熱海市・伊豆山の美しい興亜観音さま
河内幾久江
昨年(平成9)5月18日、興亜観音へ2度目の参拝をしました。
1度目は一昨年5月、(熱海の温泉で一杯やろうかな・・・)物見遊山の不純な動機でした。
しかし昨年は<必ず参拝しよう>とかなり早い時期から決めていました。
さて、当日驚いたことがあります。
車道の入り口から御堂までの山道を、清々しい男女の若者たちが、参拝する人達の手を取り、荷を持って立ち働いていたことです。
一昨年は軍服姿の人が出席しているのを見てショックを受けていただけに、礼儀正しく、機敏に立ち働いている若者たちの姿にある種の爽やかさを覚えました。
(何処の学生さんたちかしら?)
露座の観音像は高さ約3メートル、遠く中国大陸の彼方に向けて立っておられます。
松井石根大将が、日中双方の戦没者を弔うために建立されたのだと聞きました。
観音さま(観世音菩薩)は男でも女でもありません。
この興亜観音さまも慈愛にあふれたまなざしで現世のさまざまな葛藤に苦悩する人々を導きやさしく見守っていらっしゃいます。
前後しますが、平成7(1995)年9月11日から(3泊4日)ハバロフスクに行ってきました。
「シベリア平和慰霊公苑竣工追悼式出席団」に参加させていただいたのです。
当時終戦50年の決議とやらで国会がドタバタしているのを見て無力感と嫌気がさしていた頃でした。
「お酒を手向けてきたいなぁ」衝動的にそう想ったのですね。
私は日本酒が大好きです。
愛飲しているお酒を持って行き、空港に近い日本人墓地の碑に注いできました。
アムール河につつまれた朝、ゆったりと時は流れます。
ホテルの小窓から遥か先をぼんやりと眺めていました。
大きな声で叫ぼうとしましたが、大切な言葉はあの大地の天空に呑み込まれてしまいました。
私は泣けてしょうがありませんでした。
瀬島龍三さんにお目にかかったのも当夜のレセプションの時でした。
日頃は新聞や著作等を通じて存じている遠い存在の方でしたが、同郷のゆかりから密やかに親近感に浸って話を聞いていました。
その瀬島さんも興亜観音の護持に随分とお力添えをなさっていると聞き、このようなご縁に感謝しています。
どうして興亜観音に参拝するようになったかって?
はい、それは当社で「興亜観音第2号」から会報の印刷のご用命を賜(たまわ)ったのがきっかけです。
会報の仕事を通して随分多くの事柄にぶつかりました。
ことに太平洋戦争(大東亜戦争)に関しては「教科書で教えられなかった」と嘆いても恥ずかしいことで、自身の不勉強を思い知らされています。
かつての「戦争」についてタブー視することは成熟した社会とは言えません。
何を見落としているのだろうか?
再度近代史の勉強を始めました。
今更とお笑い下さい。
私達は次の世紀へ誇りと自信を持って生きて行きたいのです。
そのためにはここを通過しない限り大いなる希望はありません。