ニセ生首写真で“南京大虐殺”ねつ造
「朝日新聞」昭和59年8月4日付夕刊に掲載された“南京虐殺”の記事と写真(上写真、点線で囲まれているのが生首写真) |
「記事の再調査をした結果、朝日で報じた3枚の写真とは無関係のモノだった。
近く、「全国版」で、写真および写真に関する記述についておわびし、取り消す」
会見に応じた朝日新聞東京本社の広報担当役員、青山昌史氏は、本紙記者の質問に。てきぱきとした態度で応じたが、言葉の端々に、自社記事の非を認めざるを得ないくやしさがにじんでいた。
昭和61(1986)年1月17日、東京本社役員室でのことである。
問題となった「朝日」記事―“南京大虐殺”を証明する日記と写真が発見された―が昭和59(1984)年8月4日に報じられてより、実に1年5ヶ月ぶりに本紙の追求によってようやく朝日はニセ写真報道の「おわび記事」掲載を決定したのである。
「朝日」問題取材班に、一読者から「南京大虐殺」を報じた「朝日」記事の疑問点を指摘した資料が郵送されてきたのは、「続々・朝日新聞の「犯罪」」の連載が最後の追い込みに入った昭和60年12月14日のことであった。
その内容は、昭和59年8月南京に入城した兵士が残した日記と写真が発見され、「無差別大量殺人を物語る歴史的資料」と大々的に「朝日」が報じたが、その後の関係者の調査で「持ち主に該当する人物がいない」というものである。そんなことがはたしてあるのか?
だが、戦後「南京大虐殺」はあったと執拗に報道し続けている朝日新聞のことだ。
そういう記事を朝日の記者が書かないとも限らない。
こうして朝日の南京虐殺記事の真相究明に取り組んでいった。
実際、同報道に関して朝日には、いくつかの“前科”がある。最近の例では、昭和59(1984)年6月23日付夕刊、全国版で「南京大虐殺目撃の中山老/「語り部」記録映画に/中国での講演など記録」との見だしで報じられた記事が挙げられる。
その記事によると、東京・江戸川に住む中山重夫氏(72)が陸軍戦車隊の整備兵として、南京入城の2日前に、南京郊外の雨花台で、白旗を掲げてくる中国人を日本兵が銃剣で次々と刺し殺していく光景を4時間あまり凝視したという。
だが、評論家、田中正明氏の調べで
(1)中山氏の所属した第一戦車隊(岩仲戦車隊)は雨花台に突入していない
(2)まして中山氏は岩仲部隊の段列(輸送隊で後方勤務)であり、雨花台には行っていないはず
(3) 「南京入城2日前」の雨花台の戦闘は、大激戦が展開されている最中であり、とても白旗を掲げての大量降伏や4時間余にわたる殺害場面など想像すらできない
―と指摘した。
しかし、朝日新聞は何の回答もしなかったのである。
中山氏はすでに全国百五十ヶ所で講演を行っており、その様子は記録映画として残されていくという。
その影響は決して小さくない。
「南京大虐殺」を強引に証明しようとするあまり、虚偽の“証言”や“証拠”をニュース記事として流す過ちを、「朝日」の記者はまた犯したのであろうか。
現地で確認するため、記者(鴨野)は宮崎に飛んで関係者の取材に入った――。
問題の記事は、大阪本社版の昭和59(1984)年年8月4日付夕刊で最も詳細に報じられ、西部本社、東京本社版でも掲載された。
大阪版では、第二社会面トップで「日記と写真もあった―南京大虐殺/悲惨さ写した三枚/宮崎の元兵士/後悔の念をつづる」の見だしで写真をつけて大きく報じられ、翌日朝刊の全国版でも少し短くしてのせられた。記事を書いたのは中村大別・宮崎支局長(昭和61(1986)年1月10日付で、西部本社企画部次長に異動)。
記事は、宮崎県東臼杵郡北郷村(ひがしうすきぐんきたごうむら)出身で、南京に入城した都城(みやこのじょう)23連隊の元上等兵(当時23)=昭和49年(1974)年に腎臓病で死去=の遺品から、虐殺に直接たずさわり、苦しむ心情をつづった日記と、惨殺された中国人と見られる男性や女性の生首が転がっている写真などが見つかった、というもの。
昭和12年(1937)の元旦からおおみそかまで毎日ペンで詳細に記録されているというその日記から、中村支局長は次のくだりを引用している。
十二月十五日「・・・・近ごろ徒然なるままに罪も無い支那(中国のべっ称)人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり、木片でたたき殺したり、全く支那兵も顔負けするような惨殺を敢へて喜んでいるのが流行しだした様子。
