興亜観音詣で
北島富雄
今年の5月24日(金曜日)。
不順な天候もおさまって、ようやく5月らしい爽やかな好天の日であった。
フト思い立って熱海の興亜観音に詣でることにした。
熱海駅で弁当をもとめ、タクシーで「興亜観音」に向かう。
途中までしか行かないと聞かされていたが、運転手の話では、車が通れる道がないからだという。
熱海 - 湯河原のバス停「興亜観音前」(旅館桃李境前)から、いよいよ山に入る。
ここまでと言われて、車を降りる。
この辺りは、結構別荘めいた家がひしめいている。
建築工事中の家もある。
熱海伊豆山特有の地形。
山裾(やますそ)を切り開いた街道。
低いが海沿いに切り立った山。
山門らしい木柱を見付け、覚悟をきめて登り始める。
なるほど幅1メートルほどの小道が、右へ左へとゆるやかな勾配を見せながら緑陰に消えている。
道の真ん中に30センチほどのコンクリートの筋がズッと続いている。
さすがにもう人家は無く、若葉、青葉が道の上にさしかかっている。
足元を気遣ううちにうっすら汗ばむ。
人声もなく、鳥の声も聞こえず、ひたすら「みどり」のすがすがしさに浸る。
2〜300メートルもして、「よくお参りなさいました」の声に驚かされる。
作務衣の中年女性が「もうそこですから」と指す方に進む。
標高200メートルほどのやや開けたところに、露座の興亜観音、七士の碑、1068柱の供養塔、戦没将士の慰霊碑が熱海湾を見下ろすように立っていた。
ここが熱海鳴沢山の礼拝山興亜観音である。
当時中支那派遣軍司令官だった松井石根大将が発願されて、中国江南地方の血染めの土を採取して作成されたという。
褐色の丈余の陶像のお姿が慈悲深くも痛々しい。
東京裁判におけるいわゆるA級戦犯者および殉国刑死者の慰霊碑が世を憚(はばか)りながらその霊を慰(なぐさ)められていたことは、私にとっても慰められた。
「お茶をどうぞ」いつのまにか先程の作務衣の女性が現れた。
観音本堂をあけて貰(もら)い、内部を拝観する。
ここには興亜観音の2尺ものが祀(まつ)られていた。
その左右に日中夫々の戦没者の霊牌が祀られ、そして松井大将の遺影の横に東京裁判の裁判官の中で唯(ただ)ひとり
、戦争裁判の無意味を唱え、全員無罪の判決文を書いたインドのパル判事の写真が飾られていたのは、極めて印象的であった。
休憩所で弁当をつかわして貰うことにした。
空は晴れ、緑はかおり、風はさわやかに、人声もなく、梢(こずえ)の向こうに熱海の海が眺められる。
松井大将や伊丹忍礼師らの善意と奉仕にみちた小天地。
広大でもなく、厳粛でもなく、荘重でもなく、さわやかな、ひそかな小宇宙にいるような気分にさせられた。
突然、ひとりの男性が飛び込んできた。
「興亜観音はここですか」
備え付けのお茶を供して話を聞く。
昭和15(1940)年頃、裁判官の父が内地転勤で上京途中、たまたま、二等車で同席した松井大将が、幼い兄弟にアイスクリームを馳走してくれた。
その縁で「一度お参りしたかったのです。」
まるで、夏目漱石の「草枕」の一場面である。
青年に次いで、私も作務衣の女性に挨拶して下山することにした。
山道のコンクリートの一筋は、伊丹師亡き後、ご両親の跡を継いだ姉妹が、バイクで町にでるためのものらしい。
姉妹のお勤めの太鼓の音に送られて、道を下る。
道傍のむらさきの「都わすれ」がヒソと咲いていた。
二組の中年夫婦のお参りに、会釈してすれ違った。
(元会社役員)