興亜観音・回想あれこれ
岩本 一
(宗教法人興亜観音代表役員大務者)

岩本 一さん


 昭和17年(1942)、私が小学校6年生の時、興亜観音第1回の祭典がありました。
 6年生全員が参詣し、剣道大会が奉納されました。
 松井石根大将も臨席され、お姿を見たのはその時が初めてでした。私は沼津中学に進学したのですが、沼津一小から来た同級生が、その時の剣道大会で優勝したと言っていましたから、県東部から多数の学校が参加したと思われます。
 その時配布されたパンフレットには、奉賛会々長に熱海市長、副会長には助役が名を連ねていました。
 会報第2号、田中正明会長の「興亜観音の改名に松井大将激怒云々」は、戦後の公職追放などでその方達に混乱が生じた結果なのでしょう。
 そこで伊豆山見晴山に住んでおられた高木陸郎さんが奉賛会会長に就任して下さいました。
 高木さんは明治末年に、三井の社員として中国に渡られ、終戦まで中国で活躍された実業家で、松井大将とは親交があり、「七士之碑」を揮毫(きごう)して下さった吉田茂さんとも親交がありました。
 中国人に最も信頼された日本人の1人だったとも思います。
 私の生家は興亜観音の道筋、国道の海側で水明荘という旅館を経営しておりました。
 玄関ロビーに「水明荘 石根」の額が掛けてありましたから、父も松井大将と親交があったと思います。母は働き者で、また困っている人を見ると黙っておれない性分でした。
 伊丹忍礼師がまだ独身の時から毎日1日、15日には玄関横にある「地の神様」のお社のお経を上げて貰(もら)い、お布施を差し上げていました。
 その後忍礼師は結婚され、娘さん3人が生まれました。
 私の妹達と同じ年頃です。母は自分の子供達と同じように、伊丹さん達を気遣っていました。
 その頃「本佛合掌会」という会を、忍礼師の兄弟の中澤日襄上人が組織され、十数年続いたと思います。
 戦後の厳しい時代、「本佛合掌会」の方達が興亜観音を護持して下さいました。「興亜観音を守る会」事務局長の渡辺二雄さんが、中澤上人の息子さんと兄弟同様にお育ちになられたと聞き、ご縁の深さ、観音様のお導きをしみじみ感じます。
 また中心になって活動下さっている徳富太三郎さんのお祖父さん蘇峰先生が、熱海駅近くのお住居から毎月歩いて観音様に参詣なさり、その度ごとに我が家でひと休みなさいました。これまた御縁の深さ、観音様のお導きの尊さを感じています。
 昭和30年代の中頃、高木さんは業務多忙で東京に転居なさることになり、今後は地元の人達が観音様を護持するようにと、母が私とに後事を託され、形見に王石谷の山水の軸を下さいました。私は宗教法人「興亜観音」の役員に就任し、以後は奉賛会々長は空席にし、役員の中の年長者が代行しています。
 高木さんの会社は日本国土開発(株)で、現在は孫の辻岡聰宏君、私と慶応予科で同じクラスだった辻岡君が社長です。
 伊丹忍礼師は学究肌で、修行僧そのものでした。
 忍礼師は新潟三条市の本山にある法華経に属し、権僧正の位を授けられました。本山から別格本山の蓮着寺の住職にとの話もありましたが、松井大将との信義を守り、興亜観音の堂守として生涯を貫き通されました。
 例祭の法話も厳しいもので、例えば平和に対する忍礼師のお考えは、「今の日本は平和ボケしている。平和を維持するには厳しい覚悟を要する。まず確固たる独立心、そして自尊心を持たねばならぬ、それを基にして他尊、共存、平和へとつながる。これは国家も個人も同じである。」などと言うものでした。
 晩年病を得、時には多少のうつ状態もありました。修行を積まれた忍礼師がなぜうつ状態になるのかと、不思議でした。はっと気がついたのは、妻子に対する愛情の深さがそうさせたのでは、ということでした。
 自分は悔いはない、しかし、妻子に対しこれで良かったのかとの思いがうつ状態を生ぜしめたのでしょうか。
 葬儀中、私は涙が止りませんでした。


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