同二十一日「今日もまた罪の無いニーヤ(中国人のことか)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。・・・まるで犬や猫を殺すくらいのものだ」
中村支局長は、これに続けて「自ら手を下したことを認めるとともに後悔の念をみせている。さらに虐殺が日常化していることもわかる」と“解説”をつけている。引用文の最後には、(いずれも明らかな誤字以外は原文のまま)という注釈まで付け加えている。
また「写真はアルバムに三枚残っていた」「撮影場所は南京城内かどうか記されていないが、生前家族に『南京虐殺の際の写真』とひそかに語っていたという」「家族の話では、生前写真を見ては思い悩んでいた時もあったという。家族は「京都で手帳が見つかったのを朝日新聞の報道で知り役に立てばと思った。
二度と戦争は起こしてほしくない」と話している」として、最後に「南京大虐殺の研究家の1人、大阪市大の広川禎秀助教授(日本現代史)は「京都で見つかった資料に比べて、悲惨さが感情をもって表現されているようだ。写真についてもこれまで出所はほとんど中国側からのもので、日本軍の兵士が持っていたことは大変貴重な資料と評価できる』と話している」とのコメントで結んでいる。
またリード文で中村支局長は「(「南京大虐殺」は)広島、長崎の原爆やアウシュビッツと並ぶ無差別大量殺人と言われながら、日本側からの証言、証拠が極端に少ない事件だが、動かぬ事実を物語る歴史的資料になるとみられる」と、“絶賛”した。
20万、30万という「南京大虐殺」は、当時の状況からどうしても不可能であるという事実を実証的に、何人もの学者、ジャーナリストが指摘しているにもかかわらず、「広島、長崎の原爆やアウシュビッツと並ぶ無差別大量殺人と言われながら」という表現を用いているところに、「南京大虐殺」を既成事実化しようとする中村支局長の意図が読み取れる。
記事を見た孫に悪人扱いされた元日本兵
だが、日記の筆者が都城23連隊の兵士と報じられたことで、同連隊の生存者で構成する連隊会(安楽秀雄会長)は、「連隊の名誉を傷つける記事」と重視、新聞報道から2週間後に対策会議を開いた。
席上、
(1)「南京虐殺」など戦時中はもちろん、終戦後においてもうわさ話すら聞かなかった
(2)南京攻略戦に従軍した西条八十、木村毅、大宅壮一氏など一流文筆家も異口同音に「見たことも、うわさ話もない」と語っていた
(3)「南京大虐殺」は中国側の一方的言い分である
――ことを確認し、事実関係の調査を行うことを決定したのであった。
同会議では、南京大虐殺をこれ見よがし報じる「朝日」の記事がどれだけの波紋を呼び、連隊会の会員に激しいショックを与えたかを物語る、ひとつの話が、ある参加者によって披露された。
彼は遊びに来た中学生の孫から「爺ちゃんたちは悪い人じゃねー」と言われたので、「何を言うか爺ちゃんたちは、み国を守るために生命を投げ出して戦った立派な者ばかりだ。
悪いことなどしておらん」と反論した。
すると、その孫はこう言って,“逆襲”したというのである。
「新聞はウソつかん」
これでは若くして散華した英霊が浮かばれない――こうした思いを胸に、連隊会の中山有良事務局長と坂元昵元23連隊大隊長が調査のために現地、北郷村を訪問したのであった。
集まった4人の戦友に、南京虐殺について、また「朝日」で報じられた日記や写真の件について質問したが、異口同音に「見たことも聞いたこともない」と言う。
そこで中山事務局長らは、この村にある3つの寺の過去帳をあたって、「朝日」が報じた昭和49(1974)年の死亡者と物故した戦友とを照らし合わせる作業に入った。
最後に訪れた恵超寺(荒木孝道住職)で、元23連隊所属の兵士の名が発見された。
河野美好氏。
しかも同氏は、腎臓病で死去したという。
年齢も合う。
「やはり「朝日」が報じた人物は実在したのか・・・」中山氏らは一瞬緊張した。
だが河野氏の未亡人、吉江さんを訪ね、日記と写真の有無を問い合わせてみて、中山氏らは驚いた。
「主人は常日ごろから日記は所持せず、カメラなどはもちろん持っておらず、写真もありません」というのだ。
12月19日、記者は北郷村に高野吉江さんを訪ね、インタビューした。
――御主人の美好さんが生前、日記をつけている姿を見たことはありましたか。
「いや、全くありません」
――戦時中、日記をつけていたということを聞いたことは?
