知って欲しい興亜観音
長塚 国雄
「7号車、興亜観音へ・・・」2月18日伊豆高原の帰途、家内と熱海駅前で乗り込んだタクシーの運転手は、発車間もなく行き先を会社へ連絡した。
行けるところまで登りましょうと、やっと通れるような細い急な坂道を車は右へ左へ曲がりながら登ってどうやら止め置ける小さな平らなところで止まった。
幅1メートルほどの道の中央に30センチほどのコンクリート舗装がしてあり、その小道が上へ上へと曲がりくねって続いている。
雑木の中をゆっくりゆっくり登りながらふと見ると、水仙や都忘れの草花が植えてある。
「あったァーこれだ・・・」黒褐色の合掌した姿の観音様は、阿弥陀如来像にも似て慈悲深く熱海湾をはるかに見下ろしていた。
観光の大きな近代的観音様を見つけている感覚には、予想よりはるかに小さかった。
それもそのはずである。
昭和15年物資困窮する支那事変の最中に建立されたものだからである。
悲惨な戦争を何とか回避できないかと念願しながら、憐れみと慈悲深い松井石根大将が、鮮血に染まった土を持ち帰り散華した敵味方の慰霊のため建てられたと聞く。
何と崇高な所為であろう。
こんな不便で急斜面での建立は相当難儀な事であっただろう。
皮肉というべきか、陸軍一の中国通で、中国とは仲良くしなくてはならぬと主張し続けた松井大将が、東京裁判で虚構の南京虐殺で処刑されA級戦犯6名と共に埋葬されている。
無念というほかはない。
2人並んで合掌した。
そして1人でも多くの人にこの聖地興亜観音を知って、日本国民としての自覚を促したいと思った。
「どうぞこちらへ・・・」作務衣姿の堂守りさんが本堂へ案内してくれた。
記帳した後、家内の友人から預かったお賽銭も一緒に上げ、香を供えて合掌した。
堂守りさんから説明を聞きながら、皇紀2600年祝賀の写真を見て、金鵄輝く日本の、栄ある光身に受けて、と小学生当時歌ったことを思い出した。
お茶をいただきながら「東京裁判とは何か」を読んで著者の田中正明先生を知り、「興亜観音を守る会」の会報を読んでお参りしたことを話した。
石橋ツヤ先生が担任された次女の中子さんだろうか、帰路の急坂でずーっと手前からバイクを降りて、それは丁寧に「よくお参り下さいました。誰かいてお茶ぐらい差し上げたでしょうか。」と清純な物腰でいわれた言葉が、青空のように明るくさわやかであった。
仰げ興亜観音 | |
一、 | 東海道線熱海に下りて 湯ヶ原行きのバスに乗る 海岸線を右に見て 伊豆連峰を見上げると 程なく興亜観音前 |
二、 | 急勾配の参道は 車がやっと通る幅 中腹までのその先は 真中だけを舗装した 曲がりくねった細い径(みち) |
三、 | 雑木林に点々と 大樹交わりて緑陰深し 息はづませつふと見れば 都忘れや水仙の 花ひっそりと植えしあり |
四、 | 山中深き急な斜面に ポッカリ開けた小さな広場 海に向かって大陸に 戦い散りし彼我の御霊を 祈る姿の観音像建つ |
五、 | 中国通ならいちばんと いわれた松井大将が 無益ないくさすべきでないと 主張届かず命に従い 見た戦場の悲惨さよ |
六、 | 痛惜の念耐え難く 慈悲の行い如何になすべき 彼我の戦血染みたる土もて 観音菩薩の像を作りて 怨親平等霊を弔う |
七、 | 自他隔てなく供養する 誠の心大将が A級戦犯六士と共に 大慈無限の懐に 抱かれて眠る奇なる佛縁 |
八、 | 開眼式から五十年 僧侶伊丹師堂守りし 父母亡きあとを引きついで 法灯守る妙徳姉妹 参詣人を案内す |
九、 | アジアの前途洋々と 拓きし古人の尊き偉業 残してくれし精神文化 思い起こせよ日本の心 来て仰げかし興亜観音 |
(書道教師)