南京事件を廻(めぐ)る陰謀と松井大将の記録

興亜観音を守る会会長 田中正明

 東亜の空に揺曳する妖怪

 マルクス共産党宣言ではないが、今や"南京大虐殺"という妖怪がアメリカ、中国を含む東半球の空に揺曳している。
 ことのはじまりは、一昨年11月アメリカで発売された「ザ・レイプ・オブ・南京」という本が爆発的な人気を呼び、たちまちベストセラーになった。
 その本の副題が「第2次世界大戦の忘れられたホロコースト(大虐殺)」でナチス・ドイツのユダヤ人大虐殺に次いでの大量殺戮が南京で行われたというのである。
 著者のアイリス・チャンは今年30歳になる中国系米国人のジャーナリストである。
 本の売れ行きと共に彼女の人気はすごく、米国の各都市で講演会やテレビ討論に引っ張り凧だといわれる。
 だがその本の内容たるやウソ八百で"白髪三千丈式"の大デタラメの羅列である。
 挿入されている24枚の写真も全部ヤラセ、偽造、捏造(ねつぞう)写真ばかりだ。
 藤岡信勝教授が主宰する自由主義史観研究会は、昨年(平成10)9月に、「アイリス・チャン反論集会」を催した。
 「「南京大虐殺」の徹底検証」の著者である亜細亜大学の東中野教授が、チャンの描く史実の誤りや、南京戦の荒唐無稽の作り話を90箇所も指摘し、さらにチャンに対して8項目にわたる公開質問状をぶっつけた。
 さらに11月には昭和史研究所の中村粲独協大学教授らを中心とする諸団体が合同して「南京を考えるシンポジウム」を九段会館で開催した。
 当時南京に入城したカメラマンや将校、評論家による実情報告と入城当時のフィルムが上映された。
 もちろんそこには"虐殺"の片鱗(へんりん)すら窺(うか)がう余地はなかった。
 だがここに注目すべき妖怪的な存在が4つある。

 その1つは、

 チャンの異常な人気に呼応する形で、米下院のウイリヤム・リピンスキー議員が、第二次世界大戦における日本軍のホロコーストを取り上げて、日本政府に謝罪と賠償を求める決議案を提出すべく準備しているという事実である。

 第二は、

 江沢民主席のあの無礼な態度である。
 江沢民は日中平和友好条約20周年記念と、6年前の天皇陛下御訪中の答礼として、国賓待遇で招待されたのである。
 苟(いや)しくも招待を受けた国を訪れ、元首の歓迎宴の席上で訪問国の行動を非難するなどという非礼は、古今東西かつて聞いた事が無い。
 「江氏が敢(あ)えてこの非礼を行ったのは、我が国を属国視しているからではないか」と拓大総長の小田村四郎先生も仰(おっしゃ)っている。
 (「自由」11年2月号)

 第三は、

 「南京大虐殺」の映画化を中国と米国が協力して作成し、国際映画市場で来年上映をめざすという。
 脚本は南京戦当時の国際安全区委員会の委員長であったドイツ人のジョン・ラーベの日記(邦訳「南京の真実」講談社)である。
 一昨年発表された「ラーベ日記」は、すでに多くの日本の識者に評論されているように、日記ではなく、戦後に伝聞や風説をもとに綴(つづ)った、反日的な「作り話」である。
 南京に残留した約20万人の市民は、全員この安全区に蝟集(いしゅう)していたが、松井軍司令官の厳命によりここには一発の重砲弾も爆撃も火災もなく、全員無事であった旨の感謝の書翰(しょかん)をラーベは日本軍に提出している。
 その20万人の人口は1ヶ月後には25万人と5万人も増加している。
 だが、そのことは日記には無い。
 日記には虐殺5、6万、強姦2万件とあるが根拠は何も示されていない。
 このようなデタラメな脚本にさらに中国流に誇大な尾鰭(おひれ)をつけて、根も葉もない"日軍大虐殺映画"が国際デビューしたら一体どういうことになるか、寒心に耐えない。

 第四の憂慮は、

 国内、しかも議会内での立法に関する動きである。
 我が国の「過去の罪悪」を徹底的に暴こうという恐るべき画策が、永田町の一部で公然と練られているのである。
 すなわち「真相究明法」と称する法律を議員立法し、国家予算を使って旧日本軍による残虐行為などの資料や証言等を発掘・調査しようというのである。
 そのための議員連盟がすでに超党派で結成されている。
 題して「恒久平和のために真相究明法の成立を目指す議員連盟」である。
 そのメンバーは自民党所属の9名、民主党49名、公明党18名、社民党17名、共産党5名等々、計100名近い衆参議院がこの連盟に参加している事実は決して見すごすことのできない危険千万な存在である。
 しかもこれが前記の中・米両国の策謀と連繋(れんけい)して進行しつつあるというのである。

 キーナン主席検事に対する意見 (昭和21年6月15日記)

