帰って来た孫たち

長塚國雄

 「しばらく振りです、覚えていますか・・・。A子です。子供をまたお願いします。」
 と、小一、小二の姉弟の子供を連れてきたA子だったが、もう名前もすっかり忘れていた。
 昭和42(1967)年9月、近くの小学校横で書道教室を開いてから間もなく入室した、三人姉妹の末っ子のA子ちゃんだった。
 やぁー暫(しばら)くだったねェ。
 覚えているとも、みんな可愛い顔だったからねェー・・・と、言いながら、茶色く古ぼけた入室名簿をめくって見せると、あったあったと、親子は歓声を上げた。
 お父さんお母さんは元気か。
 姉ちゃん達は・・・、と娘が孫を連れてきたという感じで何とも嬉しい気分である。
 どうだァ、すっかりお爺さんになって驚いただろう、と言うと、いやァ子供の頃とちっとも変わってないので驚きましたァと、おせじを言う。
 その一方で、また始めたくなって・・・、小三の娘と一緒にお願いしますと言って来たM子ちゃんは、名簿を懐かしそうに見て、私は二年生で来たのでしたネェーと確認すると、その小三の娘は、お母さんは二年生だから私より一年早くから習っていたのネェと感慨深げに言う。
 別に小一、小三の兄弟を教室に入れ、熱心に、時には車で送迎していたが隣の区に引越しして行ったN子という子もいた。
 地方都市に住むY子ちゃんは今年もまた年賀状に、中一、小五、小三の子供の成長と、もう手が掛からなくなったので、老人介護の資格を取って働き出したと元気な便りをくれた。
 開室当時、みんな小一、二年のあどけない子供ばかりで、小さな手に筆の握り方、左手の位置、用具の名称等を説明し、手に執って一緒に書いた事もあった。
 そんないわば子飼いの子供達が、自分の子供を連れてくる。
 人生の回り舞台を見る思いで、他人のような気がせず、孫達が帰ってきたという感じだ。
 教室では、折角子供達を預かるのだから、習字だけではなく一緒に社会のルールを一つでも教えようと、教育勅語を謹書して正面に掲げ、教室の決まり、約束を掲示して必ず守るようにした。
 どうしても守れない子は他所(よそ)へ行け・・・、と厳しく躾(しつ)けたが、それが自然に教室の伝統となって、新しく入った子には先輩達が、例えば入退室時には必ずあいさつをすること、靴は下駄箱にきちんと入れ、教室では静粛にしてふざけないこと等を教えるようになった。
 それが現在でもずうっと続いている。
 不法な東京裁判に続いて、米国の七年間にも亘(わた)る日本弱体化政策は、国体を解剖し我が国教育の根本的理念を破壊した。
 敬神崇祖の念を排斥して、民主主義とはいうもののマルクス思想の混入した過度の自由平等、放任主義を、日教組を通して浸透させ、人間形成に最も大切な倫理道徳は頽廃(たいはい)してしまった。
 道徳の規範として世界の識者が絶賛する教育勅語の教えが、今ほど渇望される秋(とき)はない。
 少子化が進み子供の数が激減している。
 不況で緊縮財政の影響は色々なところに波及している。
 習いごとの分野も当然減少し続けているが、過保護による甘やかしは決して迎合せず、教室の躾(しつけ)と伝統だけは守り続けようとしている。
 このほかにわが道なしと、朱筆と雑巾を持ち、こんにちは、さようならを言い続けて、早や三十五年になる。
 自分が通った子供の頃を思い出してわが子を連れてくる親になった娘たち。
 当時の思い出を語る彼女らの表情には格別の喜びがにじみ出ている。
 一方不安定な世相に憂国の念止み難く、歴史教科書をつくる会や興亜観音を守る会などの諸会に入って、及ばずながら世直しに何か役立ちたいと希(こいねが)いながら、歯痒(はがゆ)くも、その術(すべ)を知らずに迷っているこの頃の私である。
 (守る会会員・書道教室経営)


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