日本の宿題と世界平和への道

小宮賢孝氏近影

興亜観音を守る会会員

小宮賢孝


 祖国日本には重大な宿題がある。それは

 (一)誤れる東京裁判史観の払拭
 (二)日本国憲法の改正
 (三)古事記・日本書記による国史の復活

 である。
 (一)に対しては、東京裁判に於いて唯一人、日本無罪の判決を出された、インド代表判事、ラダー・ビノード・パル博士の判決書を一読し、その末尾に残された次の言葉を、熟読翫味し終われば解決するであろう。

 「時が、熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎ取ったあかつきには、その時こそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう」

 (二)に対しては、拙文ではあるが一連の拙著「混迷の現代を救う道」を一読せられることを望む。
 (三)に関しては、昭和天皇の次の御製を、よくよく拝誦されることを望む。

 昭和天皇御製
 悲しくもたたかひのためきられつる
 文の林をしげらしめばや

 これは昭和23(1948)年にお詠みにあそばされた御製である。
 記・紀による国史の復活を願われての御製なのである。
 祖国日本は、大東亜戦争の敗戦により、昭和20(1945)年8月から昭和27(1952)年4月まで、6年8ヶ月の間、米軍を主体とした連合国軍隊の占領下にあったのである。
 被占領下の時代は、GHQの意向を聴かなければ何一つ出来なった時代であったのである。
 この事を正しく認識しなければ現在に処することは出来ない。
 現在の日本は、占領政策の延長線上をいまだ抜け切ってはいないのである。
 GHQの占領政策の大なるものは、東京裁判であり、日本国憲法の制定であり、教育の改革であった。
 神道指令に始まる教育改革は、神話の否定日本史改竄へと進み、神代の歴史、神武天皇建国の歴史は消されてしまった。
 これこそ、祖国日本建国以来の最大の国難なのである。
 神話を失えば、日本が日本では無くなってしまうのである。

世界平和への道

 経文に「仏は滅したまはずと知るべし」とある。
 神・仏の御神霊は永遠不滅なのである。

 明治天皇御製
 目に見えぬ神にむかひてはぢざるは
 人の心のまことなりけり

 目には見えない神に向かって恥ぢない様につとめる。
 これが人倫の最高の道である。
 人間が神を見失ってしまっては、人ではなく一介の動物に堕ちてしまう。
 人類は未だ進化の過程にある。
 人類の歴史二百万年とも三百万年ともいう。
 現代人が文字を発明し、智の蓄積が出来るようになったのは、数千年前からと言われている。
 更に、古代の天動説が世人の一般常識から消え始めたのは、数百年前からの事なのである。
 人間は進化の過程にあり、進化し尽くした完全無欠な人格とは成り得ていないのである。
 人間の人格の完成度は、上は聖人・下は凡人、理性の未発達の小児・幼児に至るまで、全くの千差万別なのである。
 この人間社会に於いて、人格を最高限度まで進歩させられたのは、大聖釈迦なのである。
 釈迦こそは人間最高の大人格者であり、最尊の仏なのである。
 その大聖釈迦の説く法華三部経は釈迦の最高の教え子であり、まことの真理の教えなのである。
 経文に、「一切の業障海(ごうしょうかい)は皆、妄想より生ず」とある。
 業(ごう)とは、人間の行為をことであり、業の行為を善業(ぜんごう)、悪の行為を悪業(あくごう)という。
 また、過去の行為を宿業(しゅくごう)、または前業(ぜんごう)という。
 業障(ごうしょう)とは、悪業の為の災い、即ち人災のことである。
 業障海とは悪業の為の災いは海の様に広がっている。ということである。
 人間は未完成なるが故に、妄想に陥り、悪業(あくごう)即ち人災を重ねてしまうのである。
 人災の根本的原因は妄想なのである。
 人災の最大なるものは戦争である。
 戦争の根本的原因も妄想なのである。
 20世紀に悲惨な世界大戦争を2回も経験した現代人が戦争を無くすことすら出来ず、次々と強力な兵器を開発し、益々戦備を強化している。
 この21世紀に入った途端にテロ戦争という最悪の戦争を始めてしまった。
 原水爆という地獄の爆弾を造り出し、化学兵器、生物兵器まで開発してしまった現代人が、もしもこれらを使う戦争を起こしてしまったならば、人類の滅亡となるやも知れないのである。
 原水爆戦争、化学兵器、生物兵器戦争は、何としても阻止しなければならない。
 戦争の根本原因が妄想である以上、人間の妄想を払拭しなければ戦争は無くならない。
 人間の妄想を糺(ただ)してくれるものは、唯、真理のみなのである。
 人間が、人として真に戦わねばならぬ敵は我欲と妄想である。
 我欲の単なる動物的発散は弱肉強食の修羅場を現出する。
 妄想のままの行動は誤れる結果を生むのである。
 我欲を押さえるの道はまことの真理の確立である。
 大聖釈迦の説く法華三部経(開経としての無量義経、本経である妙法蓮華経、結経としての普賢菩薩行法)は、まことの真理の教えである。
 これを正しく理解し、正しく実践してゆく所にこそ、妄想を脱し、安心立命の境地を開き、真の世界平和への道がある。
 法華経には如来の一切が説かれている。
 現在は未だその一部が解明されたのみであり、その総ては未解明なのである。
 法華経の正しい開明、正しい実践こそ、人間最大の宿題である。
 普賢菩薩行法経に「仏は滅したまわずと知るべし」とある。
 神・仏の御神霊は永遠不滅である。
 これを正しく認識する所に、妄想を断つ道がある。
 神とは、愛の極致、慈悲の極致である。
 人間の社会は人と人との関係に始まる。
 相手を、愛の対象とするか、慈悲の対象とするか。
 憎しみ、恨みの対象とするか。
 我欲の犠牲者とするか、妄想の犠牲者とするか、により、平和か・争いか・罪悪か・に分かれてしまう。
 相手を、愛の対象、慈悲の対象とする以外に、平和への道は無いのである。
 総ての人々を、愛の対象、慈悲の対象として、魂魄を愛の極致、慈悲の極致にまで昇華せられた神霊こそ、まことの御神霊である。
 悪の極致、邪の極致は、悪魔であり、天魔である。
 善神、善霊、まことの御神霊を祈ればこそ、平和への道は開かれて来る。


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