霊験あらたか興亜観音

豪州の将校夫妻が参拝

古いアルバムを整理していたらこんな写真が出てきた。
興亜観音の休憩所前の展望台で撮った写真である。
この写真には思い出がある。

左から筆者、ウイリアム氏、同夫人、姉さん、高松通訳、前列故伊丹妙真尼

田中正明

 今から21年前の昭和52(1977)年の桜の季節、興亜観音の故伊丹妙真尼から早朝拙宅に電話があった。
 その内容は、
 <オーストラリアのウイリアムさんという軍人さんが奥様と姉さんをつれて、今から興亜観音をお参りに行くといって、横浜から電話がありました。
 この方は昨年も見えられ、私が観音さんの由緒(ゆいしょ)についてお話したのですが、もっとくわしく説明を聞きたいとおっしゃっているのです。
 田中さん来て説明してやって下さい。>
 と言う。
 そこで私は、約束の午後1時までに新幹線で熱海市伊豆山の興亜観音に駆けつけた。
 すでにウイリアムさん御夫妻と姉さんの3人は、参拝を済まして、休憩室で妙真さんとお茶を召し上がりながら雑談されていた。
 幸にウイリアムさんは横浜で女性通訳を雇い同伴されていた。
 通訳は高松正子さんといい、この道のベテランである。
 以下は通訳を通じてのお話である。

       *

 ウイリアムス・アンドリューさんは私の質問に答えるかたちで語るところによると、氏はオーストラリアの幼年学校・士官学校を卒業した青年将校(陸軍中尉)で、ニューギニアで日本軍と激しい戦いを続けた。
 その時、日本軍は"夜襲・夜襲の連続"で命知らずと思われるほどの勇敢さにおどろかされたという。
 武器・弾薬の補給も途絶えたため、ほとんど白兵戦でやってきた。
 戦後日本兵の捕虜も扱ったが、規律正しく、愛国心の旺盛なのに感心した。
 日本が敗戦して、やがて東京裁判がはじまった。
 その裁判長が豪州のウエッブ判事であった関係か、豪州のマスコミはくわしくこの裁判を報道した。
 私の日本軍との戦争体験からしても、日本軍が南京で20万人も30万人もの非戦闘員を大虐殺するなどということは信じられなかった。
 しかし松井軍司令官はその責任をとらされて絞首刑に処せられた。
 ウエッブ判事も後年、この裁判は法に準拠した正当な裁判とは言えないと述べている。
 私もそう思ったと氏は言われる。
 戦後はシドニーでタクシー会社を営み、順調に事業を伸ばしてきた。
 昨年、東京に出張した時の話である。
 ある自動車会社の重役さんと会食した。
 その重役さんは私と同じ陸軍将校で、しかも南京後略戦に参加した経験もあり、松井大将のことを知っているというのです。
 その重役さんから私は、この興亜観音の話を聞いたのです。
 松井大将は3万余の自分の部下将兵の英霊を祭祀すると同時に、敵である支那軍の戦死者も同じようにとむらい、お祭りする観音様を作ったというのです。
 私は飛びあがるほど驚きました。
 敵の将兵も味方の将兵と同じようにその英霊をねんごろにおまつりする。
 しかもその将軍は、敵側のありもせぬ大虐殺の冤罪で絞首刑になる --- こんな尊い、かなしい話が世界戦史にあるでしょうか。
 私はキリスト教徒ですが、これはキリストの教えそのままだと思う。
 私は矢も盾もたまらず、その翌日この観音堂に駆けつけたのです。
 そして妙真さんにお会いしました。

      *

 その時ウイリアムさんは妙真さんから興亜観音のお守りを頂いたというのです。
 昨年秋ウイリアムスさんは神経痛を病み難儀した。
 七転八倒しながら、このお守りを胸にあてて、観音さんを拝んだという。
 すると不思議に痛みが鎮まる。
 また発作が起こり、また鎮まる、それをくり返すうちに神経痛は約1ヶ月ほどで完治したと、今度3人してお礼拝りだというのです。
 私は松井大将はじめ七士の処刑を指揮したヘンリー・ウオーカー中将が、朝鮮戦争に出征し、雨の深夜、友軍の貨物自動車に追突されてあえない最期をとげるが、その日がなんと12月23日、3年目の同月同日、時間も同じ午前零時、松井大将ら七士が刑死した時刻であったことを話して「興亜観音さんの霊験はあらたかですヨ」と語った。
 ウイリアムさんは昭和60(1985)年春にも、3回目の参拝のためはるばるシドニーから来日しているのである。
 (興亜観音を守る会 会長)


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