或る昭和殉難者の妻

長塚國雄
長塚國雄氏近影

 戦後40年を前にした昭和59(1984)年10月、私の生まれ故郷、熊本の熊本日々新聞が来れし方を振り返る体験記を募集したことがある。
 私も家内と2人で募集した。
 応募総数286編の中で第1席となった本田タネさんが応募した「B級戦犯の妻」が翌年元旦から新聞連載されると大変な反響を呼び、タネさんのもとには感動と励ましの電話・手紙が殺到した。
 入選作10編は『体験記・私の昭和』としてその年12月に刊行されている。
 私はその頃から、今年86才になられたが今もお元気なタネさんとの文通が続いている。
 私は戦勝国がおこなった戦犯裁判のデタラメさに、かねがね憤りを覚えている者の1人であり、いわゆるBC級裁判の多くが、復讐劇に過ぎず裁判に価しないものと考えている。
 たまたま今回、野田・向井両少尉の「百人斬り訴訟」が始まったと聞いたが、必ずや冤罪を晴らす判決が出ることを期待している。
 そのようなことから、かねてから紹介したいと考えていた本田タネさんの入選作品を、この機会に誌面をお借りして発表させて頂くこととした次第である。
 なお、原文は約1万数千字の量があり、今回はほんの要点を私なりに妙出したものなので、彼女の思いのほんの一部しか紹介できないことをご容赦願いたい。

 支那事変中の昭和14(1939)年、看護婦として熊本陸軍病院に勤務中、前線から右肩負傷で送還されてきた本田始上等兵の看護をしたことから、本人と上司からの説得に負け結婚を承諾した。
 タネは22歳であった。
 夫の傷はかなり治ったが、原隊復帰は不可能と認定され除隊となり、俘虜監視の仕事に傷痍軍人を求めていると聞き、右手が不自由で他に仕事がなかったことから俘虜収容所に軍属として勤務する事となった。
 昭和18(1943)年5月の終わり頃である。
 勤務先は熊本にあった福岡俘虜収容所第一分所で、飛行場建設に従事する俘虜の監視が役目だった。
 張り切って出動していたが収容所が福岡に移動し、初めての新婚らしい生活を送っていたが、20(1945)年3月末、夫の右肩の痛みがひどくなり退職帰郷した。
 4月からはタネが診療所に看護婦として働き生計を支えた。
 夫の両親を抱えた生活は、経済的にも精神的にも厳しいものだったから、昼間だけでも生き抜きが出来ると、タネは懸命に働いた。
 やがて終戦。
 タネはさまざまの言語に絶する苦労と闘いながら、21(1946)年の新春を迎えた。
 それもつかの間、2月19日に地元警察署から届けられた戦犯容疑の拘置状は、まさに晴天の霹靂(へきれき)であった。
 来る4月11日に東京の連合軍事務所に出頭せよとの内容で、4月9日朝、夫が2人の警察官の護衛で拘引されていくのを、タネはただ涙ながらに見送るだけだった。
 拘置されてから1年後、横浜の米第8軍軍事裁判所から、5月15日の公判に証人として出頭せよとの電報が届き、義父と2人で身動きの出来ないような混雑の復員列車で、2日がかりで裁判所に到着した。
 九州から出てきた旨(むね)を告げると、事もあろうに何と裁判は前日の14日に行われ、既に判決が出たと言われた。
 その上その判決は「絞首刑」と知らされる。
 余りのショックにタネは気を失って床に倒れる。
 立ち上がると泣きながら我を忘れて抗議したが、もちろん聞き入れられるはずはなかった。
 そのあと、巣鴨プリズンに面会に行き漸(ようや)く夫との面会は出来たが、涙ばかりで殆(ほとん)ど言葉は出なかった。
 背中の(P)の囚人服の夫の後ろ姿に手を振って別れるのが精一杯だった。
 1ヵ月半後の6月30日、タネはもう一度面会する。
 今度は話が出来たが、夫は「もうお前のもとには帰れぬだろう。幸福になってくれ。自分の独房は3階の右端で小窓を動かすから外へ出たら見ていてくれ」と言う。
 言葉どおり外の草原で待っていると小窓は小さく動き始めた。
 5分、10分、15分、高窓なのか姿は見えない。
 タネはたまらず両手を顔に当てうつ伏せになってしまった。
 この別離がやはり最後のものとなった。
 その後は面会禁止となり、音信も無くこちらの手紙も届いたのか分からぬ中、昭和23(1948)年7月3日午前0時30分戦犯8名処刑執行との新聞記事で、夫の死を知った。
 何の通知も無かったが、丁度初7日の日に差出人無しの封筒が届き、中には花山信勝教戒師がつけた法名と、遺髪と爪が入っていた。
 あとで分かったが花山氏のご厚意であった。
 その半年くらいあとに、少しばかりの遺品と遺書が届いた。
 講和条約締結後の昭和28(1953)年12月15日付けの横浜市長の火葬証明書が届いて、処刑後百日後の23年10月13日久保山火葬場で火葬されたことが分かった。
 遺骨の行方は不明である。
 巣鴨や外地で不当極まりない戦犯裁判の末処刑された者と、その遺族は、みな同様な目に会っている。
 長い間偏見に耐えて生きて来た者が世間に向かって空言を言い、同情を買うような偽りを述べようとは毛頭も思っていないが、このまま自分1人の胸に納めて逝かねばならないと思うと、誰か1人でもよいから知って頂けたらと、タネはその一文を結んでいる。

