興亜観音との出会い

河守廣征

 平成7年10月8日、日曜日、あいにく朝から空は雨模様でしたが、田中正明先生著「パール博士の日本無罪論」(昭和63年5月購入)を手にして車に乗り込みました。
 箱根町に入り、芦ノ湖畔を通過して間もなく「お堂前」というバス停で車を停めますと、おい繁った木立の間から、かすかに「パール・下中記念館」という標示板が目にとまりました。
 田中先生の御高著に出会ってから7年間、一度訪ねてみたいと気にかけていた地にようやくやってくることができたのです。
 パール博士と下中翁の遺徳を顕彰する記念碑が建立されて27年、また記念館が建造されて20年という歳月が経過しており、パール博士や下中翁の名前を口にする人も殆どいなくなってしまった今日、果たしてこの地を訪れる人がいるのだろうという一抹のの不安を抱きながら車を記念館の駐車場に入れました。
 しかし狭い駐車場にはポンコツ寸前となった車が何台か放置されており、私の車を停めるのが精一杯でした。
 私は心無い者たちの仕業に怒りと悲しみが込み上げてくるのをこらえながら雨傘を差し記念館敷地に入りました。
 敷地の東南端にパール博士と下中翁の記念碑、田中正明先生撰文の副碑が雨にけむってひっそりと建っています。
 それらの碑は記念碑というより供養塔といった感じがする程淋しく建っておりました。
 残念ながら記念館は管理人も不在でかたく鍵がかけられたまま閉ざされており、拝観することは出来ませんでした。
 翌10月9日、私は思いきってこの有様と私の怒りを手紙にぶっつけて東京都武蔵野市にお住まいの田中正明先生宛てに投函いたしました。
 一面識もない私のような若輩者が・・・という御無礼を承知の上で・・・。
 2日後の10月11日、思いもかけず田中先生から私のもとに電話が入りました。
 箱根町の大川勇さんという方が管理人で電話をすれば鍵を開けてもらえるから是非拝観していただきたいということと、熱海市伊豆山に所在する興亜観音にも是非参拝していただきたい、至急資料を送りますというお電話でした。
 10月15日、日曜日、秋晴れの良い天気でした。
 念願叶って大川勇さんに鍵を開けていただきパール・下中記念館を拝観することが出来ました。
 私はその足で箱根峠から十国峠を超え熱海市に向かいました。
 田中先生が送って下さいました資料の案内図をもとに「興亜観音前」のバス停から鳴沢山の中腹まで車で登り、うっそうと木々のおい繁る急勾配の参道を少し登ると松井石根閣下直筆の世無畏の碑にでます。
 さらに約300メートル程登って行きますと、小さな庫裡から作務衣姿の女性が合掌されたまま走ってこられ「河守さんですか、田中先生からご連絡がありました。」と私に声をかけて下さいました。
 その女性は田中先生から伺っていた伊丹妙徳さんでした。
 妙徳さんnの案内で高さ一丈の露座の観音像、七士の碑、1068名の昭和殉難者の碑、大東亜戦争戦没将兵の碑に拝礼し、そして日中双方の戦没者が祀ってある興亜観音本堂に参拝することができました。
 私にとってこれが興亜観音との最初の出会いとなりました。
 あれから1年半が経過いたしました。
 その間に私はこの観音様のお導きにより沢山の憂国の志士の方々と巡り合うことができ、御指導御教示を頂戴することができました。
 以前の私は教育や社会の歪み、そして混乱、頽廃(たいはい)、汚濁の世相の中で一人悶々とした日々を送っておりましたが、それ以来私は目から鱗が落ちたようになりました。
 戦後我が国には暗黒史観、自虐史観があまねくはびこっております。
 その結果、日本のトップリーダー達でさえも国家への責任感、さらに国家という観念そのものまでも喪失してしまっているのが現状です。
 明治に始まり今日に至るまで、日本は猛烈な勢いで西洋化への道を歩んできました。
 特に戦後は東京裁判やマッカーサー憲法など、占領軍の日本弱体化政策が功を奏し、物質偏重に流れ、精神面は軽視されております。
 この現状を打破するには、我が国本来の伝統精神に立ち返り、国家観念の確立、即ち真の独立国としての気概を取り戻すことが急務ではないでしょうか。
 (興亜観音を守る会理事、サンライズグループ代表)


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