「ありません」
――カメラは持っていましたか。
「いいえ、あればよかったのですが・・・・」
――「南京大虐殺」について聞いたことは?
「ありません」
――美好さんが、吉江さん以外の家族の人に、南京事件に関する写真か、何かを見せていたとか、話していたということは?
「ないですね」
――「朝日」の中村宮崎支局長から、取材を受けたことは?
「ない」
吉江さんは、朝日新聞を購読していない。
ただ人づてに、亡くなった主人の書いたと思われる日記、しかも南京大虐殺に関する内容が「朝日」に掲載されていると聞いて非常にショックを受けた。
だが、記事の信ぴょう性を尋ねる人もいない吉江さんは、わざわざ日向市にいる祈祷師を訪ねて、記事の真相を聞いた。
すると祈祷師は、「その記事はウソだ」という。
「それで初めて、安心しました」と、吉江さんは、その時の動揺した様子を語った。
さて連隊を構成する24中隊の代表者役員の証言からも23連隊に関する限り「南京大虐殺」はなかった、との結論に達した連隊会役員は、59年(1984)9月22日、朝日新聞社宮崎支局に中村支局長を訪ね抗議を申し入れた。
次のようなやりとりが両者の間で、行われた。
連隊会「23連隊は虐殺はやっていないと各隊の代表者が証言しているが貴社が虐殺があったと判断した根拠は、日記帳と現場を撮影したと思われる写真からか」
支局長「その通りだ」
連隊会「新聞記事によると、その当用日記は1月1日から毎日欠かさず、12月31日まで記入されているとあるが本当か」
支局長「そのとおりだ。表紙はボロボロとなっており、白い紙質は褐色に変じ、インクの色も変色して、昭和12年に記載されたものに違いないと判断した」
連隊会「支局長!!それはおかしいでないか!!戦争をしている兵隊が毎日、日記がつけられると思いますか。鉛筆書きならともかくインクで書いているとは恐れいる。現代ならいざ知らず、当時はペン書きするにはスポイトでインク瓶からインクを補充せねばならない時代だが、戦場へインク瓶を携行するとは考えられないことだし、またカメラを携行して虐殺現場を撮影したとあるが、農村の一兵士が当時カメラを購入することなど思いもよらない時代で、ましてや一兵士が戦場へカメラを持参するなどとんでもない話だ。将校でもカメラを携行した者は一人もいない。支局長のポストに就任されるだけの学識ある支局長が、日記を毎日記入してあり、かつペン書きとあるだけで、これはおかしいぞと思い、カメラ携行とあるだけでもこれは臭いとお考えにならなかった支局長ご自身の方がよほどおかしいと私たちは思うのですが!!」(支局長 応答無し)
無言のまま席を立ち、しばらくして一枚の写真を持って席に戻り
支局長「これを見てください」
だれもいない家の前の路面に生首が12個転がっている写真である。
連隊会「これが虐殺現場を撮影したと思われる写真ですか」
支局長「そのとおりです。中国人の生首です」
連隊会「これを見て支局長は即座に虐殺写真と思われたのですか」
支局長「そのとおりです」
連隊会「おかしいですねー。生首が転がっているだけでは、兵士なのか一般人なのかも分からない。
スパイを捕らえて首をはねたのかもしれない。
それなら虐殺ではありませんからねー。悪く勘ぐるなら、中国の兵隊が匪賊討伐を行った際に打ち首になった匪賊の首かもしれません。
私は元満州国の新京にいたことがあります。
その折に満州国軍が匪賊討伐を行い、匪賊を打ち首にした写真を見せられたことがありますが、その時の写真にこの写真は実によく似ています。
支局長はこれを一目見ただけで、よくまあ日本軍が中国人を虐殺した写真だと判断されましたですね。その根拠は!!」
支局長「この写真を持っていた人が、この写真を見ながら後悔していたということを聞いていましたから、テッキリ虐殺の現場写真だと」
連隊会「しかしその人は10年前に既に死んでいるんでしょう」
支局長「そうです」
連隊会「それでは直接本人から聞かれたわけでなく、その家族の方の話ではありませんか!!信用できますか」
連隊会が、全国版で歩兵23連隊は南京大虐殺に無関係との記事を出してほしい、と要請したのに対し、中村支局長は「しばらく待ってほしい」と答えた。
