殉国七士の墓、興亜観音に
その墓のあるわけ

「七士の碑」裏に刻まれたる絶筆。右より広田弘毅、松井石根、東條英機、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章の各士

伊丹忍礼(述)
(昭和15(1940)年から堂守り、昭和60(1985)年9月15日没)

 東京裁判(極東国際軍事裁判)は、昭和23(1948)年11月12日午後3時50分、A級戦犯者の判決を下した。
 絞首刑としては、東條英機、松井石根、土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章の7人でありました。
 そして死刑は翌12月の23日午前零時20分、第1組は土肥原、松井、東條、武藤の四氏が最初に執行され、ついで2組の板垣、広田、木村の三氏が氏執行せられた。
 7士の亡骸は、刑の執行1時間半をへた午前2時5分、2台の大型トラックで、巣鴨拘置所を出され、横浜市営の久保山火葬場で、米軍監視下に午前8時10分から火葬開始、9時30分に終了した。
 遺骨は遺族より引き取りの要求があったが、占領軍はゆるさなかった。
 その理由は国民の一部が英雄あつかいをして、神聖視することをきらったからでした。
 その占領軍は、ドイツ戦犯のゲーリングの場合のように、飛行機で空中に遺骨をまきちらす予定であったようです。
 ところが、占領軍がそれを行ったことは聞いていません。
 進駐軍総司令部からは、太平洋にすてさったと公表されました。
 果たしてそうなのか・・・・・?
 遺骨はどうなったのか・・・・・?
 太平洋に投げ捨てたはずの遺骨が、おかしなことに、昭和30年4月24日、進駐軍の命令により、厚生省引揚援護局の市谷庁舎で、7戦犯の遺骨と称して、白木の箱にはいったものを渡された。
 広田弘毅氏の遺族のみは受取りをこばまれたが、他はそれを受けとられた。
 はたして、それが真の遺骨か(?)どうか証明する途がありません。
 ただし、ここに七士の、遺骨に絶対間違いないものが、興亜観音の境内の「七士の碑」のもとにあります。
 どうして、七士の真の遺骨が興亜観音の境内にあるのでしょうか。

