東京裁判史観からの覚醒を
希(こいねが)う

吉田 義尚

 昭和17(1942)年春、私は陸士に入校した。
 58期生である。
 父は、幕末に賊軍の悲哀を味わった旧南部藩貧乏士族の末裔で、秋田の鉱山会社の一鉱夫であったが、私が高等小学校2年の冬、勤めに向かう途中で倒れ、一言も無く他界した。
 当時私は15歳、貯えも無く5人の子供を抱えた母の困窮は見るに忍びなかったが、向学の志巳み難く、母の寛容に甘え笈(おい)を負って上京、麹町に在った鮎川義介氏宅に書生として住み込んだ。
 此の間約4年、夜間中学に通い、卒業と共に陸士への道を選んだ、戦後はソ連エラブカ地区に抑留され、昭和22(1947)年暮に復員したが、また鮎川氏に請われて数年間秘書を勤めた。
 私が景仰する鮎川義介氏は、明治の元勲井上馨氏の甥で、東大工学部を卒業後米国に渡り鋳物の技術を修得、帰国後九州に戸畑鋳物会社を起し、その後日産自動車を創立、更に日本鉱業、日立製作所等を傘下に収め、一時期三井、三菱を凌ぐ日産コンツェルンの総帥として著名な財界人であった。
 そして建国間もない満州に進出、満州重工業の総裁として満州国の経済発展に重要な役割を果たしていた。
 敗戦後、鮎川氏は戦犯として巣鴨拘置所に拘留されたが間もなく釈放された。
 巣鴨拘留中の一挿話であるが、東條大将は他の拘留者とは隔離されていてその真意が判らなかった。
 鮎川氏は皆から頼まれ、その本心を問うべく或る日の昼下がり便所で待ち伏せていた。
 2人のMPに付き添われて通りかかった東條大将に窓から声をかけた処、靴の紐を結ぶ振りをして立ち止まり、「裁判では陛下に累を及ぼさないことをのみ念じている。責任の一切は自分が追うつもり故、皆さんには心配無用と伝えられたい。」と力強い言葉だった由である。
 同期生の或る会合の席で「戦没者の慰霊には何人も反対すまいが、靖国神社公式参拝が実現しないのは何故か。それはA級戦犯7名が合祀されているからだ。」と或る1人が云った。
 左翼同調者や真実の近代史を教わっていない世代ならいざ知らず、同期生からかような謬見が述べられるとは意外であった。
 七士をA級戦犯として処刑したのは東京裁判であり、これは戦争継続中(講和条約締結前)における占領政策の一つであり、七士は明らかに戦死である。
 而(しか)も東京裁判はインドのパル博士が指摘する通り、公平な裁判ではなかった。
 日本の首脳者たちを犯罪人に仕立てることは占領軍必須の命題であった。
 その犠牲者が七士であり、七士は皇室に累が及ぶことなきよう自らが責を負い、一命に代えて、国体を護持し、将来の我が国の礎となったのである。
 七士は246万余の英霊と共に尊い殉国者であり、靖国神社に合祀されるのは当然なのである。
 七士が従容として死に就かれた後、私はエラブカ抑留の同期生七人と共に板垣征四郎閣下の留守宅にお悔やみに参加した。
 未だエラブカに抑留中の令息板垣正君(現参議院議員、58期)宛ての鉛筆書きの遺書を拝読し、閣下の御令室より種々お話を伺い、感銘を深くしたことを昨日のように思い出す。
 七士の遺書を拝読しても皆立派な人格であられたことは疑いない。
 開戦の詔書に示されている通り、大東亜戦争は我が国の自尊自衛の戦いであって、断じて侵略戦争ではない。
 日本が戦いぬいた結果の1つとして、東亜諸国は植民地支配から脱却することができた。
 我が国は敗れたが、正邪は何百年かの後において公正な判定がくだされるであろう。
 しかしながら今日の我が国は、マッカーサー占領政策、即ち押し付けられた憲法や東京裁判史観によって暗黒史観、自虐史観が蔓延し、日本民族の誇りを失い、独立国としての国家観を喪失している。
 七士のお一人の松井石根大将が建立された興亜観音には、七士のご遺骨が丁重に埋葬され、所謂戦犯として内外において刑死された1068名の御霊が祀られ供養されている。
 昭和動乱の時代に生き、かつ戦に生き残った一人として、国難に殉じた幾多の先輩諸友の御霊に感謝し追悼の祈りを捧げ、諸悪の根源たる東京裁判史観の呪縛から覚醒することを切に願うものである。
 (グラップ(株)社長、陸士58期)


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