父と興亜観音について

梨岡 寧
守る会会員、陸60期

 私のところに父、梨岡寿夫(陸士26期)が松井閣下から頂いた興亜観音像の御分体がある事は、平成9(1997)年10月の会報6号でご紹介させて頂いております。
 その事情について私なりに調べてみましたところ、父が見習い士官として赴任したのは62連隊でありその時の11師団長が松井閣下であったらしいのですが、師団長が麾下連隊の新任見習士官や少尉の名前迄ご記憶されておられたとは考え難い。
 とすれば閣下は退官後も中国における日本軍の戦いを絶えず気に掛けておられたのではなかったのではないかと思うのです。
 とすれば父が初代連隊長を仰せつかり約1年足らず中支那で戦った新設の235連隊の戦歴に注意せられ、父の連隊の戦い振りが閣下のお目がねにかない、関東軍に転出したのち、下されたものだったのでは無いかと思考する次第でございます。
 関東軍に在職中に大東亜戦争開戦となり陸大を出ていない父にも旅団長の命令が下った為、現役の軍人が退職等することはかなわず、出陣して昭和20(1945)年初めには独立混成旅団長となり、米軍の上陸に備え陣地構築をしたそうですが、鉄筋もセメントも補給は無く、住民の生活の糧である塩の商売を許し、内陸に塩を売らせ帰りに中国軍の鉄筋やセメントを持ち帰らせ、それを購入して陣地構築のみならず、滑走路、飛行機の掩体(えんたい)まで作ったそうです。
 中国軍側もそれを知りつつも売ってくれたとの事です。
 そして父はそれに応える為、住民用の退避濠も作り水、食料の備蓄をさせたのみならず、英文による住民避難場所であることを証明した書類も持たせて置いたそうです。
 従って対ソ戦に備え上海に集結し師団編成を命じられ移動する時は住民は泣いて別れを惜しんでくれたと聞いております。
 しかし上海集結間も無く敗戦となり父の部隊は帰国となったのですが、1個中隊ほど街路清掃の使役に残されたので、其の部下が帰国するまでと言って残ったそうですが、使役に残された部下の帰国直前、各種階級の戦犯の員数として戦犯となり収監されました。
 やがて裁判となりましたが、中国語の分かる父はその余りにもデタラメな裁判に始めのうちは反論もして見ましたが、幸いに部下は全員帰国出来たのであるし、此処で自分が無罪を主張してもし無罪となれば、将官の死刑囚の員数が不足し、折角既に帰国している誰かが逮捕送致されて来るだけの事になるのだから、誰でも構わない裁判なのだと刑の判決を受けました。
 ところが幸か不幸か半年余駐留し陣地構築した部落の住民から、功績を称える嘆願書が届き、死刑が実行されず、蒋介石が台湾に避難撤退する時、有期刑最長の27年に減刑され巣鴨に転送されました。
 そして昭和27(1952)年サンフランシスコ平和条約が締結されまして、徐々に出獄となりましたが、当時父はかなり重病でしたので、確か28(1953)年の暮れか29年の始め頃出獄出来ました。
 そして昭和30(1955)年3月、兄の勤めていた関東逓信病院で亡くなりました。
 過日、東條英機大将を描いた東京軍事裁判のプライド(運命の時)という映画がありまして、かなり実情に近い描写がなされてはいましたが、確かに母とか妹が面会に行った時には米兵も何かと親切で15分の面会時間を30分位まで知らん振りをして伸ばしてくれたりは有ったそうですが、私や兄か弟の兄弟で男ばかりの時は10分位で監視の米兵が手に持った鞭(ムチ)の様なもので父の頭を小突く様に叩いて終わりだと言ったりしたものです。
 父は、いつもの事だ、バカにする事に文句を言っても仕方が無いという様な薄笑いを浮かべて出て行ったようなものです。
 又、父の薬を差し入れ様と持って行き頼むと其の都度何千円かの賄賂(ワイロ)を要求され、出さなければ受け付けてくれませんでした。
 余りに酷(ひど)いので梅津美次郎閣下の弁護人だったブレークニー氏に事情を話してとりなしてもらってからは随分良くなりました。
 父はそんな前述の様な事情でして平和条約終結後に出獄後死亡致しましたので、法務死とはならず、靖国神社にも伊豆山の興亜観音にも祀(まつ)られてはおりません。
 しかし私は靖国神社でも伊豆山の法務死者を祀った碑にお参りしても祀られておられる多くの英霊を拝む時、父を思い出しております。
 私の宗教心が淡い、いいかげんなもののせいか、御祭神としてのお名前が無かろうが、又どの様にして亡くなられようが、国の為に亡くなられた方々は、私に取りましては等しく我が愛する日本国の護国の神々なのです。


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