火葬場より遺骨を盗み出して

 昭和23年12月23日の米軍による久保山火葬場の火葬は、どうしたわけか、火葬が完全にゆかなかった。
 即ち燃焼がうまく行かず、いわゆる「半焼」「生焼」のような状態でした。
 おもうにこれは、米軍兵士は日本の火葬機械の加減に慣れていないので、うまく行かなかったのでしょう。
 そこで、米軍の兵士は、当時の火葬場長であった飛田美善氏を呼び、再火葬を命じました。
 この飛田氏に再火葬を命じたことが、七士の間違いない遺骨が日本人の手にはいる根本原因となったわけです。
 話は別になりますが・・・・、東京裁判の弁護人であった三文字正平氏、同じく林逸郎氏は、はやくも進駐軍の意図するところを見抜き、七士の遺骨が、飛行機で空中などにばらまかれたりしてはたまらない、叮重(ていちょう)に埋葬すべきであると考え、遺骨の盗み出しを計画しました。
 東京裁判の弁護人という立場から、事前に七士の火葬が久保山火葬場で行われることに察知して、三文字氏は飛田火葬場長、ならびに火葬場のすぐ隣の禅宗の、興禅寺住職市川伊雄師と、遺骨の搬出について事前の打合せをおこなっていました。
 さて飛田氏による再火葬が無事すんで、七士の遺骨を格別にそろえて、線香をともし、合掌しつつ、それぞれの御骨の幾箇かずつを、隠匿しようとした刹那に、米軍兵士が、線香の匂いに気付いて、どやどやとはいってきて、七士それぞれに区別して置いた遺骨をば、まるでマージャンのパイを混ぜるように、ごちゃごちゃに1つにしてしまった。
 そして、それを黒塗りの箱に収めていづれかに持ち去ってしまった。
 ところが、その七士の遺骨を黒塗りの箱に納れる時、納れかたが粗雑だったので、中小骨・細骨・骨灰・・・・、ちょうど合計して大人の骨壷1個分ぐらいのものを、「塵灰」のごとくコンクリートの穴に捨てたのであります。
 久保山火葬場は、勿論、米軍占領下にあり、三文字、飛田、市川の三氏は、12年26日の夜半黒マントをかぶり、厳重な警戒網を突破して、コンクリート穴にしのび寄り、懐中電灯を点滅しつつ、竹竿の先に罐(かん)などをつけ、苦心惨憺(くしんさんたん)、息を殺しつつ、とうとう全部をスーツケースにおさめて、一往、興禅寺に秘蔵いたしました。
 さて、火葬場のすぐ隣の興禅寺にいつまでも隠匿しておくわけにはゆかない。
 いつ発覚して持ち去られ、いかなる処罰にあうかもしれない。
 そこで三文字氏や林逸郎氏、飛田、市川等の人々と七士の遺族の人々が、極秘のうちに相談した結果、遺骨を熱海の松井家に移し、更に「興亜観音」にうつすことになりました。
 昭和24(1949)年5月3日の午後、広田弘毅氏の令息、東條未亡人、武藤未亡人、それから三文字氏等が興亜観音を訪れ、堂守として妙法をもって専心に英霊の供養回向を申し上げていた私ども夫妻に、
 「知り合いの、ある人の遺骨ですが、時期の来るまで誰にも分からぬように、秘蔵して置いて貰いたい」と申し出られた。
 私は一見して七士の遺骨であると直感して快く承諾した。
 それからが、まことに大変であった。
 私ども夫妻は子供たちに知られぬように、深夜、本修院の玄関口の題目塔のうしろに、ひそかに穴を掘り、埋め隠した。
 そして、わざわざ雑草をしげらし、誰が見ても絶対に察知されない自然の形にした。
 ところが、次々に種々の流言蜚語があり、絶対大丈夫と確信していても、私ども夫妻は何となく不安になってくる。
 そこで埋蔵の場所を変える。
 ある時は興亜観音像の裏に、またある時は本堂にと、いつも、子供達にも知られないようにと、真夜中での作業でありました。

殉国七士の碑が三ヶ所になったわけ

 昭和26(1951)年9月8日午前11時44分、講和条約はサンフランシスコで調印され、条約の発効は、翌27年の4月28日からではあるが、26年9月8日の調印以後は、米軍の日本取締りは、非常にゆるめられてしまった。
 そして七士の遺骨の持ち出しの秘話や、またその遺骨が興亜観音の境内に埋蔵されていることなども、新聞にぽつぽつ報道されるようになり興亜観音に七士の遺骨をとむらう人も多くなりました。
 長野県上水内郡長沼の前島定照氏は、僧籍にはいっていられるが、もともと林檎園主で、この人が、戦争の責任を一身に負って刑死したことに同情し、その霊を供養するべく、昭和27年5月22日、自家の庭先を建碑し、そのもとに一握の遺骨を埋葬されたそうですが、その遺骨はどこから入手せられたか知りませんが、興亜観音の御遺骨とは何等の関係がありません。
 さらにまた、昭和35年8月16日には、愛知県憐豆郡の三ヶ根山に「殉国七氏墓」が建立せられて、盛大に墓前祭がおこなわれた。
 そこに埋葬された遺骨は、明らかにこの興亜観音にある骨壷から香盒(こうごう)1ヶ分ほどを分骨したものであり、三文字氏、林逸郎氏等の発起されたものであります。
 この興亜観音にある「七氏之碑」は、昭和34(1959)年4月19日に建立されたもので、碑の文字は、元総理・吉田茂氏の筆によるものです。
 この建碑のおこりは、松井大将の無二の親友であった高木陸郎氏(興亜観音奉賛会長)の発起によるもので、高木氏は東亜同文書院出身の実業家で支那大陸で活躍された方であり、吉田茂元総理とも親交があったので、碑文も木氏の依頼で吉田氏の揮毫(きごう)となった次第です。
 碑文についても種々議論があったそうですが、「知る人ぞ知る「七士之碑」でいいではないか」との結論に落ち着いたそうです。


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