興亜観音ものがたり
第1回
『南京大虐殺の虚構』田中正明著より


改名のこと

優しく柔和なお姿の興亜観音
興亜観音像

 敗戦後の熱海は、アメリカ占領軍の歓楽場となった。
 その歓楽場に「興亜」と名乗る社寺のあることは米軍に対してまずいのではないか。
 「興亜」を「興和」つまりアジアを興すに改めてはどうか、という声が奉賛会の間からでた。
 奉賛会の顔ぶれの中には、熱海市長もいた。歓楽の街熱海の市政に障害がありはしないかという、外人の顔色を先回りして伺う日本人的発想であった。
 この奉賛会の意向を岡田尚(たかし)が獄中の松井大将に伝えることになった。
 巣鴨の面会場で岡田からこのことを聞いた大将は、いつもの物静かな、柔和な面を朱に染めて、首を横に振った。そして激しい口調で、「何をたわけたことをいうか、改名しなければ存続させんとでも米軍が言うのか!改名するくらいなら、根こそぎ爆破して、観音様を相模湾の中に鎮め申せッ!」
 その声は、三軍を叱咤(しった)するこえであった。
 この大将の逆鱗(げきりん)におそれをなして、以後市長も奉賛会の役員も、興亜観音改名の話題はタブーとし、触れることを恐れた。
 このことがあってのちいっそう熱海市も地元も、この観音堂をむしろ邪魔扱いにし、支援・賛助の道もたたれた。
 ただわずかに大将の仁徳をしたい、恩讐を超えた自他平等の精神に共感する少数の人々によって、インフレと食糧難の厳しい占領中を辛うじて維持された。

遺骨秘匿のこと

 2年8ヶ月かかった東京裁判は終わった。
 いかにも公正らしく装ったこの国際軍事裁判は、今上天皇の誕生日、すなわち4月29日の天長節に起訴し、皇太子殿下の誕生日、すなわち12月23日零時を期して7戦犯の処刑を実施するという、執念ぶかい復讐裁判であったことはご存知の通りである。
 マッカーサー元帥は、敬虔(けいけん)なキリスト教徒として、公正な統治者であるごときポーズはとっていたが、東條勝子夫人が日本の風習にしたがい、良人(おっと)の遺骨を頂きたいと願い出たのに対し、これを拒否した。
 そして、7人の遺骨はこれによって没後英雄視されるようなことがあってはならぬ、誰にも知られるよう太平洋のどこかに捨てろ!と命令した。
 小磯国昭(こいそくにあき)元首相被告の弁護人でもある三文字正平(さんもじしょうへい)は、横浜市の久保山火葬場近くの興禅寺住職、市川伊雄(これお)と同火葬場長、飛田美善(みよし)とはかり、7人の遺骨を盗み出すことに成功し、7つの小さい壺に納めた。
 しかし線香をあげたことが千慮の一矢で、その匂いのために発見され、遺骨は骨捨穴に捨てられてしまった。
 そこで三文字ら3人は、深さ4メートルもある骨捨穴に投ぜられたお骨を、12月24日クリスマス・イヴの深夜、凍る寒さの中を、長さ4メートルの〈カキ上げ〉(骨をかき出すのに使用する道具)で、12、3回かき上げ、普通の骨壷1ぱい分を採集した。
 この7人の残骨を秘匿したのが、この興亜観音の露仏像下の岩場である。
 このことは三文字弁護人と7人の遺族のみが知るだけで、7年半の占領期間中極秘にされていた。
 ただ毎年12月23日の命日には、7人の遺族はここに集まり、ひそかに供養を続けた。
 残骨は7ツに分けようという案もあったが、最初から一処具会(いっしょぐえ)の7人だ、そのままにしておきましょうということになり、いまなお観音像の下に静かに眠っている。
 なお、愛知県蒲郡三ヵ根山上に、東京裁判の弁護士たちによって建立された「殉国七士墓」の下に安置された遺骨は、興亜観音からの分骨である。

ウオーカー中将頓死のこと

 その7戦犯の処刑執行責任者は、ヘンリー・ウォーカー中将でもある。
 彼が刑の執行を命令し、処刑した7人の遺体を深夜トラック荷台に積んで、護衛をつけ、久保山火葬場まで運搬し、厳重に憲兵を配置して火葬に付した。
 そしてどこに捨てたか知らないが、太平洋にその骨を捨てて処理した――宗教的儀礼もなく、馬の骨でも捨てるように――そのすべてをはたしたのがウォーカー中将であった。
 昭和25(1950)年、朝鮮戦争がはじまり、ウォーカー中将も兵を率いて韓国におもむいた。
 戦場視察のため、断崖絶壁の雨にぬかるむ海岸道路を走っている時、後ろから友軍の貨物自動車の追突をうけた。
 彼の自動車は、もんどり打って数10メートル下の渚に転落し、アッという間もあらばこそ、彼はあえない最期をとげた。
 なんとその日が、7人の祥月命日、12月23日、しかも午前零時、奇しくも死刑執行の同じ日、同じ時間であった。
 3年後の昭和26年の出来事である。
 マッカーサー元帥はじめ米軍の首脳たちは、この時はじめて、怨霊の恐ろしさを知りふるえあがったという。
 興亜観音奉賛会や7士の遺族たちは、このウォーカー中将の頓死を聞いてあわれみ、「興亜観音に恩讐のへだてはない。恩親平等だ、それが松井大将のこころでもある」、そういって、ウォーカー中将の霊をまつる墓標を、観音堂のうしろに建てて供養した。

赤軍派の爆破にこと

赤軍派に爆破されたあと復元された「七士の碑」(
向かって右端の碑)

 昭和46年(1971)12月のことである。
 例の赤軍派の「東アジア反日武装戦線」グループ数名が、この山にのぼり、「七士の碑」にダイナマイトを仕掛けた。
 時限爆弾で、夜の9時58分、これを爆破した。
 大爆音とともに、高さ1.4メートル、幅90センチもある大きな自然石がばらばらになって吹っ飛んだ。
 その導火線は、そこから「B・C級戦犯処刑者1068名霊位」の碑(高さ2.5メートル)をひとまきし、さらに30メートルほど離れた観世音菩薩の露仏像の腰に巻きつけ、それぞれダイナマイトを仕掛けた。
 「七士之碑」は爆破したが、幸いにしてB・C級戦犯の碑の額部の「南無妙法蓮華経」の「法」のところで、導火線がショートしてしまったのである。そのため、B・C級の碑と観音様は辛うじて命拾いした。
 このため警察や新聞記者が連日押しかけ、静かな観音堂は、時ならぬ人でにぎわった。
 堂守の伊丹妙真さんは、大きく3つに割れ、さらに細かく飛び散った石の破片を丹念に拾い集めて鄭重(ていちょう)に供養した。
 ところが、たまたまここを参拝した東京・上落合に住む玉島信義という土木業者が、この話を聞いて義侠心(ぎきょうしん)をおこし、友人の業者を誘い合わせて、復旧事業に取り組んだ。
 7人の土木業者が、それぞれ道具を手にして山に登り、3つのこわれた石をもとに、破片を集めてジグゾー・パズルのように、くっつけたり、離したり、逆さにしたりして、接着剤をつかって完全に復元した。
 もちろん無償の奉仕であった。
 吉田茂首相の揮毫(きごう)した現在の「七士の碑」は、表面満身創痍(そうい)ながら、不思議と表裏の7人の署名は、割れ傷もなく、完全無欠のまま復元された。(次号へつづく)


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