興亜観音ものがたり
第2回
『南京大虐殺の虚構(きょこう)』田中正明著より


豪州兵(ごうしゅうへい)参拝のこと

左から筆者、ウイリアム氏、同夫人、姉さん、高松通訳、前列故伊丹妙真尼
左から田中正明氏、ウイリアム氏、夫人、姉、高松通訳、故伊丹妙真尼

 興亜観音にはいろいろな人のお参りがある。
 行きずりの人もあるが、有名人のわざわざのお参りもある。
 東京裁判のインド代表判事パール博士も下中弥三郎翁の案内でここをお参りしており、最近来日されたオランダ代表判事レーリング博士夫妻も、安藤仁介教授の案内で参拝されている。
 参拝者の変わり種は、オーストラリアの元陸軍士官ウィリアム・アンドリュース氏である。
 氏はシドニー随一のタクシー会社の社長で60歳の老紳士であるが、すでに3回も、はるばる海を越えて、ここに参拝に来ている。
 第1回は1976年、2回目は77年、3回目は1980年(昭和55年)である。私は3回目の時、興亜観音でお目にかかった。
 このときは夫人と、夫人の姉同伴で、高橋正子さんという通訳をともない、晴海埠頭で税関手続きを終えると、一路新幹線でこの山に参拝に来たというのである。
 参拝を終え、記念撮影のあと、休息所で妙真さんの手料理をご馳走になりながら、私はアンドリュース氏と2時間ほど話した。
 アンドリュース夫妻は熱心なクリスチャンである。
 キリストを信仰する夫妻が、興亜観音のお札を肌身離さず身に付け、ここにお参りしないと気が鎮(しず)まらないというのだ。
 アンドリュース氏は、南京事件のことも、東京裁判のことも、実によく承知(しょうち)している。
 彼自身、陸軍幼年学校、士官学校を出て、ニューギニアで日本軍と戦い、戦争の非情無残(ひじょうむざん)さを身をもって体験しているのである。
 氏は熱っぽく私にこう語った。
 松井大将は、南京事件の責任を負(お)って処刑された。しかし、南京陥落の時、大将は蘇州(そしゅう)で病気療養中(びょうきりょうようちゅう)であった。
 病床(びょうしょう)にありながら大将は、軍紀(ぐんき:軍の規律の事。「軍規」とは書かない)は厳正にせよ、無辜(むこ)の民を殺傷してはならぬ、降伏した者は慈愛(じあい)せよ、と幾度も命令しています。
 降伏勧告(こうふくかんこく)もして、無駄な抵抗の排除(はいじょ)にもつとめました。
 その松井大将は、裁判の時も、処刑される時も、弁解(べんかい)らしいことも言わず、責任転嫁(せきにんてんか)もせず、自己の運命を呪(のろ)わず、敵も怨(うら)まず、安心立命(あんしんりつめい)して、部下の責任を一身に負って死んでいかれました。
 大将は獄中にあっても、朝夕『観音経』を欠かさず唱(とな)えて精進されたと聞いています。
 死に際しては“天皇陛下万歳”を三唱(さんしょう)して、恐れることなく、〈罪の贖(あがな)い者〉として、死んでゆかれた。
 あたかも十字架にかけられたキリストの聖なる姿そのものです。
 私も戦争に参加し、部下ももち、銃をもって戦った1人です。松井大将のことを知れば知るほど、私も責任者の1人として、じっとしておれなくなりました。1976年にはじめてここを参拝しました。
 参拝してさらに驚いたことには、松井大将は敵国人であるべき支那軍将兵の霊をまつり、朝夕お経をあげ、僧侶のような生活をされていたということですが、この観音堂に来てみて、本当に感じることは、神の前に人間はすべて平等であるというヒューマニズムの精神です。
 お堂の中の壁画は、世界中のあらゆる人種の人間が、太陽の光のもとに、楽しく手をとりあって踊っています。
 おそらく大将の精神をあらわしたものでしょう。
 昨年(1979年)の8月、オーストリアのテレビ放送は、〈日本における戦争〉という特集番組で、この観音堂も、広島の原爆慰霊碑と共に放映しました。
 伊丹さんが太鼓(たいこ)を打って一身に祈っているところも出ました。その時アナウンサーは、松井大将の自他平等の精神を語り、松の下に立つ観音様は、南京に向かって合掌しているのだ―――と解説しました。
 そして、今なおこの観音様の下には、松井大将をはじめ6人の処刑された人のお骨が眠っているといいます。
 南京事件の責任を一身に負って昇天した大将の霊よ安らかに眠れと祈らずにはいられないのです。