 「登山で道に迷った時は、出発点まで戻れ」という箴言(しんげん)がある。
 南京攻略戦の総司令官松井石根閣下が、敗戦後巣鴨刑務所に投獄され、私はいくたびか御慰問申し上げた。
 そのたびに閣下から直筆の獄中記を頂き、今日まで秘蔵している。
 その数は合計6通でその殆どは、私が昭和60年に上梓(じょうし)した「松井石根大将の陣中日誌」の中に掲載した。
 従って重複は承知の上で、この際松井閣下の「キーナン主席検事の論告に対する意見」をあらためて再録することは徒事ではなかろう。
 (紙数の関係で断片的な紹介しかできないのは残念である。)

 A 上海事件発生の原因

 昭和12(1937)年8月以降の上海事件は、支那軍が1932年の列国間の停戦協定を無視し、上海の日本租界に接近して来り、我海軍将校に危害を加へ(編者註・大山事件)、尚我海軍守備隊に対し攻撃を加え来たるに及び遂に彼我陸海軍の間に交戦状態に陥り、我が海軍陸戦隊の微力を以ってしては到底居留民の保護に任じ能はざりしのみならず、海軍自身さへも危殆(きたい)に頻したりしを以って之を援助するため、急遽陸軍部隊を派遣したる次第にて、其開戦動機及び責任は共に支那軍に在ること確実なり。

 B 南京占領並びに占領後の事件に就て

 キーナン氏の指摘したる如く、無警告に南京を攻撃せりといふは誤りなり。
 予は南京攻撃の際特に慎重に平和裡に南京の占領を欲したるに由り、特に飛行機上より南京城を授受すべきことを申し出たり。
 特に24時間の時間を猶予したるも、支那軍は之に対し何等の回答なく(中略)遂に我軍は24時間後の12月10日攻撃実行により之を占領するに至りしなり。(中略)
 更にキーナン氏の謂ふが如き俘虜、一般人、婦女子に対し、組織的且つ残忍なる虐殺・暴行を行へりといふが如きは全くの誣妄(ぶもう)なり。
 又軍事上必要を超えたる家屋、財産の掠奪等を行へりといふが如きも全くの虚言にして、日本軍は南京の歴史的文化的都市を損傷せしめざる為め格別な措置を講じ、孫中山陵その他の重要建築物等に就ては特に保護を加へるよう命令せり、即ち各軍隊に対しあらかじめ市中の重要な建造物の所在を記入せる地図を配付し、その保護を命じた。
 事実、砲撃・爆撃により破壊せられたるもの以外、日本軍が特に是等(これら)を損傷したることなし。
 蓋し南京其他戦闘地区に於て遁亡支那軍人及び一般支那人が争って避難者の家屋に闖入(ちんにゅう)して掠奪、暴行等を行ふことは古来支那の内乱以来常習の事実にして、今回の如きも所謂損害の大部分は支那自らが因って為されたるものと判断するは、決して根拠なきことにあらざるなり。

 C 南京自治委員会の誕生

 尚南京のみならず到る所の日本軍の占領したる都市には、其地方の有力なる残存者を招致して「治安維持会」なるものを編成せしめ、日本軍と協力して地方の治安維持、避難民の招致、救済、保護等でき得る限りの努力を払い、軍自ら物資を供給して之を援助せる等、地方人民の福利民福の為め可能の限りの手段を講じたことは人の知るところなり。
 尚之等の詳細に就ては、別冊の予の回顧録において審かにした通りである。
 (偏者註・南京占領僅か3週間後の1月3日に、陶錫山を委員長とする南京自治委員会が結成された。この日市民約3千人が日の丸の旗と五色旗を振りかざし、爆竹を鳴らし、会場の鼓楼をとり囲んで大祝賀行進を行った。虐殺の都市では絶対に考えられないことである。又陶委員長は松井軍司令官の頌徳碑を建立したいと申し出たが、大将は鄭重に断っている。)

 D 俘虜及び一般市民の虐殺について

 俘虜の虐殺に就ては、予は全然かかることを聞知せしことなし、勿論上海戦以来各地戦闘に於て俘虜を得たるも、一部は軍自ら各種の労役に之を使用したるほか、上海に特設せる俘虜収容所に収容、保護を与へたり。
 但し各地とも設備不完全のため遁亡を企てたるもの少なからず、遂に其の一部が銃殺の刑に遭いたるものあれど、日本軍が自発的に俘虜を俘虜を虐殺せる事実など絶対になしと認む。
 况(いわん)や一般民衆に婦女子等に対しては、特に抗命せざる限り十分の保護宣撫を旨とせることいふまでもなき事なり。

[注]1 詳細は前掲の「松井大将陣中日誌」194貢-200貢を参照されたい。
[注]2 松井大将の手記は全文カタカナにて句読点なく、これをひらがなと通常文とした。


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