興亜観音のお守り
―いつも肌身離さず53年―
結城勝也

結城勝也さん


 昭和17年春、陸軍士官学校に入校し第9中隊第5区隊に配属された。
 区隊長は萩原駿一大尉(51期)で、興亜観音のお守りは、その萩原区隊長から頂戴したものである。
 母は熱心な観音信者であったが、私は特に信仰心があったわけでもなく、ごく普通の若者だったと思う。
 しかし頂戴した興亜観音のお守りは定期券のケースに入れていつも内ポケットに納めていた。演習の時も同じで、お守りは肌身離さなかった。

戦時中の思い出

 昭和20年(1945)6月、陸軍士官学校を卒業し、青森の電信第4連隊に赴任、間もなく新編成の電信第48連隊へ配属になった。
 札幌への出張命令で函館に上陸した朝、空襲警報が鳴り響いた。
 函館駅前の人たちをいくつかの防空壕に分散避難させ、最後に壕に入ろうとすると、「もう満員です」と断られた。やもなく50米(メートル)ほど先の別の壕に走って飛び込んだ。
 米軍機の爆撃が終わって壕から出て見ると、先程入るのを断られた防空壕は爆撃でぶっ潰されているではないか。思わず胸の観音様のお守りに手を押し当てたのだった。
 電信第48連隊は第54軍直轄となり愛知県に移駐、我が第1中隊は豊橋市郊外の下條(げじょう)に駐屯した。
 7月中旬のある日、週番士官として部下2名を連れて巡察に出かけた。静かな農道を歩いていた時、空襲警報は解除されていたが何となく不吉な予感におそわれ、咄嗟に「竹薮(たけやぶ)に隠れろ!」と叫んで農道左側の竹薮に飛び込んだ。
 その途端、米軍機が超低空で飛来、私たちが歩いていた農道に向かって機銃掃射した。
 あのまま農道を歩いていたらと思うと、身の毛のよだつ思いだった。部下2人も真っ青、声も出なかった。「ああ観音様のお陰で助けられたのだ」と、お守りを押し頂いたのであった。

大阪出張の折に心筋梗塞発病

 戦後は昭和25年(1950)春上京、日本無盡(後に日本相互銀行、現在はさくら銀行)に入社したが、興亜観音のお守りだけは相変わらず身につけていた。
 銀行では支店長その他の役職を歴任した後、日特建設(株)に転出した。
 昭和59年(1984)9月中旬、経理担当常務として大阪に出張した折のことだった。ホテルで朝、目覚めると、胸がすごく苦しい、脂汗は出る、両手は麻痺していた。意識もうろうとしている中を救急車で病院に運ばれた。心筋梗塞(しんきんこうそく)だった。
 その日の夕方家内が駆けつけてくれた。家内は、ベッドの枕もとに興亜観音のお守りが置いてあるのに気付いて言った。
 「他の物は何ひとつ持って来ていないのに、観音様のお守りだけは離さなかったのですね。」
 あの意識もうろうとしている中で、興亜観音のお守りだけを握りしめていたかと思うと、まことに不思議という他なく、観音様に守られていたことを如実に感じたのだった。

余生を意義あらしめたい

 現在は心身障害者1級の手帳(日常生活活動が極度に制限される心臓機能障害)を持っており、胸にはペースメーカーを入れている。
 しかしお酒も人並みに嗜(たしな)み、軽い旅行もできる。これも観音様のお陰であろう。
 53年間身につけて来た興亜観音のお守りを、これからも我が身から離すことなく老兵は残り少ない人生を意義あらしめるべく、生き抜きたいと念願している次第である。
(千葉県我孫子市)(陸士58期)

 お守りは参詣された方にお頒けするのを原則としておりますが、遠隔地の会員や脚が不自由で参詣困難な会員は、お志(送料及び実費1000円)添えて興亜観音へお申し下さい。特別におはからい致します。
 〒413-0002 熱海市伊豆山1136 興亜観音


「興亜観音・第2号」目次のページへ