行進をするといった状況でした。
 1人の女子学生がデモ隊のために転倒し、圧死するという事件まで起きました。
 結局岸首相は自民党単独で採決を強行しましたが、私ども大アジア主義者5人はこれを応援しました。
 岸首相は私どもにこう言われました。
 「これからは台湾がアジアの平和にとって大変重要な地位になる。君達大アジア主義者は後学のため、これから台湾に行って蒋介石氏とも会い、台湾の軍事基地も見学して、将来のアジアの平和と安全について考えて欲しい。蒋介石氏には私から紹介状を書いておく」と仰いました。
 私ども同士5人は早速台湾に向かいました。
 台湾では岸首相の紹介状のおかげで、準国賓待遇として迎えられました。
 蒋介石、何応欽、陳群、蒋経国等多くの要人にも逢い、あらゆる軍事施設や基地、軍事工場などまでも見学したのち、特別に飛行機まで出していただき、外人にはほとんど見せていない台湾海峡の金門・馬祖の海軍基地・空軍基地などまで余すところなく見せていただきました。
 台南、台中はもとより基隆(キールン)港・花蓮(カレン)港の軍事基地まであまねく見学させていただきました。
 約1週間の後、台北の旧総督府で蒋介石その他の要人とのお別れの宴が開かれました。
 私ども同士1人1人が、蒋総統の前に進み出てお礼を述べて蒋介石と握手をするのです。
 最後に私は、蒋介石総統の前に進み出て、御礼の挨拶をした後「私は総統閣下にお目にかかったことがございます」と申し上げました。」
 すると「いつ?どこで?・・・・」とたずねられた。
 「昭和11(1936)年2月に、松井石根閣下と2人で、南京でお目にかかりました」
 その時「松井石根」という名を耳にされた瞬間、蒋介石の顔色がさっと変わりました。
 目を真っ赤にし、涙ぐんで「松井閣下には誠に申し訳ないことをしました」手が震え、涙で目を潤ませて、こう言われるのです。
 「南京には大虐殺などありはしない。ここにいる何応欽将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを記録しているはずです。私も当時大虐殺などという報告を耳にしたことはない。・・・・松井閣下は冤罪で処刑されたのです・・・・」といいながら涙しつつ私の手を2度3度握り締めるのです。
 最初、蒋介石は米国のルーズベルト大統領や、英国のチャーチル首相の絶大な支援を得て、派手やかに抗日戦争を戦ってたのですが、内戦で中国共産党に敗れて、台湾に島流しのような形で押し込められてしまいました。
 当時彼はすでに80歳でした。
 蒋介石に代わって東亜侵略の野望を持つソ連お首相スターリンの進出を認めたのです。
 さきにスターリンは日本と締結した中立条約を破り、日本の占領下にあった満州、南樺太に侵入し、略奪、強姦、殺戮をほしいままにしたばかりか、日本の軍人・軍属60万人をシベリア方面に連行し、囚人同様に酷使しました。
 そのため、6万余の日本人死亡者を出したのです。
 のみならず、北方四島の島民を追い出して、この四島を侵略しました。
 現在も四島は侵略されたままです。
 この侵略者のソ連が東京裁判の判事席について日本を裁いたのですから正にポンチ絵といえましょう。
 蒋介石はこの東京裁判に関しては、自分の部下であり親戚でもあった梅汝敖(ばいじょこう)を判事として推薦しておいたにもかかわらず、梅は共産党に寝返って、逆に松井大将を絞首刑に陥れたのです。
 若き時、蒋介石は日本の陸軍士官学校に留学し、のちに新潟の高田連隊に入営するのですが、松井大将は親代わりになり、蒋介石の下宿の世話までして面倒を見るのです。
 蒋介石にとって松井大将は忘れ得ぬ大恩人であります。
 その大恩人をありもせぬ大虐殺の名の下にみすみす刑死させてしまったという悔恨の涙なのであります。

