奇しくも七烈士の祥月命日に
事故死したウォーカー中将

松木 佶

 松井石根大将、東條大将ら、七烈士の刑の執行を命令し、絞首刑のあと横浜火葬場で極秘裏に火葬に付し、何処ともなく処分させた責任者が、何処ともなく処分させた責任者が、当時の日本駐留軍司令官ヘンリー・ウオーカー中将であった。
 昭和25(1950)年6月、38度線を突破した北朝鮮軍は懸河の勢いで米韓両軍を南鮮に追いつめた。
 第二次大戦の勝利に酔った、怨念と保身の亡者マッカーサーの短慮から共産主義者の本質的侵略性とその巧妙な挑戦誘発への対策に、永年腐心してきた日本の立場を一切理解しようとせず、一方的に侵略者と断罪した東京裁判のつけが早くも回ってきた訳である。
 翌年9月、増援を得たウォーカー中将の指揮する第8軍は、仁川に逆上陸した友軍と協力して反撃に転じ、兵站線の伸びきった北朝鮮軍を各所に撃退し、ソウルを奪還して、敵を38度線以北に押し込め、鴨緑江を目指して、追撃を続けた。
 10月に入り、隠密裡に国境を超えた圧倒的中国軍は、人海戦術を展開し、各地で国連軍を圧倒して、38度線以南への撤退を余儀なくさせた。
 両軍は軍事境界線を挟んで対峙し、戦線は膠着状態になった。
 12月23日、ウォーカー中将は、臨津江東岸に布陣する米第24師団と英第29師団を視察するために、第一線指揮用として、特に頑丈に改装させたジープのハンドルを握って、ソウルの第8軍司令部を出発した。
 韓国軍第2連隊憲兵隊憲兵隊長崔永詰少佐の言によれば、「午前11時頃、議政府南方5キロの道路脇で休憩していた韓国軍の中型トラック6両のうちの1台が、本道に出たとたん、南から猛スピードで走ってきたジープのバンパーが接触し、そのジープは泥濘にスリップして、横転した、付近には数百人の米韓軍将校がいたが、かけよったグループの間から、将軍が死んだ、という叫びが響き一同を驚かせた。」という。
 ジープはウォーカー中将の専用車であった。
 中将はその下敷きになり、泥と血にまみれて意識はなかった。
 車体の軽いジープの下敷きになっても死亡にいたる例は少ないが、改造で重量が増していたことも、悲劇をたすけることになった。
 付近の野戦病院に収容されたあと死亡が発表されたが、実際には即死状態だった。
 同乗していた幕僚ターナー中佐は、重傷を負ったが生命は取りとめた。
 ウォーカー中将は、第二次世界大戦では第3軍司令官パットン中将の指揮下で、「ブルドッグ」の愛称を得て猛将ぶりを発揮した。
 ウォーカー中将死亡のニュースは、米韓軍将兵に一様の衝撃を与え、マッカーサー元帥も直ちにその死を悼む声明を発表した。
 「私はすでに同中将を大将に昇進させるよう進言していたところであった。・・・同中将の死は米国だけでなく、朝鮮における自由を守るために、米国と連合して戦っている国々の間でも深く惜しまれるであろう。」
 幾多の戦場で修羅場を行き抜き、猛将の名を欲しいままにした1人の軍人の死。
 12月3日に61回目の誕生日を迎えたばかりの中将が、はかなく事故死したその日は、奇しくも七士の戦犯死刑執行から3年目の祥月命日、12月23日であった。
 それも自分でハンドルを握るジープの下敷きとなって。
 後日中将の副官は韓国将校から祥月命日に関する因縁の説明を受け、仏教でいう怨念の恐ろしさと因果の神秘さを教えられた。
 報告を受けた70歳のマッカーサー元帥のショックも小さくなかったことだろう。
 怨念供養の「法要」をいとなませるべく翌年5月、副官に興亜観音を訪れさせた。
 いきなり英語で話かけられた堂主伊丹忍礼師は困惑した。
 急遽、熱海警察署および市役所から係官が出向いて来て、米軍将校の意を了解することができたという。
 興亜観音奉賛会や七士の遺族たちは、このウォーカー中将(死後大将昇級)の死を哀れみ、「興亜観音に怨讐のへだてはない。怨親平等だ、それが松井大将の心でもある。」といって露座観音のかたわらに卒塔婆をたて、懇ろに法要をいとなんだ。
 (興亜観音を守る会理事/陸士58期)


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