改めて礼拝山の聖域を顧みる

松木氏近影

興亜観音を守る会理事

松木 佶


 興亜観音は昭和15(1940)年2月、上海派遣軍司令官として江南各地を転戦、南京攻略戦を果たして凱旋した陸軍大将松井石根が戦場に散った日中両軍の戦没者を怨親平等に弔霊供養するために開山した由緒ある霊廟である。
 大場鎮から南京に至る戦場各地の彼我将兵の地が染みた土を取り寄せ、常滑の陶芸家柴山清風が心魂込めて焼き上げた赤胴色の露座観音は、温容をたたえ慈しみの眼差しを遥か中国江南の地に向け鎮魂の祈りを続けている。
 本堂には人間国宝加藤春二師の作による二尺の陶製観音像を中心に、中央に松井大将部下の戦死者2万3千百4柱の零名簿が宝筐に納められ、その右に日本戦没者、左に中華民国戦没者の位牌が祀られている。
 天井には堂本印象画伯によって「天竜雲間飛翔の図」が雄渾(ゆうこん)な筆致で描かれている。
 また正面右側には極東軍事裁判で唯一の国際法学者として終始裁判の違法性を説き被告全員の無罪を主張し続けたパール博士の写真像が安置されている。
 参道にそって右側には吉田茂揮毫(きごう)による七士の碑が建っている。
 昭和23(1948)年12月23日処刑されたA級戦犯七柱の遺体を隠密裏に横浜の久保山火葬場で荼毘に付し、米軍の手で何処とも知れず搬出した。
 その日、日本側弁護士の三文字正平氏らが決死の思いで持ち出した残骨1壷分が、この碑の下に葬られている。
 その後昭和35(1960)年有志の手で愛知県幡豆町三ヶ根山に「殉国七士之墓」が建立された時、香盒一杯分が分骨された。
 なお碑の裏面には処刑直前手錠のままで署名した七士、土肥原賢二大将、松井石根大将、廣田弘毅元首相、板垣征四郎大将、東條英機大将、木村兵太郎大将、武藤章中将の絶筆が刻んである。
 碑面には昭和46(1971)年、過激派学生が仕掛けた爆破の傷跡が生々しく残っている。
 左端に昭和19(1944)年、松井大将が建てた「大東亜戦争全戦没将士の英霊菩提供養碑」、その右に「大東亜戦争殉国刑士一千六十八柱霊位供養碑」が立ち並び、聖域を形成している。
 昭和21(1946)年3月、A級戦犯として巣鴨拘置所に収監されるまで、松井大将はここで朝夕観音経を奉誦し、諸霊の鎮魂供養の日々を送っていた。
 その彼が謂れ無き、南京大虐殺の責めを負い刑場の露と消えた。
 後事を託された伊丹忍礼・妙真夫妻が宝塔を継ぎ、両名亡き後は意志を守って妙徳、妙b、妙浄の三姉妹が欠かす事無く、この聖地を守って慰霊供養を続けている。
 昭和25(1950)年12月23日、朝鮮戦争従軍中のウォーカー中将が前線視察の途中、ソウル北方議政府附近において車両事故で殉職した。
 奇しくも、その日はA級戦犯7名の処刑後3周忌の祥月命日で、中将は刑執行の責任者であった。
 韓国将校から聞かされた仏教の因縁話は副官や各層の米軍関係者に大きな衝撃を与えた。
 後日、その副官が興亜観音を訪れ、中将の供養を懇請した。
 堂守、伊丹忍礼師は「死ねば皆、仏様だ。怨親平等は松井大将のご意志でもある」と卒塔婆を立てて供養を行った。
 米軍の占領政策下の当時、相手が相手だけに当事者の苦悩の決断が無理からぬ事も推測され、年月を経て卒塔婆は朽滅した。
 裁判の3年後、マッカーサーはトルーマン大統領の逆鱗に触れて解任されるが、その前に「東京裁判は誤りであった」と報告したり、帰国後上院で「太平洋戦争は日本の自衛の戦争だった」と証言するようになる心境の変化に、このウォーカー事件が1つのキッカケになったかも知れない。
 半世紀を経た今日、真実は知るよすがも無いが、細やかな史実の一駒として付言したい。


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