アジア鎮魂のメッカ
名越ニ荒之助
大東亜戦争を戦ったのは、日本民族だけではなかった。
朝鮮人も志願して2万1千余名が戦死(特攻出撃も含む)し、台湾人は2万7千余人が戦死(以上靖国神社祭神数)してゐる。
当時の南洋群島から志願して、ニューギニア戦線で戦死した者もある。
そればかりではない。
フィリピンではリカルテ将軍やデュラン博士、そしてラモス等は、マカピリ(愛国国民軍)を組織して、最後まで日本軍と共に戦ひ、悲劇的な最期を遂げた。
さらにビルマ国民軍は三十人志士と共に英国軍と戦ひ、チャンドラボースはインド国民軍を指揮してインパール作戦で悪戦苦闘した。
日本敗戦後、彼らがいかに苦難の道を歩んだか、十分に検討する必要がある。
また大東亜会議に出席したアジアの指導者たちは、日本が敗れると「民族の裏切り者」扱ひにされた。
汪精衛(汪兆銘)一門五十数人は銃殺刑に処せられ、墓さへもない。
満州国の張景恵総理等はシベリアに連行されて行方不明となった。
ビルマのバー・モウ首班や、フィリピンのラウレル大統領等は、苦難の生涯を余儀なくされた。
終戦の詔書には、「帝国ト共ニ終始東亜解散ニ協力セル諸盟邦ニ対シ、遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス」とある。
我々日本国民として、遺憾の意を表す相手は、かつての敵国に対してではない。
日本を信じ、そのために尊い生命を捧げ、敗戦後は悲惨な境涯に追ひ込まれたアジアの諸民族に対してではないのか。
その中にあって、開戦時文部大臣であった橋田邦彦博士は、昭和20(1945)年9月24日に自決した。
遺書の中には「道義ノタメニ戦フト称ヘナガラ、義ノタメニ国ヲ賭スル迄戦フコトヲ得ザリシ日本ノ国民ノ一人トシテ、盟邦各国ニ罪ヲ謝ス」とあった。
またインドネシアのバリ島で、海軍通訳をしてゐた三浦襄氏は、島民に対して日本への協力を呼びかけ、あはせて独立も約束してゐた。
ところが思いもかけず日本敗戦の悲報がもたらされた。
彼は意を決して、「日本は約束を違へて申し訳ない。日本人の一人として、私は自決によって責任をとる。インドネシアの人々は、私の屍を乗り超えて、独立を達成して貰ひたい」
と、全島二十数ヶ所で演説し、予告通り9月7日に自決した。
終戦時自決した人は、7百人を超えると言はれるが、このやうな悲願をこめた人も多かったのではあるまいか。
私が貴重な本会報に、このやうな事を書いたのには意味がある。
興亜観音は松井大将の発願により、南京に向かって建てられ、激戦地の血土をもって創建され、敵味方の区別なく供養されてゐる。
さらに敷地内には、所謂(いわゆる)A級戦犯として殉難死された「七士の碑」が建ち、そこには7人の遺骨が納められている。
さらに「大東亜戦争殉国刑死一〇六八柱供養塔」と「大東亜戦争戦没将士英霊菩提」が併(あわ)せ祀(まつ)られている。
私はこの地にお参りするたびに言い聞かせてゐる。
ここに紹介した「大東亜戦争戦没将士英霊菩提」は日本だけの英霊を祀ってゐるのではない。
東亜解放に協力した諸盟邦の英霊も含まれているのである。
さう思ひ至る時、興亜観音一帯は、文字通り「アジア鎮魂のメッカ」なのである。
(高千穂商科大学元教授)