天皇を戦犯として処刑するかどうか

 松井石根は幼年学校=陸軍士官学校=陸軍大学と進学しましたが、陸大は1番で卒業しています。
 陸軍切っての秀才といわれ、恩賜の軍刀まで拝領しています。
 その大将が自分から志願して支那(当時は清国、現在の中華民国)の駐在武官として16年間も勤務するのです。
 その間、中国の青少年の軍事訓練やその施設等に助力するばかりでなく、孫文の第二革命を支援して、袁世凱を追放し、清朝を打倒して辛亥革命を成功せしめているのです。
 当時陸大の優等生はすべて欧米の駐在武官を志望しましたが、松井のみは16年間もの長い間、一貫して日中の和平と大アジア復興のために尽力したのであります。
 それは幼少の頃から同郷(尾張の国)の大先輩である東方齎、荒尾精の本を読み東亜復興の精神に心酔していたからです。
 その松井がありもせぬ30万余の中国人を日本軍が虐殺したと称して、その監督を放置した責任を取らされて、絞首刑を宣告されたのです。
 松井大将が上海戦や南京戦で戦死された日本軍と支那軍の戦死者の血に染まった土をわざわざ戦地から運び、内地の陶土を加えて、この興亜観音を作られた。
 そして今日まで日支平等に祭祀しているお姿を見ても、大将のご心境はおわかりでしょう。
 東京裁判で絞首刑を宣告されたのは次の7人であります。
 東條英機、廣田弘毅、土肥原賢二、板垣征四郎、松井石根、木村兵太郎、武藤章の7被告です。
 東郷茂徳被告が禁固20年、重光葵被告が禁固7年の有期刑のほかは、18被告全員が終身禁固刑に処せられたのです。
 絞首刑の7人は、昭和23(1948)年12月23日に巣鴨刑務所で処刑されました。
 ご存知の通り、当日の12月23日は平成天皇の御誕生日=天長節であります。
 日本国民にとっては大切な祝祭日であります。
 A級戦犯28名を起訴し、投獄したのは、昭和天皇の御誕生日の4月29日でございます。
 このようにアメリカは、日本の侵略戦争や日本軍の犯罪のウラには皇室がある、「皇室も戦犯である」旨を日本国民に知らせるためでした。
 記録によると、当初マッカーサーは、昭和天皇を「戦犯第一号」として投獄する予定であったが、本国政府は「天皇を戦犯として投獄すれば、8千余万の日本国民は黙ってはいまい。大騒動となり、軍事的鎮圧を必要とすることになる。そのような危険はやめるべきだ」という中止命令が出て、前記の処置になったというのであります。

