松井大将とのご縁

松井大将に唯一度だけ親しくお目にかかったことがある。
私の18歳の時、旧制中学を出て浪人中のことである。

桑木崇秀

 昭和9(1934)年8月、夏休みを利用して、私は台北に父母を訪ねた。
 父は軍人(陸士16期)で、その年の1月以来、台湾軍参謀として台北に赴任していた。
 私と一人の妹は、学校の関係で東京の母の実家に預けられ、そこから学校に通っていた。
 当時台湾は日本の領土であったが、今のように飛行機ではなく、神戸から船で2泊3日かかったように記憶している。
 官舎は当時書院町といって、台湾総督府(今の総督府)の筋向いに在ったが、そのすぐ近くに偕行社があって、時々そこで軍人及びその家族のために、映画会などが催(もよお)されていた。
 或る日私が父に連れられて偕行社に映画を見に行った時、隣席の台湾軍司令官を紹介された。
 それが松井大将であった。
 私は畏(かしこ)まってお辞儀をしたが、大将は軽く会釈されただけだったように記憶している。
 私の印象としては、流石に威厳のある方だナーという印象であった。
 実は私は昭和10(1935)年8月(この時は慶應医学部予科一年生であったが)にも台北を訪ね、この時も父と一緒に偕行社で映画を見たが、その時の軍司令官は寺内中将(当時、後元帥)で、中将は私と中学同窓(東京高師附中)であるということもあって、こぼれるような笑顔で私と握手して下さり、感激したことを覚えている。
 松井大将も寺内元帥も、直接お会いしたのは一度だけであるが、その印象は正に対照的であった。
 松井大将と寺内中将(当時)が交替(こうたい)されたのは昭和9(1934)年1月から8月までの8ヶ月間ということになるが、その間父は松井大将についても寺内中将(当時)についても、私共子供に対して殆(ほとん)ど何も語っていないので、父が2人の将軍に対してどのような感想を持ったか、今は知る由もない。
 唯父が後に北支の師団長として在任中、「わが半世紀」と題して書いた手記(「人に見せるものに非ず」とある)が手許にあるが、台湾軍参謀長時代を顧みて、「又軍司令官の人格に親炙(しんしゃ)して自ら修養するの機会を得」云々(うんぬん)とあるのは、主として松井大将のことを言っているのではないかと推測される。
 私自身は松井大将にお会いしたのは一度だけであるから、先に書いた印象以上のことは何も書く材料がないが、唯昭和14(1939)年から倉田百三先生の薫陶(くんとう)を受けて急速にアジア問題に開眼し、松井大将の唱えられる大アジア主義にも共感するようになった。
 当時愛読した書で印象に残っているのは、岡倉天心の「東洋の理想」や大川周明の「米英東亜侵略史」、北一輝の「支那革命外史」などである。
 大学卒業後、軍医としてインパール作戦に参加し、九死に一生を得て帰国してから偶然のことから巣鴨プリズンの医官となり、松井大将ら7人の方々は既に刑死された後であったが、A級の方々とも親しくさせて頂き、改めて松井大将ら刑死された方々の無念さをかみしめたのである。
 昭和33(1958)年に法務技官をやめてからは、かねてからライフワークと心に決めていた東洋医学の研究にかまけて、他を顧(かえり)みる暇がなかったが、漸(ようや)くに昭和62(1987)年1月、妻を伴って熱海の興亜観音にお詣りし、改めて台湾以来の疎遠(そえん)を謝し、大将の偉大さを仰いで暫(しばらく)しその場から離れられなかった。(その後もう一度お詣りしたが)
 アジアを --- 日本と中国をひっくるめて --- 本当に心から愛された松井大将のお気持ちがアジアの明日に生かされることを心から望んで筆をおくこととする。
 (市ヶ谷漢方クリニック 院長)


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