そして、翌年の60(1985)年2月4日、再び会談が持たれたのであった。
連隊会「今日は是非とも元歩兵第23連隊は南京大虐殺とは無関係との記事を掲載していただきたいと思い参上しました」
支局長「先般来から日記が本件のポイントだとご指摘になっておられるから今日はその日記をお目にかけます」
中村支局長は、後方の棚からナイロンの袋にいれた日記帳らしきものを手に取り連隊会の代表者のいるテーブルから5〜6メートル離れたところに立ったままナイロンの袋からその日記帳らしきものを引っ張り出して、自分の胸の高さのところで、日記帳面の真ん中くらいを広げて見せた。連隊会の役員の1人、後藤田万平氏が、いすから腰を浮かせて立ち上がり、近づこうとすると
支局長「近寄ってはいけません。書体が分かるとだれが書いたか分かりますから」
連隊会「その日記を所持していた兵士は10年前に腎臓病で死亡したとのことで、調査の結果は河野美好氏と判明しました。早速未亡人の河野吉江さんに尋ねましたところ、そんなもの持っていませんとの回答を得ましたから支局と河野さんと対決していただけませんか」
支局長「いや、その人でなく、日記は別の人から届けられたものです」
抗議から20日後の2月24日付、朝日新聞宮崎版に、小さなベタ記事がのった。「『南京大虐殺と無関係』/元都城23連隊の関係者が表明」という記事である。
だが、最近になって県外の連隊会会員から訂正記事が全国版にのっていないことを知った中山事務局長が、中村支局長に訂正記事掲載を申し入れたところ、同支局長は「2月24日付の記事は訂正ではない。記事は全く正しい」と反論したことで、両者の対立は一挙にエスカレートした。
記者は、60(1985)年12月20日、宮崎支局で中村支局長に会い、インタビューを行った。
――「朝日」で報道した日記の筆者は、故河野氏以外に該当者はいないと思われるがどうか。本当にその人物は都城23連隊の元兵士か。
「日記の持ち主はまぎれもなく元23連隊の方のものだ。その方は北郷村で昭和49(1974)年に腎臓病で死去している。河野氏以外に該当者がいる。当方とそちらの資料が違うのだろう。連隊会の調査不足でないか」
――では、昭和59(1984)年8月4日夕刊の記事には一切のフィクション、デッチあげはないというわけか。
「全くない。あの記事はすべて正しい。昭和60(1985)年2月24日の宮崎版にのった記事は、訂正記事ではない。連隊会の方から抗議があった事実を掲載したまでだ」
――取材の続き、手順は十分にふんだのか。記事を書くまでに、社内でも十分に検討したのか。
「南京虐殺については、西部本社、また東京本社などでもこの問題を専門にしている記者が、本多勝一氏をはじめかなりいる。記事掲載にあたっては、そういった記者とも相談し、十分に資料をつきあわせて書いた。フィクションやデッチあげがあるというのであれば、論理的に書簡で指摘していただければ、満足のいく回答をすることにやぶさかではない」
――日記の信ぴょう性については、コメントをしている大阪市大の広川助教授の他に、直接見せて確認をしたか。
「本州に住むある教授に見せてもらった。その人の名は、先方の了解を得られれば答えてもよい」
――日記は現在、どうなっているのか。
「日記は遺族に返した。当方にはコピーがある。遺族が名前の公表を拒否されている以上、公開はできない。私としても体を張ってニュース源を守らなくてはならない」
朝日のベテラン記者である中村支局長が、記事の真実性を強調し、逆に「連隊会の方の調査不足」とまで言い切ったことには、いささか驚きを覚えた。
彼が言うように、河野氏以外に昭和49(1974)年に腎臓病で死去した元兵士が北郷村にいるのか。連隊会の調査は十分であったか。
調査を担当した中山事務局長らは、北郷村の3つの寺にあった過去帳にあたって、河野氏以外に該当者はいなかったと判断した。が、過去帳にのらなかった人もいるのではないか。
河野氏の名前が見つかった恵超寺の荒木住職は、「もちろん、宗教が違えば過去帳に名前はのりませんよ」という。
ならば連隊会の調査は完璧とは言えない。
連隊会の協力を得て、宮崎県が発行した23連隊の復員名簿に載っていた北郷村出身者23名の動向を追った。
