興亜観音はどうして建立されたか
伊丹忍礼(述)
(昭和15(1940)年から堂守り、同60(1985)年9月15日沒)

故・伊丹忍礼師


興亜観音、堂内祭壇 昭和15年(1940)の2月24日、観音菩薩像の御開眼式が、願主たる松井石根大将をはじめとして、朝野の名士、戦没遺族の多数の参列のもとに、いとも厳粛(げんしゅく)、かつ盛大に挙行されました。
 これが「興亜観音」のはじまりであります。
 では、どうしてこの観音が建立されたか、それは願主たる松井石根大将に聞いてみましょう。
 すなわち、大将自筆の「興亜観音縁起」によれば『支那事変は友隣相撃ちて莫大の生命を喪滅す。実に千歳の悲惨事なり。然(しか)りと雖(いえども)、是(これ)所謂(いわゆる)東亜民族救済の聖戦たり。惟(おも)ふに此(こ)の犠牲たるや身を殺して大慈(だいじ)を布く無畏(むい)の勇、慈悲の行、真に興亜の礎(いしずえ)たらんとする意に出でたるものなり。予大命を拝して江南の野に転戦し、亡ふ所の生霊算なし。洵(まこと)に痛惜(つうせき)の至りに堪(た)へず。茲(ここ)に此等の霊を弔(とむら)ふ為に、彼我の戦血に染みたる江南地方各戦場の土を獲り、施無畏者慈眼視衆生の観音菩薩の像を建立し、此の功徳を以て永く怨親平等に回向し、諸人と倶(とも)に彼の観音力を念じ、東亜の大光明を仰がん事を祈る。』というのであります。
 おもうに昭和6年(1931)9月18日の満州事変勃発、それにつづいて昭和7年(1932)1月28日の第1次上海事変、さらに昭和12年(1937)7月7日の日支事変の勃発と、日本は悲劇の運命をたどってゆきましたが、支那大陸に出征する将兵そのものは、ひたすら日本国家のため、東亜諸民族の共栄のため、そして新秩序建設「聖戦」の理念のもとに、その生命をすてたのでした。
 松井石根大将は上海方面軍最高司令官として昭和12年(1937)8月中旬出征されたが、大場鎮竝(ならび)に南京に日支両軍・彼我幾満の将兵の血潮が散った。
 累々たる死屍、滾々(こんこん)たる流血、啾々(しゅしゅ)たる鬼哭(きこく)、げにや戦場一握の塵土(ぢんど)、一塊(かい)の土石にも、万斛(ばんこく)の思念の遺恨をやどしています。
 即ち松井将軍指揮のもと、最も戦闘の激しかった大場鎮・南京の血土、肉壤を運び来て、観音像を造り、彼我戦没の英霊の冥福をいのる言葉をば、将軍は念願されたのであります。
 そこで将軍は愛知県常滑市の有名なる佛像陶工師たる柴山清風氏にはかり、さらに帝展審査員小倉右一郎氏の指導のもとに、観音像の完璧を期された。
 かくて成就されたものが、今日、堂側に露座にまします、高さ人丈の合掌印の観音像であります。
 徳孤ならず、必ず隣ありとか、ここに瀬戸市の旧家で陶工師の加藤春二氏は、一人息子が日支事変で戦死されたこととて、ふかく松井大将の念願に共鳴され、前記の合掌印の観音像と同じ姿のものをニ尺に謹作され、これをば堂内中央に安置することになりました。
 そしてこの興亜観音の本道は、これまた不思議な浄縁によるもので、名古屋市中村区の魚沢弘吉氏は、社寺建築専門の頭領でありますが、熱田神宮の神殿造営の余財を保存していられたが、これを寄進されて、自ら堂宇の設計建立の任にあたられました。堂内祭壇には、

興亜観音

――― 日本国民戦死者霊牌
中央 ――― 観音菩薩・松井将軍部下戦死者霊名
――― 中華民国戦死者霊牌

 松井将軍指揮のもとに一命を戦火にささげられた部下・・・・・・23,104柱の霊名は、宝筐(ほうきょう)におさめられて、観音菩薩像のもとに、永遠にやすらかな光明につつまれ、朝夕、妙法の回向供養のもとに冥福を祈念されてあります。
 そして、それは単に、松井将軍の部下、23,104柱の戦死者だけでなく、左側の中華民国戦死者、右側の日本国民戦死者も怨親平等に回向供養されているのであります。
 この本堂の天井は、岡谷惣助氏寄進の木曽檜(ひのき)をもって張られ、堂本印象画伯の力作たる天龍がえがかれてあります。
 そしてこの土地は興亜観音奉賛会理事長たる淙々園(そうそうえん)主の古島安二氏の熱誠寄進にかかり、休憩の家は名古屋材木業組合の義納によるもの、全山ことごとく松井大将の悲願への共鳴賛同の浄志でないものはありません。
 一草一木の微にいたるまで、彼我戦没の英霊の冥福をいのっています。


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