興亜観音に祈る
植村英一

植村英一さん


前世紀から今世紀にかけての頃、我々日本人は世界に誇る2つの偉業を成し遂げた。

 私は、その1つは明治維新であり、1つは日露戦争であると思っている。
 前者は、世界の文明に乗り遅れた日本人が、欧米列強のアジアに対する野望の前に屈せず、国民として目覚め一丸となって近代国家を建設した偉大な事業であり、後者はアジアの辺境に立ち上がったばかりの小国日本が、大国ロシアの露骨な脅威に対して、自らの存在を守り抜いた戦いでもあった。
 明治維新と日露戦争とは、どちらも、日本が成功し或いは勝利を収めたからというよりも、小さな民族が自主独立を守って毅然(きぜん)として揺るがず、或いは敢然(かんぜん)として大国に刃向かったその精神が、何よりも尊いものであった。
 この精神は、第1次世界大戦の後に遠い北欧や東欧に於て、フィンランド民族の独立や、新生トルコの建国に、大きな力を与えたのは周知の事実である。
 アジアに於てアジアの諸民族に如何なる影響をもたらしたか、論議はまちまちである。
 20世紀の初めの頃、かの中国の国父と言われる、孫中山先生を中心に日中の先憂の志士達は老化した清国の民主革命を図った。
 この運動は、明らかに明治維新や日露戦争の精神を承(うけたまわ)るものであった。
 しかしながら、それ以後のアジアの歴史は不幸であった。アジアの民族は我が日本をも含めて欧米蘇の強国に翻弄され続けた。
 満州事変を契機とする日中の果てしない紛争は、遂に大東亜戦争にもつれ込み、悲惨な戦火は大陸だけではなくアジアの全域に広がった。
 私もこの不幸な紛争と戦争とに従軍した1人である。「興亜観音の慈悲」は、その頃多くの日本人、勿論(もちろん)軍人であった我々も含めて、心の中に宿る祈りであった。
 大東亜戦争は、日本の自存自衛の戦いであった。しかし、この戦争を機として「アジア諸民族が欧米の奴隷から解放されて自主独立を果たし、新しいアジアを建設する」、これこそ戦う我々の祈りであった。
 この祈りは、開戦時の勝利には大きな夢に膨れ上がり、戦争末期には密(ひそ)かな悲願として心に秘めた。
 日本は敗戦し、全てを失い、国民は塗炭の苦しみを味わった。しかし日本人の祈りは、アジアの至る所で叶(かな)えられ、今日多くのアジア民族がそれぞれの旗の下で生きている。
 この事実は私たちにとってせめてもの救いであり、共に戦った無き戦友に捧げ得る唯一報告である。
 謂(いわ)れ無き罪科の下に散華された松井石根大将が熱海の伊豆山に建立された興亜観音の慈悲の証を、私はここに見る思いがするのである。
 「きたるべき次の世紀は、アジアの時代である。」とは、最近よく聞く言葉である。私もこの見方を信ずる者の1人である。
 現在アジア諸国に於て、民族的な自覚に基づく文化の興隆や教育の充実は著しく、その経済、科学の近代化や発展は目を見張るものがある。
 勿論(もちろん)、アジアの前途には幾多の困難も横たわっているし、南北朝鮮や、大陸と台湾とが対立する中国の問題を始めとして、多くの争いの種も残っている。
 しかしながら、新しいアジアは自らの手でこれらを解決していくであろう。
 アジアの恒久的な安定を計り、世界の平和をリードするために、大きな構想の下にアジア民族の結集を呼び掛ける声も聞こえてくる。
 戦後、日本は余りにも長くアメリカの庇護の下にぬくぬくと生きてきた。そして、歪められた歴史観に災されて、明治維新や日露戦争の自立の精神を失ってしまった。
 経済的には先進国と言われながらも、新興アジアの人々からは締め出されようとしている。
 日本はアジアを離れて生きる道はない。今こそ我々は「興亜観音の慈悲」の祈りに立ちかえり、アジアの同胞と共に新しい世紀を迎えたいと念願する。
 (興亜観音を守る会顧問、陸士50期)


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