日本性悪説と七烈士の遺骨

 有名な「ローマ帝国滅亡史」の著者ランケによると「その民族を亡ぼそうとするならば、まず、その歴史を消すことだ。然るのち新しい違った歴史を創作してこれを信奉せしめることである」と、マッカーサーは日本民族を亡ぼすために、このランケの言う通りを実行したのです。
 「今次の戦争は"大東亜戦争"ではなく"太平洋戦争"と呼称す」と、まず戦争の名称まで変えて「大東亜会議」や有色民族の独立を否定し、開戦の詔勅にある「アジア民族の独立自強の精神」まで否定したのです。
 それに代わって「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争についての罪悪感を植え付けるプログラム)というのが最初からCIF(米民間情報教育局)に用意されていて、日本人が戦争を起こしたからこそ、世界の平和が破壊されたのであって、日本という国が本来"悪"なのだという意識を日本人の頭脳に徹底的に叩き込む、これが東京裁判の主たる命題であったのです。
 ともかく、マッカーサーがとったこのプログラムは一応成功したと申せましょう。
 その効果は50年以上も続いています。
 現在にいたっても、日本性悪説は日本国民の意識の中に浮き沈みしつつあります。
 それは一億総懺悔(ざんげ)からはじまり、最近の教科書騒動や靖国神社参拝問題で見せた日本の政治家の自虐意識や"悪いのは日本だ"という前科者意識、さらには防衛費突出だ、軍国主義復活だ、といったマスコミや平和主義者の論調まで日本性悪説がつながっていると申せましょう。
 話を前に戻します。
 元首相小磯国昭(こいそくにあき)の弁護人三文字正平氏が、「今日(昭和23年12月23日)は皇太子殿下の御生誕である。ひょっとすると例の7人を刑死させ、火葬にするのは今日ではないだろうか」、というカンが働いた。
 そこで氏はひとり巣鴨拘置所の裏手に自動車を停めて待機した。
 氏のカンは敵中した。
 怪しげな貨物自動車3台が乗用車を先頭に、西に向かって走り出した。
 三文字はつかず離れず、たくみに尾行した。
 到着した場所は横浜の久保山火葬場であった。
 トラックから死体をおろすとき人夫の1人が大声で「1番!東條大正」と怒鳴った。
 やはり三文字弁護士の予想通り、七烈士の遺体はこの3台の貨物自動車の中に在る。
 彼は辛抱強く七烈士の死体が焼きあがるまでに物陰にかくれて待った。
 焼きあがった死体は進駐兵が手荒に石油缶にぶち込み、こまかい骨片は塵取りで骨捨場の洞窟に捨てた。
 翌日の12月24日は幸いにしてクリスマス・イブである。
 進駐兵は休みで、この火葬場には1人も来ていない。
 翌日三文字は火葬場近くの興善寺の住職市川師を訪ねた。
 また火葬場の場長の飛田氏も訪ねた。
 そしてこの3人で7士の遺骨収集を相談した。
 前記2人とも大賛成で、クリスマス・イブの夜陰にまぎれて、懐中電灯をたよりに大型の骨壷一杯分の遺骨を収集することに成功した。
 その後、昭和24(1949)年5月3日に三文字氏は、熱海伊豆山の松井石根大将邸の文子未亡人と相談の上、7戦犯の御遺族に集まってもらい、御遺骨をどうするかについて相談会を開いた。
 東條勝子夫人から意見があり「この御遺骨を7人の御遺族に分配すれば、必ずや親籍の者が集まるなど、進駐軍が疑うに違いない。それよりも、松井閣下ゆかりの興亜観音の境内のどこかに納めさせて頂き、私どもは時々ここにお参りするようにしてはいかが」との提案に他の遺族も賛成し、先代堂主の伊丹夫妻がこの御遺骨の秘匿に大変苦労されたのです。
 その後、昭和35年春に松井閣下と親交のあった高木陸郎さんが吉田首相に揮毫(きごう)を依頼した「七士の碑」が興亜観音の境内に建立され、今日では御遺骨は、この碑の下に安らかに眠っております。
 この碑の裏面には七士それぞれの自筆の署名が刻まれていることはご存知のとおりです。
 のちに愛知県蒲郡市三ヶ根山に当時の弁護士会の発起により「殉国七士之碑」が建立されますが、その御遺骨も「興亜観音」からの分骨であります。

6つに分かれた裁判

 さて話を前にもどします。
 この裁判はインドのパール判事の言う通り、法律に基づかない裁判ゆえ、判決は6つに分かれました。
 フランスのベルナール判事が内部告発しているように、11人の判事が一堂に会して、被告の量刑について相談したことは1度も無いというのです。
 被告の量刑については、「米国・英国・中国・ソ連・カナダ・ニュージーランド」の6ヶ国の判事が多数派と称して審理を進め、他の判事は「意義あらば意見を述べよ」といった調子で進行したというのです。
 清瀬弁護人はこれを「6人組」と称してます。
 奇妙なことにオーストラリアのウエップ判事は、裁判長でありながらのけものにされ、その為に別の意見書を出しています。
 その他インドのパール判事、オランダのレーリング判事、フランスのベルナール判事はそれぞれ別個の判決書を出しています。
 もっともフィリピンのハラニーヨ判事だけは「もっと刑を加重せよ」という意見ですから、6人組みではなく「7人組み判決」といっていいかも知れません。
 ともかく、1つの裁判に6つの違った意見が出たのです。
 これは裁判としても完全な失敗といわねばなりません。
 3年7ヶ月の日子を費やして11ヶ国の判事が集まり"文明"の名において裁いた裁判にしては、いかに支離滅裂、どうみても権威ある裁判とはいえません。
 その失敗の第一の原因はこの裁判自体、戦勝国が戦勝の余勢を駆って国際法をねじ曲げ、悪用・冒涜し「法によらざる」政治的効果をもくろんだところに根本的なあやまりがあったといえましょう。

