伊丹忍礼師、妙眞尼と私

石橋 ツヤ


 昭和28年、次女の中子さん(妙晄尼)の担任で、家庭訪問のため伊丹家にお伺いしたのが初めての出会いでした。
 豊かな森の中の観音さんと質素なお住居が好きになりました。
 夏みかんに砂糖をかけてごちそうして下さった妙眞さんが忘れられません。
 それ以来、伊丹忍礼師、妙眞さんのお二人を慕うようになりました。
 昔から目は口よりもものを言う、と云いますが、忍礼師は口上手ではありませんでした。

 俺の目をみろ 何にもいうな
 男同志の 腹のうち
 ひとりぐらいは こういう馬鹿が
 いなきゃ世間の 目はさめぬ

 という歌がありますが、忍礼師はそのような方だったと思います。
 生涯、松井石根大将のご遺託を不言実行なさいました。
 あの世では階級の上下なく、松井大将やその他の戦没将兵と共に仲睦(むつ)まじくされていることでしょう。
 細い目、鼻だけが大きく、みんなが安心するお顔でした。
 説教されることは少なく、ただ日夜読経に明け暮れ、昭和15年以来、45年間に亘って太鼓を打ち鳴らし「平和への悲願」を祈り続けられた方でした。
 興亜観音と私の家とは3キロメートルほど離れていましたが、春夏秋冬、同じ時刻に伊豆山一帯が清められているかの如く南無妙法蓮華経の太鼓の音が流れてきました。
 気温零下の真冬の早朝など、お齢を召しておられるのにと気遣ったことでした。
 たまたま見知らぬ行者さんと本堂の前で出会った時、「この山は本当によく清まってますね。」と言われて、やはりと思い、嬉しい気持ちで一杯になりました。
 輪t師が教員だったからでしょうか、参詣した折に宮沢賢治のお話と、ご自分の僧侶時代のお話とを聞かせて下さいました。
 そして最後に、「幾たび生まれ代わっても、僧侶に生まれたい。たとえ乞食坊主でもいい。」と言っておられました。
 私利私欲を全く離れたお方でしたが、亡くなられてから、はや12年目となりました。
 体がめっきり弱くなり外出も出来なくなった頃、「私の家内は立派です。家内が羨ましいですよ。」と妙眞さんを褒めておられました。
 妙眞さんは、感謝に明け感謝に暮れた方、物のいのちを非常に大切にされた方でした。
 また如何なる事が起きても理性を失わない方でした。
 興亜観音の爆破事件の時も、我が子が突然体調を崩した時も、冷静に対処されました。
 市内のある社長さんは、「日本のお母さんですよ。」と妙眞さんをべた褒めしておられました。
 興亜観音の例大祭や数々の行事、特に12月に行われていた「ひゃくみの供養」には、百種類の供物をお供えする大変な行事でした。
 4月8日、本堂内に美しく飾られた花まつりは、とても楽しい1日でした。
 妙眞さんのお心がお佛様のように美しいから、見事に飾ることができるのでしょう。
 今年の花まつりも親孝行だった三姉妹が亡きお母様のお心を継ぎ、美しい花にお釈迦様が埋もれていました。
 妙眞さんは、天国でさぞ満足されていることでしょう。
 長い急な坂道を登られる方達の目を楽しませるためでしょう。
 妙眞さんは参道に水仙と都忘れの花を植えられ、季節になると静かに咲き匂います。

 都忘れ教はりし尼僧今は亡し

 どなたが詠まれたのか知りませんが、妙眞さんのお心をピタリととらえた句で感動しました。
 咲きほこっている頃には「妙眞さん、お詣りに来ましたよ。」と心でつぶやきながら参道を登ります。
 つらい事に負けず、疲れていても優しいお声で話された、あの妙眞さんの笑顔が今でも目に浮かびます。
 妙眞さんのお人柄は、私が生涯かけて追い求める人間像です。
 これからも難儀な事態が生じた時には、忍礼師、妙眞さんのお言葉を糧として生き抜こうと心に決めています。
 妙徳さん、妙晄さん、妙浄さん、お力を合わせて立派に興亜観音をお守りになっていることを心から嬉しく思っております。
 (授産所 福慈園園長)


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