『興亜観音』第18号記事

後日譚三題

編集部


 昨年(2003)10月に発行した本誌18号の記事を読んだ会員の方から、事務局を通じ、或るは直接編集部に、都合3つの反響が寄せられた。
 編集者冥利に尽きる話である。
 いずれも“一寸いい話”と思われるので、ご紹介することとした。

岩手県盛岡市Kさんからの手紙――――――――――

 板垣会長の紹介で、最初当会員となられたKさんから、事務局にお手紙が届いた。
 昨年12月のことである。
 その手紙には、

 拝啓、突然にお手紙を差し上げること、お許し下さい。
 私は今迄盛岡市遺族会や父の関係していた戦友会等に、時々参加しておりましたが、戦闘による戦没者と違っていた父の場合どうしても話が合わず少しずつ足が遠くなっていました。
 今回板垣先生のご紹介によって興亜観音を守る会に入会致しました。
 今回初めて会報十八号を戴きすぐに拝見致しました。
 会報の文を拝読し同じ環境の方々のご意見やお話しを知る事が出来て今迄にない気持ちでした。
 同じ気持ちで相互に理解出来る方々の会に入会出来て喜びを感じて感謝しております。(以下続く)

 とあった。
 K氏の父親は、Kと言われ、泰(タイ)俘虜収容所勤務の陸軍大尉だった。
 悲運にも泰面鉄道建設にからむ捕虜虐待死致死の罪に問われ、英国戦犯として昭和21(1946)年3月14日にシンガポール・チャンギーで絞首刑に処せられている。
 平成13(2001)年6月、Kさんは英国公文書館に保存されていた裁判記録を、関東学院大学教授で日本の近現代史研究をされている林博史教授が発見したものの中から、同教授に特に依頼されて入手された。
 英文その記録のコピーも、今回の手紙に同封されていた。
 お気付きのように、隅々第十八号には戦犯に関する記事が多く載っている。
 長塚國雄氏の「或る昭和殉難者の妻」の本田タネさん(次項に記載)のこと。
 田中正明先生の「日本に戦犯は一人もいない!」の論考。
 「百人斬り訴訟を支援する会発足の記事もあった。
 これらの記事が、新会員になられたKさんの目に止まり、このようなお知らせを戴いたわけだが、松井大将と興亜観音を貫く、敵味方、敗者勝者の別なく尊ぶ「怨親平等」の精神を、連合国が持っていてくれたら、あのような戦犯裁判など行われずに済んだのに・・・、と今更ながら考えてしまった。

本田タネさんと、久保山六十烈士忠魂碑のこと――――――――――

 第18号に長塚國雄さんが書かれた一文が、興亜観音と、六十烈士の忠魂碑を結びつけることとなった。
 戦後の占領政策の基本となったのは「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」《戦争についての罪悪感を日本人に心に植えつけるための宣伝計画》である。
 これをもとにして、@言論・出版に対する圧力、A戦争責任の追及、B教育改革、C新憲法制定の四政策面から日本の精神的武装解除が行われ、その残滓(ざんさい)が未だにこびりついたままになっているのが、今日の日本である。
 今号の巻頭言で板垣会長が述べられている通りだ。
 その一つの「戦争責任の追求」でいわゆる「戦争裁判」が行われ、5千7百名近くの方々が被告とされ、4千4百名余りが有罪となり、1千百数十名が死刑または獄中死された。
 その大部分が不当な理由乃至は必要以上の極刑であったことを、我々日本人は忘れてはならない。
 本田タネさんのたどった苦難の道については、長塚さんの記事を読んで頂ければ分かるが、上記の駒井修さんも遺族としてのご苦労も同じようなものであっただろう。
 先ごろ4回目の裁判が行われた「百人斬り訴訟」の原告、向井千恵子さんたちも同様であり、その名誉回復のためにもこの裁判に勝訴せねばならない。
 第18号に書いたように、横浜の久保山には戦犯の罪で刑死した六十烈士の忠魂碑がある。
 昭和43(1968)年10月20日に除幕式が行われたこの忠魂碑であるが、現在でも、日本郷友連盟神奈川支部の手によって、毎年この日の前後に慰霊祭が行われている。
 昨年(2003)も10月20日に開催されたが、前記の「興亜観音」の記事がきっかけとなり、本田タネさんが遠路熊本から出席された。
 大正5(1916)年5月生まれにも関わらず、夜行列車の1人旅である。
 そのため、慰霊祭は格段の盛り上がりを見せ、主催者に喜んでもらえた。
 たまたま来日していて、この慰霊祭に出席したハワイ在住の早瀬登氏(18号に寄稿。次号、19号に登場)と奈良が介添え役を果たすことが出来たのはせめてもの事だった。
 本田さんは、帰郷後丁重なお手紙と共に、興亜観音を守る会へと多額のご寄付金をお送り頂いていることを申し添えておく。
 なお、毎年慰霊祭が行われている「殉国六十烈士忠魂碑」は、横浜市庚台66番地の光明寺境内にある。
 市バス「久保山霊園前」で下車が便利である。
 今年も10月20日頃挙行されると聞いている。
 会員の方の参加をお願いしたい。

興亜観音を守る会会員がハワイで歓談――――――――――

 第18号に、「ハワイから興亜観音を思う」という記事が載ったのを覚えておられるだろうか。
 その記事を送ってくれた早瀬登君から編集部に連絡があった。
 毎年冬期ハワイに逗留(とうりゅう)されている井上さんから、「興亜観音18号で貴方のことを知った。一度お会いしたい」との電話をもらったが、世田谷の井上という人が会員におられるか、という趣旨(しゅし)だった。
 すぐ調べて井上時男さんに違いないと連絡した。
 2月11日FAXが入り、「昨夕井上さんとお会いした。やはり井上時雄さんだった。ご夫妻で見え、私より3〜4歳年長とお見受けしたが、日本の現状を憂うる点で全く考えや歴史観が同じで、話がはずみ楽しく過ごすことができた」などとあった。
 帰国された井上さんから編集子に連絡があった。
 ハワイ滞在中の早瀬君と会えたのは会報のおかげで、大いに語り、色々な点で共感した。
 同志のネットが広がっていくのは頼もしい限り、今後ともよろしく、とのことであった。
 井上さんの興亜観音入会は随分前のようで、懇親会にも何度か出席され、田中前会長にも会われているとのことである。
 なお叔父の忠男氏<注・陸士40期、陸大52期>が終戦時梅津参謀総長の副官を務められ、戦犯として巣鴨収監中の梅津大将に面会のため毎日通っていたこともあり、松井大将のお世話をされていた田中前会長には、お目にかかった当初から親しみを感じていたなどとも話されていた。
 早瀬君の興亜観音に対する熱い思いが、本会の結束を深めることにつながったのは喜ばしい。


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