故、伊丹妙真師との出会い
菊田昌代


 人生の中で財産と言われているものは沢山ありますが、最も大切な財産とは、多くの方々との出会いであり、その出会いの中で数々の経験、体験を通じて自己の向上の糧(かて)にして行く事が本当の財産である、と聞いております。
 縁なき衆生は度し難しとか、出会いもご縁がなければ広がって行きません。
 立正校正会世田谷教会が修養道場地として、東條邸宅地を購入して頂いたのは昭和58年(1983)の暮れでした。そのご縁で、所謂(いわゆる)A級戦犯七士のご遺骨が伊豆方面のどこかに手厚く埋葬されていると聞き、佐藤欣夫さんが仕事のあい間に約2ヶ月位探して下さり、念願の興亜観音様に出会ったのです。
 私達は大喜びでした。早速電話を掛け、事の成り行きをお話しました。
 伊丹妙真先生は大変驚かれ、又とても喜んで下さいました。東條閣下をはじめ七士をお祀(まつ)り下さっている興亜観音様に1日も早く参拝し、この度のご縁をご報告し、世界平和祈念をさせて頂こうと、昭和59年5月3日、初めて興亜観音様に参拝させて頂いたのです。
 この参拝が私達にとって大きなご縁となりました。
 細い長い道を58名が一気に登ったような気がいたしました。登りきった正面に合掌のお姿の観音様が立って居られ、私達を迎えて下さった様に感じました。
 このような合掌の出来る、観音様のような人間でありたい、と感じたのでした。
 今は亡き妙真先生が太鼓を叩(たた)いて迎えて下さったのが昨日今日の様な気がいたします。
 当日は奇しくも「昭和24年5月3日、東條夫人と数名の方がお見えになり、お骨の素性(そじょう)もあかさず、お預(あず)けになられた日です」とお話して下さいました。
 ご縁の不思議さ、尊さをしみじみ感じたのでした。伊丹先生ご夫妻は、お骨を大事に守られ、当時お穣様方にも一切お話されなかった由です。

中央手を合わせている方が妙真尼

 松井石根大将のご意志を一心に受けられ、ただひたすら、50年もの長い間、法華経行者として難行苦行の修行をなさっただけに、実にさわやかなお話をして下さいました。
 その一言一言の重みが私達の心に深くしみ、私達に出来る事があれば何かさせて頂きたいとの願いが、毎月23日、七士のご命日に参拝させて頂くお約束になりました。心あたたまるご接待を頂き下山させて頂きました。
 毎月23日には妙真先生が心待ちにして私達を迎えて下さいました。
 その先生が平成2年11月23日に亡くなられたと伺(うかが)い、その時の驚き、悲しみは言葉に言い表わす事もできませんでした。
 いろいろな事を教えて下さった妙真先生、真実の信仰をお姿によって教えて下さった先生、何ひとつ酬(むく)いられる事も無く亡くなられたように思われ、とてもむなしい思いで一杯でした。
 経済的にはご苦労なさって居(お)られたのに、今後3人のお嬢様方はどうして行かれるのだろうか等々、心を痛めて居りました。そんな折り、心ある有志の方々により平成6年(1994)11月18日、「興亜観音を守る会」が設立されました。
 まさしく神仏のご加護、伊丹先生ご夫妻の長年のご苦労がこんな形で酬いられました事は、ご縁を頂いた者に大きな勇気を与えて下さったと、感謝と感激で一杯です。
 今後3人のお嬢様方が心おきなく、亡きご両親が為(な)された如(ごと)くに、真心のご奉仕をなされ、お守り下さると信じて居ります。
 興亜観音様を中心として恒久平和の祈りが広がり、多くの方々からご支援頂けますよう努力し、亡き伊丹妙真師へのご供養とさせて頂きます。
 終わりに「守る会」の益々のご発展をお祈り申し上げます。


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