興亜観音御分体の小観音像

梨岡 寧

 私の父、梨岡寿男は陸士26期で、昭和14(1939)年8月新設の歩兵第235連隊の初代連隊長を仰せつけられ、昭和16(1941)年2月まで中支奥地の横溝橋(武昌の南方)に駐屯、様々な作戦や討伐戦に従事しました。
 その後関東軍司令部高級副官、19年初め独混第89旅団長として中支海岸の温州に駐屯、20年5月上海に集結せよとの命令をうけ、二百数十キロメートルの敵地を縦断し一兵の損傷もなく集結完了、上海において敗戦を迎えました。
 従って松井石根閣下の指揮下にはなかったのですが、どんな事情があったのか、興亜観音建立の際に、その御分体の小観音像を松井閣下より拝領したと聞いております。
 さて少し父の個人的な事に触れますと、祖父は書家で漢字者でもありましたので、父は小さい頃から漢字を教えられ、小学校6年生の頃には漢詩を作詩した由です。
 祖父の胸像は西を向いて建てられていますが、あれは「中国を向いているのだ」と祖父の研究家は申しておられました。
 その様な家庭で育てられた父は、中支戦線でも歴史上や有名な漢詩に残されている史跡、建築物等、その謂(いわ)れを説明し、保護に務めていたと部下の方からお聞きしました。
 また「支那においては敵兵を幾ら殺しても果てしはない。敵兵を殲滅するのではなく、戦いには勝ち、共産主義と欧米の侵略から支那を守ることが大事であり、亜細亜民族の団結を勝ち取ることが此の戦争の目的だ」と言っていたとも、部下の方からお聞きしました。
 その様な戦争指導の故か、昭和15年には成渠軍の敵兵5400名の帰順があり、旅団長時代には丸腰で温州の町を独りで歩き、子供たちと談笑したり遊んでいた等、我が日本軍と温州の中国人とは平和だったそうです。
 戦後は戦犯として法廷に立たされましたが、部下だった脇田知望さん(中尉)は「梨岡兵団長が一切の責任を負って戦犯に服され、部下からは一人の戦犯も出さなかった。兵団将兵の救いの神として感謝され、信望厚い名将だった」と語って下さった由です。
 その戦犯裁判の時、温州の中国人たちは嘆願書をはるばる上海まで持ってきてくれました由で、その結果、死刑から有期刑最長に減刑されました。
 そして国民党軍が台湾に落ちのびる際に巣鴨へ移され昭和27(1952)年の講和条約により出所できました。
 既に動けない体ではありましたが、それから死ぬまでの2年近くを家族と暮らすことができたのです。
 これも松井閣下のお志と同様に中国を愛し、亜細亜諸民族の団結を念じ、そして日中両軍将兵の愛国の血の染みた御分体の興亜観音像を大切にお守りしていたお陰かとも考えられます。
 私もこの不思議なご縁を心に深く刻み、生涯を貫きたいと考えております。
 (陸士60期)

陸士51期守屋廉造氏の手記の抜粋
昭和20年5月、「梨岡旅団は軍主力に合流せよ」の命令が下され、第六軍の情報参謀であったが、若輩の故に私が伝達することになった。
 ・・・・ 梨岡閣下は封を切って命令書を読まれたが、表情の動きはなく、黙然と端座されていた。
 1時間も経ったろうか、床の間の天照皇大神の軸に拝礼柏手され「主力から孤立1年、上級司令部からは誰も来ず、苦心して作った滑走路に友軍機は1機も降りなかった。ここを死に場所と覚悟して営々と陣地を作りあげたところに、敵中を踏破して帰って来いとの次第だ」と愚痴めいた調子ではなく、ポツリポツリと語られた・・・。
 閣下のお言葉に従い、翌朝は東天を拝し柏手を打ち、すがすがしい気持で陣地視察に出かけた。
 大隊本部ごとに鳥居が立ちお宮が祀ってある。
 ここを死に場所と思い定めた将兵は、自然に神道に帰するのであろうかと、厳粛に頭を垂れ、かつはご苦労に感謝した。
 クリークのあちこちでは水車のような構造の踏み板に農民が2人並んで談笑しながら水田に水を汲み上げている。
 王道楽土のように思えた。
 市街の電柱や電線も整然とし、治安がよく、行政が行き届いているようだった。
 戦犯裁判において、梨岡閣下の恩赦陳情書を現地人が出した由だが、陣地視察の折の温州を憶い、さもありなんと感慨ひとしおであった。

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