歴史に学ぶ

末包正秀


 6〜7年前、厚生省(当時)高官の講演を聞いた。
 多数のユダヤ人を救った外務省リトアニア領事館杉原知畝氏の話だった。
 昭和15(1940)年、杉原氏は本省の指示に反し人道的立場から4000枚以上のビザを発給し、ユダヤ人の命を救った。
 氏は帰国命令違反で外務省を解雇されるが、死後リトアニア及びユダヤ人協会のひたむきな努力が実り名誉が回復、記念館が建てられ日本のシンドラーと呼ばれるまでになった。
 講演の中で高官は"歴史に学ぶんです、その謙虚さが大切です"と語ったのが印象的だった。
 私がはじめて興亜観音を訪れたのは平成2(1990)年だったと思う。
 本でその存在を知り自動2輪で熱海に向かった。
 伊豆山中腹にひっそりとあまりに地味なたたずまいを見せる興亜観音に私は驚いた。
 事前に電話しておいたため、伊丹妙浄氏が待っていてくれた。
 氏は興亜観音の歴史を系統だてて説明してくれ、私は感銘しながら聞いた。
 これほどの由緒ある観音様がなぜ世に知られていないのか、この思いは今も変わらない。
 極東国際軍事裁判は昭和天皇誕生日の起訴状朗読に始まり、昭和23(1948)年、今生天皇(当時皇太子)誕生日のA級戦犯の刑執行で終わった。
 私は興亜観音に参詣することや守る会に出席すること、人にこれを知らしめることは"歴史に学ぶ"ことだと思う。
 私は昭和25(1950)年生まれで戦中の事は直接知らないが、四国勤務時代の自動車屋さんの片腕の会長の話がもっとも強い間接戦闘経験である。
 戦争と言うものは4つに組んでやるものだが沖縄では戦争じゃなかった、地獄だった。
 昭和20(1945)年5月、総攻撃の命令を受けるも手榴弾1人3発のみ、戦闘中一時失神するも生き残った。
 数日後、敵に撃たれ左腕2発貫通した。
 傷の手当ても満足にできぬまま10日くらい経過、患者収容所で手当てはしたものの痛くてたまらない。
 痛さをまぎらわすため岩に頭をぶつけた。
 余りの痛さにとうとう包帯を取ってみた。
 手の甲に水泡が出来ている。
 つぶそうと触ったら肉と皮が離れ元に戻らぬ。
 爪を引っ張ったらスルスル伸びてやはりもどらぬ。
 腐っていることに気づき衛生兵に申し出るが相手にしてくれない。
 何回も何回も頼みやっと別の野戦病院へ入れた。
 腐った腕を肩からぶら下げているから臭くてたまらない。
 軍医に申し出ると今夜切るとのこと。
 戸板に体をしばられた。
 口の中にガーゼを一杯つめたのは舌を噛み切らないようにだと分かった。
 "どの辺から切るか"という声が聞こえた。
 まさかと思ったがナマ(麻酔無し)でやられた。
 金引き鋸を引いているのが聞こえた。
 ビーンと鋸の歯が折れたところで気絶した。
 7〜8人手術したはずだが退院したのは3人、あとは手術中に死んでしまった。
 この話をしてくれた会長は平成7(1995)年、大変な苦労の末、自費で沖縄に慰霊碑を建立、平成11(1999)年泉下に没した。
 私の父は大正5(1916)年生まれで兵隊生活10年、中支、南支を転戦した。
 四国から毎年来静、興亜観音参詣をとても楽しみにしていたが平成10(1998)年、逝ってしまった。
 今日の平和な日本は多数の諸先輩の尊い努力と犠牲のおかげで存在していると思う。
 興亜観音を歴史に埋もれさせてはならない。
 合掌 (興亜観音を守る会会員)


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