松井閣下の密葬について

 翌年の昭和24年の正月に熱海市伊豆山の松井文子様から閣下の葬儀の御案内状が拙宅にとどきました。
 私事で恐縮ですが、私は旧制中学を終えると恩師下中弥三郎先生(平凡社初代社長)のご紹介で今の亜細亜大学の前身「興亜学塾」で勉強しましたが、3年後に松井石根大将が会長を勤める大亜細亜協会の編集部に下中先生とともに入社しました。
 昭和11(1936)年には大将の秘書として渡支し、孫文の弟子である胡漢民、李宋仁、白崇禧など西南の軍閥と会見して、孫文の理想である中華民国の統一を進言しました。
 そのあと南京に行き蒋介石と会見して、蒋の排日・悔日政策をとりやめ、孫文が理想とした日中一体となっての大アジア主義を提唱しました。
 蒋介石も張群も納得し、日中関係は一応好転したかに見えましたが、この年の12月13日に西安事件が起きました。
 蒋介石は中国共産党と通謀している張学良のとりこになってしまいました。
 中国共産党は国民党と合作し蒋に対して対日戦争を迫りました。
 その翌年の7月7日の盧溝橋事件、通州における日本人居留民2百余名を虐殺した通州事件、大山大尉の虐殺事件等などが重なり、第2次上海へと発展します。
 皮肉にも予備役の松井大将が現役に復帰を命ぜられて「中支那派遣軍司令官」に任ぜられ、南京攻略戦まで果すのです。
 さて私は終戦後中支那兵器敞の無錫(暗号手・陸軍伍長)から郷里の信州へ帰還しますと、飯田市があらたに発行する「信州日報」の編集長に就任しました。
 ところが数ヶ月後長野県を統治する進駐軍のケリー大尉が、「田中はかつてアジアの独立解放運動に助力したカドにより、J項パージである」と称して、新聞社をクビになってしまいました。
 松井大将の葬儀の通知を頂いたのはこの時でございます。
 マッカーサーは7士の遺体は太平洋にばらまくと称し、最初は7士の密葬なら認めるということになりました。
 私は指定の1月10日に熱海に向かいました。
 松井閣下の骨箱なるものを見ますと「眼鏡」と「入歯」と「ヒゲ」だけのみじめなものでした。
 文子夫人のごあいさつの後、各自の焼香があり、直会(なおらい)に入りました。
 この会には10人ほどの近親者や部下のほかに、東京裁判の弁護士会副会長の清瀬弁護人と、大将の弁護人伊藤清弁護士のお2人がいらっしゃいました。
 このお2人が声を秘(ひそ)めて「ここだけの話ですが」と前置きして言われるのに、「この裁判は法律に基づかない裁判で、かたちは裁判であるが、中味は勝った国の指導者が敗戦国の指導者や将軍を見せしめのために殺したり、投獄したりしてカタキを取ったリンチに過ぎない。従って被告全員は無罪であると称えた判事がいたのです」と初めてインドのパール判事の判決書について説明されました。
 その概要をプリントしたタイプもあるというのです。
 当初裁判所条例では「少数意見も発表する」と公言しておきながら、パール博士の判決、その他の少数意見については、一切未発表、ただ新聞もラジオも「インドのパール判事は異色の判決文を発表した」と述べたのみでありました。
 私たちにとっては、こんな話ははじめてであり、おどろきでありました。

