唱和の心

小堀桂一郎明星大学教授近影

明星大学教授
小堀 桂一郎

 東條英機大将の御孫女である岩波由布子氏に「祖父東條英機「一切語るなかれ」」といふ回想の著作があることは広く知られていよう。
 初版本が少し違ふ題名で刊行されたのは今から5年前のことだが、私はついこの書を手にする機会を持たず、舊臘ある御縁で著者からの恵贈を受け、初めて繙讀(はんどく)するめぐり合わせを得た。
 戦後の東條家の遺族の方々のいはれなき受難の數々(かずかず)が如實(にょじつ)に綴(つづ)られていて痛ましい限りだが、著者の晴朗な人柄ゆえに愚痴や怨恨の文字はなくて、むしろその逆境を堪へ抜く支えとなった多くの義侠の人々への感謝の書となっているのが清々しい。
 書中、昭和23(1948)年の冬に大将が巣鴨の獄中で詠んだといふ俳句が引いてある。

 變はらざる緑尊し松の雪

 東條といふもので これは嫡孫である東條英勝氏(著者岩波夫人の兄)が伊東で小学校に入学した際、教員中誰もが「東條英機の孫」の担任教員になることを忌避した中にあって、一人敢然と英勝少年の担任になることを申し出たという長澤進教諭にあて作られたものである。
 長澤先生は擔當の英勝少年のみならず、2つ下の妹として後から入学した著者にも、何かと庇護の目をかけてやる。
 教育者としての信念に強くかつ心根の優しい人であった様である。
 この人の義侠に富んだ行動は、當然家族の手紙を通じて獄中の大将に傳(つた)へられた。
 大将はこの先生の存在を知って安心もし、且(か)つ素直に感謝されたのでもあらう。
 この俳句には感謝の心と同時に義の人である若い教諭に對する正直な敬服の意が表れていて読む者の心を打つ。
 ところでこの松の木が巣鴨の獄窓からわづかに見えた庭の松なのか、それとも大将の記憶の中にある用賀の邸の庭の赤松だったか、と著者は書いておられるが、私見によればこの松は現実の樹木ではない。
 これは(このことはもちろん著者にはお伝えしたが)、昭和天皇が昭和21(1946)年の御歌会始にお示しになった、御題「松上雪」で詠まれた御製、

 ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ

 の、その松だと思はれる。
 昭和20年の年末近く、日本の知識人の世界には既に広範囲にわたって、変節、転向、密告、裏切りといった、いかにも敗戦国らしい悲しい現象が蔓延し始めていた。
 そのことに陛下は目敏く気づかれて心を痛めておられたのだらう。
 その御心痛が如何にも帝王らしく、かうした黙示的な、高雅なおさとしとなって表現された。
 その大御心に逸速く反応し、かすかな唱和の聲(こえ)をあげたのが、巣鴨獄中の東條大将だった、といふことになる。
 詩の語句のかうした昭応を古典詩学の世界で「本歌取り」と呼んでいることは誰でも知っていよう。
 和歌と俳句との間にも本歌取りの技巧が成立して一向構はないのだが、今はより一般的な表現でこれを「唱和」と呼んでおかう。
 興亜観音を守らうといふ私共の意志も、願はくはこの唱和の心に似たものでありたい。
 それが松井石根大将の御意志の継承の業であることには違ひないのだが、他方それは本歌の意匠を借りて成立した作品である如く、畢竟は私共自らの悲願であり意志である。
 さうでありながら、一方それはどこまでも創始者の心に應へ、唱和する祈りの心でもある。
 そんなあり方がいつまでも続くことを、私は願ってやまない。


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