松井石根陸軍大将
残骸誓って英霊にと
作家 杉田幸三
旅順開城約成て敵の将軍ステッセル乃木大将会見の所はいづこ水師営(佐々木信綱作詞)この日本武士道、士の道を実践した舊文部省唱歌はあまりにも有名だ。
主人公は乃木大将である。
つとに、乃木に私淑して、何事も熟慮断行したのが松井石根大将である。
支那事変の南京入城式のあと凱旋、下関に着くと第一に長府の乃木神社に参拝、黙祷(もくとう)久しくして参内、復命後、一詩を賦した。
懸軍奉節半霜星 聖業未成戦血腥
何貌生還老痩骨 残骸誓欲報英霊
乃木将軍の凱旋今日幾人か還るといふ心事と同じである。
徳望世界に輝いた乃木に私淑していた松井が何故大東亜戦争後、極東軍事裁判で絞首刑に処せられたのか。
某議員は「日本軍が南京で虐殺を行ったと言われたが事実ではない。中国側の作り話です。嘘です。」(プレイボーイ日本版)の作り話が唯一の理由で殺された。
裁判の名を借りた復讐劇といはれる所以(ゆえん)である。
松井大将の宣誓供述書には「昭和20年12月下旬、南京において、若干の不祥事ありたりとの噂を聞いたのみにて、何等かかる事実につき公的報告を受けたることなく検事側の主張するがごとき虐殺事件に関しては、1945年、終戦後東京における米軍の放送にて初めてこれを聞知したるもの」とある。
南京における裁判で、銃殺刑に処せられた第六師団長、谷寿夫中将も、「いはゆる南京事件を知ったのは終戦後の新聞紙上であり、驚愕せり。該戦闘に参加せし被告さへ初めてこれを聞けるなり」と証言している。
いはゆる東京裁判の統治総括主宰者すなわち判検事の任免権をもち裁判のシナリオを起草した元帥マッカーサー自身、「1951(昭和26)年、東京裁判とニュルンベルグ裁判は警告的効果さへなかつた。東京裁判は間違ひだった」といつた。
前述の二証言田中正明著「南京事件の総括」より引用したが、同書には昭和13年、松井が葉山の御用邸で該戦闘でおほめのお言葉を頂いたことさへ出ている。
不徳の将に御嘉賞はあり得ない。
だが松井自身の深い嘆きと反省があつた。
南京入城後、彼は慰霊祭では中国人死者も共にといつた。
だが参謀長以下は真意がわからないせいか、軍の士気にかかはると、きかなかつた。
さかのぼる日露の戦での松井は首山堡の激戦で貫通銃創を負った勇士である。
代理に指揮をとったのが学徒出陣第一号の静岡県出身市川紀元二中尉(戦死)であつた。
この歴戦の松井からすると「当時の師団長と今のそれを比べると問題にならぬ程悪い。武士道・人道といふ面では全く違ふ」といっていた。
慰霊祭の後、皆が集まったとき、松井は無念さに泣いた。
ところが、このあと、みんなが笑ひ、ある師団長ごときは「当たり前です」とさへいった。
松井はこの低さを嘆いた。
徳望世界に聞こえた乃木将軍に私淑していたのだからいうなのるは当然であらう。
大体、松井は、孫文が提唱していた"日本無くして中国無く中国なくして日本無し"といふ日中和平の大切なことを常に説いていた。
だから、下克上の風潮には一貫して軍紀を守ることを主張し、煙たがれるくらいだつた。
抗命の軍将である佐藤幸徳の回顧録が"松井は粛軍派であった"といふのはもつともだ。
帰還後の昭和14年熱海の伊豆山に、上海戦や南京戦の日中両国戦没の将士を合祀した観音像(現地の血染めの土で作られた)を建て、恩怨平等を祈つて庵を結んだ。
巣鴨プリズンに入るまで読経三昧の生活を送っていた。
かういふ人物を舊敵国が絞首刑にするなどということは矯傲以上のものである。
まさに、東京裁判は復讐劇以上のものではなかつた。
対立観から一歩も出られない唯物論者の宿命といつてしまへばそれまでだが、それでは元松井将軍が、天地も人も恨まずに一筋に無畏(法を説くのに恐れぬ姿)を念じて安らけく逝かれた澄みきった態度に対し、余りにも無礼であらう。