パール博士の来日と出版

 私は翌日2人の弁護士事務所をおたずねして、その裁判所で配られたタイプを見せて下さいとお願いしました。
 ずさんな誤字・脱字の多い和文タイプで、30枚ほどありました。
 私はこれを借用したいと清瀬先生にお願いしました。
 先生は、「これは進駐軍の機密書類です。私が認めないかぎり、他人に見せたり、これを謄写(とうしゃ)するようなことは絶対にしないと約束するならいいでしょう」とお許し下さいました。
 私はその旨誓約書まで書いてこれを拝借しました。
 パール判決文は、英文にして1200ページを越え、日本語で10万語という膨大なものですが、誰かが裁判所用に圧縮したものです。
 幸い私は信州飯田市の「信州日報」の編集長をクビになったばかりで、妻をともなって上京し、現在の武蔵野市に居を構えたばかりでした。
 ここで意を固め「パール博士の日本無罪論」についての著述に専念しました。
 ある時、太平洋出版の天田編集長が訪ねてきて、「田中さん、えらいことをやっているそうですね。わが社の鶴見祐輔社長が逢いたがっています。是非逢って下さい」とのこと。
 お宅を訪ねると鶴見社長は病床でしたが、さすがアメリカ通で進駐軍の中にも友人がおられた由、海外の新聞雑誌にも目を通されている。
 ことにロンドンタイムズはじめとして、英米の法曹界ではパール旋風が巻き起こっている由、鶴見社長は病床で長々と語られたあと、「田中さん、あなたの出版は日本が独立するまでは無理です。マッカーサーは日本の言論界に30項目にもわたって禁止条例を出していますが、東京裁判批判に関しては特に厳しくしています。出版は日本が独立してからに致しましょう」と言われるのです。
 しかもつけ加えて、「あなたの原稿が出来あがれば我が社(太平洋出版)でひそかに活字にし、製本して売り出せるばかりにしておきます」とまで言って下さるのです。
 当時はサンフランシスコ条約で難航していましたが、昭和27(1952)年4月28日によくやく日本は主権を回復して、独立国となりました。
 鶴見社長は約束通り「真理の裁き=パール判事の日本無罪論」と題するわが著書を、4月28日に一斉に全国の書店に展示しました。
 新聞も記事として取り上げて下さいました。
 売れ行きは抜群、たちまちベストセラーになりました。
 このあと私は、矢継ぎ早(やつぎばや)に次の著作を出版しました。

1、 「パール博士の日本無罪論」 (彗文社)
2、 「東京裁判とは何か」 (日本工業新聞社)
3、 「南京虐殺の虚構」 (日本教文社)
4、 「松井大将の陣中日誌」 (芙蓉書房)

 彗文社が出版した時、下中弥三郎先生が盛大に出版記念会を参議院の議員会館講堂で催(もよお)して下さいました。
 そしてこう仰(おっしゃ)いました。
 「パール博士の正論は、これからの日本にとって大事な教材である。各大学で講演していただき、全国を遊説して頂こう」と述べて、インド=日本の往復の航空費まで拠出(きょしゅつ)されました。
 ちょうど下中先生が委員長をされている「世界連邦アジア会議」が昭和27年の10月広島市で開催されることになっており、そのゲストとしてパール博士は来日されました。
 下中先生はそれまでに計画をたて、東大、明治、法政、日大、中央の5大学で講演し、地方は日比谷公会堂を振り出しに、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、広島と講演し、さらに九州は福岡まで足を伸ばされました。
 このパール博士を中心に1ヶ月以上の講演行脚(あんぎゃ)に、下中先生と私、通訳のA・M・ナイルさん(田中の友人で京都帝大卒(現京都大学)インド独立運動の志士)の3人はつきっきりでした。
 博士と下中先生は宿でも道中でも、その人生観や世界観まで同じでした。
 お2人とも幼少の頃父親を亡くされて苦学されたのです。
 最後には「義兄弟」のちぎりを結ぶまでに至りました。
 私に対しては「お前はわしの息子だ」といって可愛がってくださいました。
 インドからの手紙にも「ミスター田中」ではなく「マサアキチャン」でした。
 博士が日本に来て父が我が子を呼ぶ時は「チャン」の愛称であることを覚えられたらしいのです。
 インドの独立運動については、博士も大賛成で、独立運動の志士たちのことや、英国の愚民化政策のこともよく承知されており、ナイル君との話も合いました。

