昭和十七年に大日本仏教会が紹介した
「興亜観音」と「松井大将」

名越二荒之助

 ここに紹介する写真入り記事は大日本仏教会が昭和17(1942)年11月に発行した『日本文化與中国先賢』という刊行物(2千5百部発行という)に載っていたものの紹介である。
 「興亜観音と松井大将」の記事が載った同書は、或る有志(注・当会会員の岩崎昭彦氏)が古書店で発見し私に提供して下さったものだ。
 戦前の興亜観音についての貴重な資料なので、会報の一貢を利用して発表することとした次第である。
 なお、その記事の前に、鶴見総持持寺で行われた「中国革命志士顕彰碑除幕式」の報告が載っている。
 これまた貴重な資料なので、興亜観音と直接無関係だが紹介したい。
 そこには「中国革命丗周年を記念し“中国革命の父”孫文先生をたすけ不幸殉難した日本人志士故山田良政氏以下百五十余命の英霊を顕彰するため、かねて国民政府日本同志援助革命追念会の手で鶴見総持寺境内に建設中だった顕彰碑の除幕式ならびに物故者の慰霊法要は、秋雨しとど降る昭和十六(1941)年九月」丗日朝十時から同寺境内龍王池畔で厳かに挙行された」とあり、国民政府側から汪主席代理ほか要人ら、日本政府側から近衛首相、豊田外相などが列席したと書かれている。
 二丈余の石に刻まれた「日本同志援助中国革命追念碑」の文字は汪兆銘の書である。
 日本で無念の死を遂げ、戦後は「漢奸」として残酷な扱いを受けている汪兆銘のことは、日本人として是非とも記憶に留めておいて欲しいものだ。
 鶴見総持寺に現存するこの碑の写真は、拙著『昭和の戦争記念館』第1巻に汪兆銘その他悲運の中国愛国者についての記事とともに掲載しているのでご覧願いたい。
 総持寺におこしの折りには是非参詣して戴きたい。
 それに続いているのが、ここに掲載した記事と写真である。
 昭和17(1942)年11月と云えば、大東亜戦争真っ只中であるが、大日本仏教会が発行したこのような刊行物に、興亜観音の建立と松井大将の発願による一大事業が取り上げられていることに新たな感慨を覚える。(当会顧問/『昭和の戦争記念館』編集長)

説明文<原文のまま>

一〇、興亜観音と松井大将

 皇軍百萬杭州湾上陸のアドバルンを蘇州の蒼空に掲げ抗日陣営に一大衝動を與へ、怒涛の如く南京に殺到して遂に昭和十二年十二月十三日入城、ここに昭和の黎明中国の新発足を劃す。かかる武烈輝かしき時の上海方面最高指揮官松井大将閣下の常に心に去来するものは、興亜の礎石として戦没の彼我将兵に對敬虔の念であった。
 新戦場一握の土にも新東亜建設に捧げたる尊き血潮が染み出てゐる。
 将軍は大場鎮に南京戦場に、日華両軍将兵の血潮かをる霊土を運び来つて、観音を彫像し、静岡県熱海景勝の地にトして、興亜観音建立の発願を成就せられた。維持皇紀二千六百年二月


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