松井大将の礼服と私の“えにし”について
土肥 勲

土肥勲 様近影。


板妻駐屯地に併設されている「松井大将記念館」 「興亜観音」会報に松井大将の軍服(礼服)と私の“えにし”を述べることは、当を得てないようにも思われますが、一後輩として松井大将の大礼服を板妻の松井記念館に他の遺品とともにお飾りすることになったいきさつを述べて、せめてもの閣下のご供養にしたいと考える次第であります。
 54期生が座間の陸士を卒業して、私は原隊61(40隊付士官候補生時代は北満三江省にて、匪賊討伐に参加し、昭和15年中頃舞台は陸路中支漢口方面に移動中)に復帰し、連隊旗手を拝命する直前、昭和16年初め宜昌救援作戦において、右腋腸貫通銃創を受けた。
 同じ突撃戦闘で負傷された中隊長渡辺大尉(少尉候補生出身で区隊長として教えることになった60期生の渡辺寿夫君の父君)と共に戦線を離脱し、應城→漢口→南京→大阪→東京と後送され東京の第一陸軍病院(戸山)での2回の神経縫合手術の後、熱海の療養所(現在の熱海国立病院)において予後の電気マッサージ治療を受けるとともに体力の回復を計っていた頃である。
 熱海の北方数キロ、伊豆山の地に松井閣下がお住まいになっておられ、近くの山に興亜観音様がお祭りになっていることを承り、負傷後の体力増強を兼ねて数回お参りさせて頂いた。
 その観音様を拝すると極めて、若々しい美しい姿である。
 もちろん閣下は雲の上の方、また一面識もないので伊豆山のご自宅に御伺いしたこともなければご高説を承(うけたまわ)ったことも無い。
 その後、昭和20年終戦を61期の予科区隊長としてむかえ、生徒を夫々の故郷へ帰した後、東大進学を考えたが、長男は生まれるわ、インフレは進むわで、とてもその様なのんびりした状態ではなかった。
 親子3人が食って行かねばならない。その時、家内の母の友人が松井大将夫人と懇意だった関係上、その友人から軍服(大礼服)を持ち込まれ、引き取らせていただいた。それは大将が巣鴨に入られた直後であったと思う。
 恐らく経済的に大変困られていたのではないだろうか。
 その後、義母は之を自宅に大事に保存しており、毎年大将のご命日にひそかにお線香を上げてご冥福をお祈りしていた様である。
 昭和62年(1987)になって母の病が進み入院の直前に私を呼びその軍服を私に託したのである。
 この話を私の同期生岸実君が本科の区隊長をしていた関係で生徒の58期三明正一君に伝わリ、58期生が主となっている“興亜観音を守る会”の接点が出来たのである。
 平成5年8月、三明正一君の案内により陸上自衛隊の富士裾野合同演習の見学となり、その時に板妻駐屯地(旧陸軍板妻廠舎)に併設されている松井大将記念館への寄贈となった次第である。
 同記念館は松井大将ご遺族その他の寄贈により出来たとうけたまわったが、拝観すると確かに大礼服のみ欠けていた。
 大将の大礼服は約40年を経て収まるべき所に収まったのである。
 旧板妻廠舎を訪れて約50年前に本科の野営演習で鍛えられたこと、今は昔の低い木造の面影は無くすっかり近代的な駐屯地となったその様子を見て、昔の赤いケットに着いたノミに食われたことが思いだされた。
 つらつら考えてみますと、今回の第2次世界大戦は物量、科学が精神力を上回っていた。
 ましてや原子爆弾が一瞬にして一国一民族の死命を制する。近代戦の様相はすっかり変わった。戦争は国家民族の破滅である。
 然らばいかにして自国の国民をよこしまなる外敵から守るか。
 われらに課せられた重大かつ難しい使命である。
(陸士54期)


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