「パール・下中記念館」

 マッカーサーは昭和23(1948)年11月23日、対日理事会を開きました。
 連合国極東委員会が決定した前述「極東国際軍事裁判」の決審に対して、適正か減刑かの判断を得るためです。
 連合国国々の代表大多数は「異議なし」「変更なし」と答え、会議は30分足らずで終わりました。(マッカーサーはその裏工作までやっているのです)
 もっと驚くべきことに、東京裁判の判検事の任免権を持ち、自らペンをとって裁判のシナリオ(裁判所条例(チャーター))を起草し「平和に対する罪」「人道に対する罪」といった事後法まで立法して、これによって裁けと命じ、自己に与えられて減刑権まで放棄して、7人の絞首刑を含む18人の無期懲役を宣告したマッカーサー自身が「東京裁判は誤りであった」事を認める発言をしていることです。
 1951(昭和26)年4月、トルーマン大統領は、マッカーサーを解任したが、その前年、マッカーサー元帥をウエーキ島に呼んで秘密会議を行っています。
 その時マッカーサーは「東京裁判は失敗であった」と告白し、朝鮮戦争の北朝鮮の戦犯には、手をつけない方が良いとまで進言しているのです。
 そればかりではない、その後の米上院の公聴会で彼は「日本が第二次世界大戦に赴(おもむ)いた目的は、石油資源をはじめ多くの資源が無いため、そのほとんどが安全保障のためであった」(下線筆者)と述べ、侵略戦争ではなく、自衛戦争であったことをハッキリ述べているのです。
 昭和27(1952)年、原爆の地広島で世界連邦アジア会議を開いた時、下中翁とパール博士は意気投合されて「義兄弟のちぎり」を結び、ともに世界の正義と平和のため尽力しようと約束しました。
 それから約10年間、2人は日本の各地を遊説したら、ネール首相を囲んで語り合ったり、相互に訪問し、日印両国の友好親善のため、世界連邦の理想実現のために努力しました。
 下中翁は昭和36(1961)年、83歳で逝去し、続いて昭和42(1967)年にパール博士は81歳で亡くなられました。
 2人は共に「勲1等瑞宝章」に叙せられました。
 パール博士の亡くなられた時は、博士慕う多くの日本の有志によって、築地本願寺で盛大な追悼会を催しました。
 その年の9月、生前2人がその風景を愛(め)でた箱根芦ノ湖畔の仏舎利をまつる境内に、2人の偉大な生涯を記念する記念碑が建立されました。
 その後、博士のご遺族から外務省を通じて、博士の書類、文房具、衣類、ステッキ等遺品をお贈りたいがどうかというお話がありました。
 相談の結果、前境内内に「パール下中記念館」を建立することになりました。
 法政大学総長、谷川徹三先生を委員長に約百名ちかい方々に顧問をはじめ理事、委員等をお願いして、昭和48(1973)年に地鎮祭を行い、その翌年の11月に「パール・下中記念館」は、竣工いたしました。
 私は資料収集委員長として2度のインドのパール博士の自邸や、インディラ・ガンジー首相を訪ねてご祝辞も頂きました。
 開館式は昭和50(1975)年の春陽4月、インドからは博士の令息プロサント・パール氏夫妻はじめインド大使、文化長官など角界の代表はじめ全国から集まったパール、下中弥三郎氏を敬慕する多くの有志によって盛大に挙行されました。
 日印両国の首相ならびに両国の外務大臣からは2人の偉業をたたえるメッセージが寄せられました。
 さらに昭和53(1978)年10月には、インド大使をお招きして、パール博士と下中翁の虚像をカルカッタ大学に寄贈する贈呈式をこの記念館で行いました。
 以上で私のスピーチを終わります。


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