戦争の呼称を正そう
拓殖大学総長
小田村四郎

拓殖大学総長・小田村四郎氏


 今年は東京裁判開廷満50年に当たる。
 この裁判が偏見と虚構に満ち、裁判の名を借りた復讐劇にすぎなかったことは、すでに多くの識者によって論証されている。
 しかしその傷痕(しょうこん)はいまなお深く我が朝野に食い込んでいる。
 その1つに戦争呼称の問題がある。
 昭和16年(1941)12月12日の閣議決定により、「今次の対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と定められた。
 従って以後我が国の法令その他の公文書はすべて「大東亜戦争」を使用している。
 即ち、我々日本国民が総力を挙げて戦った戦争は「大東亜戦争」であった。これは厳然たる歴史的事実である。
 驕慢(きょうまん)と偏見に凝り固まった連合国は、この戦争を「無責任ナル軍国主義」が「日本国民ヲ欺瞞(ぎまん)シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタ」(ポツダム宣言第六項)と規定し、占領軍はこの史観に基づく宣伝文書「太平洋戦史」を作成、昭和20年(1945)12月8日から各新聞紙に連載させた。
 さらに同月15日の「神道指令」によって。「大東亜戦争」の呼称の使用を日本国民に禁止した。
 江藤淳氏は言う。「つまり、昭和20年暮の、8日から15日にいたるわずか1週間のあいだに、日本が戦った戦争、『大東亜戦争』はその存在と意義を抹殺(まっさつ)され、その欠落の跡に米国人の戦った戦争、『太平洋戦争』が嵌(は)め込まれた。これはもとより、単なる用語の入れ替えにとどまらない。戦争の呼称が入れ替えられるのと同時に、その戦争に託(たく)されていた一切の意味と価値観もまた、その儘(まま)入れ替えらずにはいないからである。」(「閉された言語空間」)。
 「東京裁判」史観とはこの「太平洋戦争」史観に他ならず、それは日本国民に「戦争についての罪の意識」を植え付けるためのプロパガンダであった。(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)。
 昭和27年(1952)の独立回復によって、占領指令はすべて失効し、戦争呼称も日本国民の自由に委(ゆだ)ねられた。にも拘(かかわ)らず「大東亜戦争」という正しい呼称は次第に影が薄くなりつつある。東京裁判史観が依然として猛威を逞(たくま)しうしている原因の一半がここにある。
 西尾幹二氏は今年、洋上大学の講師団の一員として戦跡を歴訪され、若い人々に「自分の戦争」と「戦争一般」を混同してはならないこと、「自分の戦争が今日の自分の生活にまで深く尾を引いていること」を詳しく説かれたにも拘らず、受講者から手紙を貰(もら)って「『言葉が届かない!』という切ない思いで幾日も憂鬱(ゆううつ)であった。」という(「サンサーラ」10月号)。
 その青年に限らず、今日の政官財界やマスコミ人の最大の缺陥は、自分たちの祖父が築き上げて来た自国の歴史を、「自分の」歴史として見ることができなくなったこと、換言すれば国民同胞感に裏付けされた歴史意識の喪失である。
 「太平洋戦争」も、「15年戦争」も、近時一部で用いられる「アジア・太平洋戦争」も、我々の敵国又は国籍不明者の見る戦争であって、決して「自分の」戦争ではない。
 政府が正しく「大東亜戦争」と呼称し、これを青少年に教育するとき、初めて日本は独立を回復したと言えるであろう。
 論語に曰(いわ)く「名正しからざれば則ち言順ならず。言順ならざれば則ち事成らず。」(子路篇)


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