パール博士のことば
東京裁判後、来日された時の挿話(そうわ)
(田中正明著)より

パール博士興亜観音に参詣

写真は昭和22年(1947)11月6日、一時帰国時に撮影。
東京裁判において全員無罪を主張したパール博士(昭和22年11月6日撮影)

 箱根の秋を観光して熱海ホテルに1泊した時、博士は伊豆山の《興亜観音》にお詣(まい)りしたいといいだした。
 山麓には松井大将の未亡人がわび住まいしている。その未亡人を見舞いたいという気持ちである。
 興亜観音というのは、中支派遣軍司令官松井石根大将が一念発起して建てた、日支両軍の英霊を祀(まつ)った観音堂である。
 大将の《縁起書》によると、「支那事変ハ友燐相撃チテ莫大ノ生命ヲ喪滅ス、実ニ千載ノ悲惨事ナリ。然リト雖(いえども)、是レ所謂(いわゆる)東亜民族救済の聖戦タリ。惟(おも)フニ此ノ犠牲者タルヤ、身ヲ殺シテ大慈ヲ布ク無畏ノ勇、慈悲ノ行、真ニ興亜ノ礎タラントスル意ニ出デタモノナリ・・・・」というので《興亜観音》と名付け、南京や大場鎮の両軍の血に染めた土を取り寄せ、観音像を作って祭祀(さいし)した御堂(おどう)である。
 大将みずから縁起書を手に布施(ふせ)を乞(こ)うて歩かれ、2年半の日子をついやして建立した観音像である。
 大将はこの鳴沢山の山麓(さんろく)に庵(いおり)を結んで、《無畏庵》と名づけ、読経三昧の堂守生活に入った。戦犯の汚名をきせられて大将が処刑された後は、文子未亡人と久江嬢の2人が、養鶏(ようけい)をなりわいに寂しく暮らしていた。
 博士は突然ここを訪れて2人を驚かした。
 博士は大将の霊に祈りをささげた後2人を慰(なぐさ)め、励ました。
 鳴沢山は急峻(きゅうしゅん)で、観音堂までは約2キロある。下中翁(※下中弥三郎博士の事。しもなかおう)は「とても」と言って断念したが、博士はどうしても登ると言われる。
 中谷先生とナイル君とわたくし(田中正明)の3人が随行した。無住と思っていた御堂の中からト読経の声が聞こえる。格子戸を叩くと、今まで読経した僧侶(伊丹忍礼師)が、けげんな顔で「どなたですか」と聞く。
 「東京裁判のパール判事がわざわざこの山に登ってこられたのだ。」と答えると僧侶は膝(ひざ)を叩いて、「さてもさても奇縁と申そうか、み仏の手引きと申そうか、月こそかわれ今日は23日、松井大将が絞首刑台に立たれた命日です。」といって奇縁に驚いた。
 博士も「大将の霊が導いたのでしょう。インドではこうしたことを《マヤ》といいます。」と言われた。
 そして、博士はアジアの独立・解放に悲劇に立つ観音様に花香を手向け敬虔(けいけん)な祈りを捧げられた。
 (※パール博士=昭和42年(1967)1月逝去(せいきょ)=は東京裁判で日本が国際法に照らして無罪であることを終始主張し続けたインド人判事。昭和28年(1953)、下中弥三郎博士の招きで3度目の来日をされた折り、興亜観音に参詣された)


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