いま「虐殺記念館」は、
どうなっているか

阿羅健一(あらけんいち)

 昭和六十(一九八五)年、虐殺記念館が南京に建てられた。
 十八年前になる。
 今年二月に私は南京に行き、そして記念館まで足を運んだ。
 これで都合三回、記念館を見てまわった。
 十八年前にたてられたとき、建物の正面には大きく「300000」という数字が掲げられた。
 入場券をもとめて入っていくと、目の前に白いコンクリートの建物が現れる。
 数字はその正面に掲げているから、数字を見ないで記念館に入ることはできない。
 うまい作り方がされている記念館だった。
 それからしばらくして、記念館は拡張された。
 「300000」と掲げられた建物の前に、あらためて大きい入口と記念碑がつくられた。
 これまでの入口の前方が拡張されたのだ。
 しかしその為「300000」の数字が目立たなくなった。
 前の記念館を見ている人は、どうしてこんなにしてしまったのかと思うだろう。
 その記念館は、いつも閑散としている。
 わざわざ見にいくほど関心ある中国人はいないようだ。
 展示物の目玉は、記念館のまわりから掘り出された人骨だ。
 もともと、記念館から百メートルのほどのところには監獄があって、そこでは処刑も行われたというから、記念館のまわりから人骨が出てきても不思議でない。
 さらに千メートルほど先のところでは、南京から脱出する中国軍と鹿児島の第四十五連隊が激戦をした。
 二千人をこす戦死者がでて、そこは揚子江岸のクリークだったから、そのまま放棄された死体もあっただろう。
 記念館のまわりには、もともとたくさんの死体があったのだ。
 記念館には映写室が併設されていて、その映画も記念館の目玉だけれど、つねに上映されているわけではない。
 これも座ってじっくり見ようとする人はいないのだ。
 「南京虐殺」のフィルムというけれど、はじめのころ映写されていたものは、北支にある城壁が映っているものだったり、徐州会戦での寺内寿一大将と畑俊六大将のものだったり、南京と関係の無いものばかりだった。
 いま映写されているものも、よくなったとはいえ、南京戦と関係の無い場面が多い。
 展示物の解説もお粗末だ。
 百人斬りはいつも展示されているけれど、野田厳少尉は、いつまでも野田岩少尉となっている。
 南京にとどまった宣教師のなかにはフィッチとウイルソンがいた。
 その日記のコピーが展示されていて、「フイク(Wilson)日記」。
 フィッチのものか、ウイルソンのものなのか。
 このように、記念館のなかのものはどれもこれも、南京虐殺が作りごとだと証明してるようなものだ。
 そういった展示物のなかに、千羽鶴があることをあげなければならない。
 何百、何千というおびただしい数の千羽鶴。
 それが虐殺の証拠だというのではない。
 記念館を訪れた日本人が捧げたものだ。
 修学旅行でやってきた日本の高校生や日教組が、日本を経つ前に折っているから、記念館を見て勉強しようとする気持ちは無く、はなから謝罪すると決めている。
 記念館を見たところで勉強にはならないけれど、現実を見ようとしない日本人の千羽鶴。
 この展示の、記念館ができた時から変わっていない。

 興亜観音を守る会理事、近現代史研究家


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