 (守る会会員・書道教室経営)

 ■編者注

 長塚さんから原稿を頂戴し、さらにタネさんの著書も送って頂いてどうしてもこの号に発表したいと思っていました。
 私事で恐縮ですが、私の父が中国において戦犯(幸い死刑は免れ終身刑で服役)であった事もあり、人一倍関心が深い。
 名越二荒之助編著「昭和の戦争記念館」第5巻、第2部「戦犯とされた昭和の殉難者たち」としていわゆるBC級戦犯のことを書かせて頂いたのでお読みになった方もあると思う。
 長塚さんも書かれた通り、言われ無き容疑で拘禁され、まともな審理もないまま刑場の露と消えた者がいかに多いか。
 田中正明先生も言われたように、日本には戦犯とよばれる者は一人もいないのです。
 そこで本稿の題名も靖国神社で言われている「昭和殉難者」を使っている。
 なお、小生の手元にある資料などから、故・本田始氏に関する事柄をここに記載したい。

 (1)本田始は大正6(1917)年3月20日生まれ(処刑時31才)。

 昭和12(1937)年の徴兵検査に甲種合格し、翌年1月歩兵第13連隊に入営、4月には中支戦線に派遣され、昭和16(1941)年に右肩甲骨に敵弾を受け内地帰還。
 昭和17年1月兵役免除となり、昭和18年5月、一旦補充兵召集を受けたが同日解除、同月末から軍属として福岡俘虜(※HP作者注・「捕虜」のこと)収容所第一分所に勤務した。

 (2)本田氏の起訴理由は、「昭和18年5月1日〜20年6月30日にわたる間、福岡第一俘虜収容所において俘虜に対し打擲その他の虐待を加え多数の俘虜の死に寄与せり」となっている。

 (3)福岡俘虜収容所第一分所(箱崎分所とも)の事件で逮捕されたのは本田氏だけで、所長もその他の上司・同僚も誰ひとり対象となっていない。
 他に余り例の無いケースであり、タネさんもその疑問を書いている。
 結局、ただの監視員だった「本田の独断」として裁判は行われた。

 (4)本田治氏が火葬に付された久保山火葬場について書いておきたい。
 現在は墓地・斎場などとなっている横浜市西区久保山にあったもので、七烈士(東條英機元首相など7名)の火葬が行われたことは会員の皆様は良くご存知の通りであろう(「興亜観音」16号伊丹忍礼師の文が再録されている)。
 その久保山では、横浜法廷で死刑とされた人たちが合計53名火葬に付されている。
 本田氏は巣鴨で処刑されてから100日後の昭和23(1948)年10月13日に火葬されたとされているが、他の者同様に遺骨遺灰は、非道にも東京湾に棄てられたと言われている。
 なお、久保山の光明寺境内には、東條英機元首相ら7人と共に「六十烈士忠魂碑」が昭和43(1968)年に有志の手によって建立され、昭和57(1982)年以降は、郷友連盟神奈川支部主催の慰霊祭が毎年10月に挙行されている。
 平成15年の今年は10月20日(月)に行われた。

 参考文献

 『体験記 私の昭和』 熊本日々新聞社編 〈昭和60(1985)年12月〉

 『B級戦犯の妻 ふたすじの道』 本田タネ 熊本日々新聞社 〈平成10(1998)年9月〉

 『戦争裁判 裁かれ逝きし人々』 本田タネ 熊本日々新聞社 〈平成15(2003)年1月〉

 『遺された妻―横浜裁判BC級戦犯秘録』 上坂冬子 〈昭和58(1983)年4月・中央公論社〉

 『世紀の遺書』 巣鴨遺書編纂会編 〈昭和28(1953)年12月・巣鴨遺書編纂会事務所〉

会報18号目次のページへ