私の履歴書

葉上 照澄(はがみ しょうちょう)

興亜観音に写経奉納僧侶三十三人に揮毫求める

 昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争の発生を機に、私は大正大学教授の職を退いた。
 母の待つ岡山に戻るのだが、東京を去るにあたって約10日がかりで1つの仕事をした。
 興亜観音に書写経をお納めしたのだ。
 興亜観音は昭和14(1939)年10月、松井石根(いわね)大将が発願して熱海市鳴沢に建立した。
 中国・南京方面の最高指揮官であった松井石根大将は、中国を最も愛しながら中国と戦う運命を担った悲劇の将軍だった。
 将軍は戦争に強い責任感を持ち、日中両国軍人の鮮血に染みた江南の土で観音像を造立したのだ。
 将軍は戦後、南京捕虜殺害事件の最終責任者としてA級戦犯となり、潔く生命を捧げられた。
 その最後に立ち会った花山信勝師は「南京入城の日、将軍は慰霊祭を行いたいと提案されたが、集まっていた師団長たちは一笑に付したと、大変嘆いておられた」と書いている。
 おそらくこれが興亜観音建立の最大の理由だったのだろう。
 私は浅草寺の大森亮順大僧正にしたがって興亜観音の開眼供養に列席したが、その時に法華経の普門品偈(ふもんぼんげ)を書写して奉納することを発願していた。
 いよいよ書写経を奉納しようと思い立って、私は観音の化身ともいうべき33人の僧俗の方々にご染筆をお願いした。
 大正大学で天台密教を講じておられた浅草寺の清水谷恭順大僧正に紹介していただいたのだ。
 まず経題は大森大僧正にお書きいただき、普門品の偈の第一章、なぜ観音と名付けるかのところを、伝教大師奉賛会長で、敗戦で悲劇の最期を遂げられた近衛文麿公にお願いした。
 直接にはお目にかからなかったが「書債は山のようにあるが、その代わり、もし奉納しなかったら返してくれ」と言われた。
 2番目の「汝聴け観音の行きとは」の偈文は、天台座主渋谷慈鎧師。
 同じ岡山のご出身で、高浜虚子先生とも親しく、小柄で端正な方だ。
 三番目は皇太后宮大夫の大谷正男氏。
 字はいかにも役柄にふさわしい、伸び伸びとした高貴な書風だった。
 このように僧俗交互に書いていただき、続けて仏教界の第一人者、法相宗管長、法隆寺貫首の佐伯定胤には法隆寺の小さな応援室でお目にかかった。
 濡れ縁を走るようにして入ってこられ「待たしてすまなかった」と、若輩の私に丁寧にわびられるのには、さすがに高徳な方だと感じ入った。
 次の鈴木貫太郎氏は敗戦時の総理大臣だが、体の大きな人で、太い指で筆を持ちながら「こんな小さな字は難題ですなあ」と言っておられた。
 このあとは後の天台座主、中山玄秀師、鈴木貫太郎夫人孝子さん、輪王寺門跡長沢徳玄師、さらに興福寺、清水寺住職の大西良慶師、犬養木堂氏の子息で、中華民国国民政府顧問の犬養健氏、ひげの陸軍大将林銃十郎氏、松井石根大将ご夫妻らにご協力いただいた。
 その中でも最も印象が強かったのは、司法大臣宮城長五郎氏だった。
 宮城県出身で、学問でも実務でも大変しっかりしており、信仰も深い方だった。
 大正大学で教えられた因縁もあって、よくお話を伺ったが、雑司ヶ谷のご自宅で「物騒な世の中ですなあ」と言われながら、「いや分かりました」と、「牢獄につながれていても、かの観音の力を念ぜば、釈然として解脱を得ん」の偈を書いて下さった。
 今思えば、よくぞ皆さん快く書いて下さったと、感謝に耐えない。
 幸い、松井大将も「ここの1番の宝だ」と、喜んで下さった。
 12月17日に書写経を奉納し終え、これで東京に思い残すことはないと、私は20年ほどの東京生活を終え、岡山行きの列車に乗り込んだ。
 (比叡山長臈)

比叡山・延暦寺の南山先生葉上照澄阿闍梨には先年遷化されるまで、興亜観音の建立時から長い間お力添えを頂きました。
日本経済新聞「私の履歴書」に昭和62(1987)年10月寄稿され、11回目に「興亜観音に写経奉納」の一文が載りました。
 この度、延暦寺寺務所の横井照泰師のご許可と、日本経済新聞社のご了承を得て会報5号に掲載します。
 (写経を依頼した三十三方のご芳名は創刊号に掲載してあります)

会報5号・目次のページへ