戦場の霊土で作り奉った
興亜観音の部下英霊に捧ぐ
興亜観音前の松井大将
元中支方面軍最高司令官陸軍大将
松井石根

 (前略)記者は、堂主として余生を送るために、本籍までここに移されたといふ将軍を、観音堂に程近い、伊豆山麓のお住居にお訪ねして、将軍の興亜観音を建立された御心境を伺った。(記者)

 部下の英霊と共に住みたい ---- それが、私の永い間の願ひであった。
 いまここに幾多同感の人士、併に熱海市各方面の協力によりて興亜観音の完成を見、開眼式を行ひ、日夜諸君の霊を慰め得ることを、私は衷心(ちゅうしん)から歓ばしく思ふのである。
 大命を拝して江南の野に轉戦(てんせん)し私は敵味方幾多の将兵の貴い生命を滅ぼした。
 南京入城の翌日、戦没将兵の慰霊祭を行つたのであるが、その時、私の脳裏に浮かんだのは、皇軍将士の忠勇義烈の様と共に、蒋政権の傀儡(かいらい)となつて、徒らに生命を捨てた、哀れな支那人の犠牲者のことであつた。
 皇軍の将兵は、その最後において一様に、陛下の萬歳を唱へまつり、莞爾(かんじ)として皇国のために殉じたのである。
 この姿は、成佛の姿でなくして何であらう。
 また、靖国神社に神として斎(いつ)き祀られ、萬人の景仰のもとに永遠に神鎮まり給ふのである。
 ひきかへて支那の犠牲者達は、その多くが、些末(さまつ)の囘向(えこう)をも受けることなくして、空しく屍を荒野にさらしている。
 その亡魂は成佛することができずして、大陸にさまようていることであらう。
 この哀れな犠牲者を、皇軍将士と共々供養してやりたいといふ願ひは、私の心深く根ざすところがあった。
 命により、數多の部下を残して帰還するに當つて、私は人に託して部下の遺骨と、日中両国将兵が戦没の地の霊土をもって佛像を作り、両国の戦没将兵を平等に祀ることにした。
 すでに靖国神社に神として祀られ、皇国の英霊を、私してお祀りすることは、まことに僭越であつた。
 しかし私個人として、私の部下であつた多くの勇士に對する感謝と愛惜(あいせき)の情はまことに禁じ難く、僭越ながらかうして英霊を祀り、これを一般に公開することにしたのである。
 両国殉難者を祀るためには、相通じる佛教もつてすべきだと思つた。
 そして各宗派に超越している観世音を祀り、その大慈大悲の念力によって數多の亡魂を救ひ、普く三千大千世界を照らす観音の光明をもって、業障を浄除して、両国犠牲者の霊が、地下に融和せんことを願つたのである。
 更に、我が身を殺して大慈を布き、畏(おそ)れなきを施すといふ施無畏(せむい)の観音の精神は、即ち八紘一宇の興亜大業の精神に他ならぬ。
 諸人と共に、両国犠牲者の冥福を怨親平等に囘向(えこう)し、八紘一宇の大精神を具現する、日支親善の守り本尊となるならば望外の幸福である。
 私が興亜観音の建立を発願したのは、この目的に他ならなかつた。
 携えて来た霊土は、陶土に混へて、上餘(じょうよ)の外佛と二尺餘の内佛の二體作つて興亜観音となし、部下勇士達の遺骨は、寶蓮華臺(ほうれんげだい)の中にねんごろに納めた。
 この伊豆山の麓に居を移した私は、朝夕(ちょうせき)の閼伽(あか)の水を奉るべく、杖を引いて山路を登り下りする。
 観音像の御前に合掌して、想ひを蒼海萬里(そうかいばんり)の外に馳(はせ)するとき、うたた感慨切なきものなきを得ない。
 諸君と共に死すべかりし身の、命により帰還して後、私の眼前に見んとして見得ず、しかも脳裏を巡って離れぬものは、諸君が戦場において、敢然敵陣に突入せんとする忠勇義烈の姿であった。
 いま諸君のこの姿を、興亜観音の御像の上に仰ふ。
 私はこの観音堂にあつて、身の餘生を、諸君の霊を守つて明し暮らしたいと思ふ。
 しかしながら、諸君の莫大の命を捧げし、興亜の聖業未だ成らざるのとき、徒らに身を閑居の安きに処しているべきではない。
 言うまでもなく地位の如何を問わず、なほまた何かと邦家(ほうか)のため微力をいたすの義務ありと信じている。
 聖業の成れる暁にこそ、私は興亜観音像の堂主として、諸君の霊に仕えへて餘生を終わりたいと思ふ。
 (文責在記者)
 ※「主婦の友」昭和15(1940)年4月号より転載しました。提供者は開勇理事の友人植田忠幸さんです。


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