"戦争責任"という名の亡国的迷信

佐藤和男

 去る8月15日、広島市の護国神社で開かれた「戦没者追悼広島県民集会」に出席し、追悼式典の後、150名の参列者を前にした記念講演で、大東亜戦争の正当性・合法性を説明し、国家には「戦争権」があったことを強調して"戦争をしたという悪事への責任"という意味での戦争責任は、法的には存在しないことを皆さんに納得していただいた。
 当日の朝、この地方の代表的ローカル新聞である2紙(中国、山陽)に目を通したが、両紙とも"731部隊の戦犯隠し"なる記事を1面のトップに掲げるほか、全体的に見て日本の"戦争責任"を問題とする論調が看取された。
 先の大戦の全体像を歪めて見るマスコミの独善的姿勢は、53年前の昭和天皇の玉音放送に一億国民が慟哭(どうこく)した事実も、交戦諸外国が毒ガスや細菌兵器の研究を行っていた --- 同種の兵器による復仇(ふっきゅう)能力を欠くと敵側の一方的使用を招く恐れがあることは、広島・長崎への原爆投下で明白である --- ことも、無視している。
 いわゆる東京裁判史観が横行した戦後の日本では、"戦争責任"の追及が左翼陣営やマスコミで恰好なテーマとされたが、これほど虚妄(きょもう)な観念は無いといえる。
 占領軍による東京裁判は「国際法に準拠して裁く」と豪語したが、それは本当に国際法に忠実に従ったものなのか。
 そうではない。
 国際法を勝手に歪曲し、濫用(らんよう)したに過ぎない。
 一般的に言えることだが、厳密に国際法の観点から見ると、"東京裁判は正しい"というものを含めて、戦後の日本社会には、あまりにも奇怪面妖で国際社会に通用しない「亡国的な迷信」が多い。
 一々詳説しないが、その種の迷信が日本国民の健全な精神を蝕んできたことは、確かである。
 "日本が侵略戦争をした"というのは最悪の迷信だ。
 第2次世界大戦の当時、各国が国際法上で「戦争権」(開戦権・交戦権)を認められていたことは、世界周知の事実である。
 しかも、戦争が自衛か侵攻(aggression,侵略は誤訳)かの判定は、各当事国の自己解釈権に委(ゆだ)ねられていた。
 日本の遂行した戦争は自衛戦争であって、犯罪などではなく、国際法上の国家の基本権の合法的行使であった。
 左翼が唱える"天皇の戦争責任"なる言葉も、法的には根拠のない空虚なものだ。
 大日本帝国憲法(明治憲法)第3条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」との規定は、公法学的に「無答責原則」を示すもので、国家元首たる天皇は「政治的責任を法的に追及されることがない」旨(むね)を意味する慣用的表現である。
 今日でも憲法で国王の神聖不可侵を謳(うた)っている外国が幾つもある。
 帝国憲法第55条は「国務各大臣ハ天皇ヲ補弼(ほひつ)シ其ノ責ニ任ス」と規定し、政治責任は閣僚ないし内閣に負わされていた。
 大東亜戦争の開戦は合法的な政策決定であった。
 国際法的にも合法だ。
 神風的意義を持つ傑作映画「プライド」の中で、東條英機元首相が天皇の責任問題をめぐって苦悩するシーンがあるが、事実ではない潤色だろう。
 東條さんは、法的に天皇に責任が無いことは先刻十分に承知していたはずだ。
 しかも国際法上、国家元首は、外国の裁判権から免除されていたのである。
 (青山学院大学名誉教授・法学博士)


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