その結果、23名のうち死亡が判明したのは10人。内訳は戦死者2人。残り8人は昭和27(1952)年、34(1959)年、48(1973)年、49(1974)年、54(1979)年、58(1983)年、59(1984)年、60(1958)年に一人ずつ死去している。
やはり昭和49(1974)年に腎臓病で亡くなった、と「朝日」が報じた人物は、同年9月25日に死去した河野美好氏の他には存在しない。
しかも、その後の連隊会の調べで河野氏が南京事件当時はまだ召集(しょうしゅう)されずに内地にいたというのである。
「朝日」の記事は決定的に矛盾している。
虚偽の内容が伝えられている。総合的に判断して書かれたのが、昭和60(1985)年12月27日付、本紙一面トップ記事である。
「南京事件の日記発見報道/朝日支局長が“自作自演”/執筆者存在せず/戦友会が調査し判明」との見出しで、次のようなリードで報じたのである。
日中戦争中の昭和12年暮れ、日本軍が南京を占領した際に、「南京大虐殺」が行われたと戦後、報道し続けている朝日新聞は、昭和59年8月初めにも、南京に入城した兵士が残した日記と写真が見つかり、「無差別大量殺人を物語る歴史的資料」と大々的に報じたが、その後の関係者の調査で、これが全くのデタラメで「朝日」記者によるねつ造であることが判明した。
同記者は、記事の信ぴょう性を高めるために、虐殺の様子から兵士の苦悩、家人の談話までいかにもそれらしく描写し、読者のコメントまでのせるなど極めて巧妙で悪質なやり方をしていた。
朝日新聞側が謝罪、訂正記事の掲載を拒否し続けていることに対して、関係者は告訴も含めて、対応を検討している。
「朝日」記者は最近でも、祖国を捨てて命がけで脱出する難民を「出稼ぎ難民」とわい曲したり、自衛隊幹部を「お前など飛ばすのは簡単」などとどう喝するなどして社会問題化したが、今回の「ねつ造報道」も、ジャーナリストの論理から完全に逸脱した“犯罪的行為”として、波紋を呼ぼう。
真相は満州で処刑された馬賊の写真
実は、ここまで大胆に報じることができた背景には、この取材の途中で「朝日」に載っている写真の一枚が中国側出版物の一枚と同一であり、それは南京とは全く別の地域の写真である、という情報を得ていたからである。
それを翌28日付本紙は同じく一面トップで、「朝日、今度は写真悪用/南京虐殺事件をねつ造/中国の出版物に酷似/大学講師が指摘」と報じた。
記事の本題は次の通りである。
問題の写真は、朝日新聞大阪本社版の昭和59(1984)年8月4日付夕刊、第2社会面トップで、“悲惨さ写した3枚”として、日記の横に並べられた3枚のうちの一枚。
同記事を書いた中村支局長は「名刺判白黒で、一枚は人家と思われる建物の中で、12人の生首が転がっており、その中央には女性らしい顔も見られる」「撮影場所は南京城内かどうか記されていないが、生前家族に『南京虐殺の際の写真』とひそかに語っていたという」と記事の中で説明している。
この日記と写真の持ち主が存在しないことで、その出どころが疑問視されていたが、「“南京虐殺”の虚構」の著者で拓殖大学講師、田中正明氏は中国の新華出版社発行の「日本侵華図片史料集」90ページの写真のうちの1枚、と指摘する。
田中氏は、「朝日新聞記事の写真を拡大レンズで見ると、口をあけている様子や無念そうな表情、一つひとつの首の置かれている位置関係まで極めて類似しており、私は100パーセント間違いないと確信する。と語っている。
「日本侵華図片史料集」の90ページの写真には「○○凌源被○男女同胞之惨状。――采自上海文華美木図弔公」とあり、つまり遼寧省遼源で殺された男女同胞の惨状、との写真説明がつけられている。
遼寧省は旧満州の熱河省に相当する地域で南京とは明らかに違う。
また死人も、いつ、だれによって殺されたかは全く分からない。
日記と写真の持ち主が宮崎の元都城23連隊の兵士と、朝日新聞は報じたが、同連隊の生存者で結成する都城23連隊会の事務局長、中山有良氏は「写真は同一のものと確信する。
朝日新聞は“南京虐殺”があったことを視覚に訴えて確定的にしようという意図的な扱いを行ったものと考えている」と、朝日新聞の報道を厳しく批判している。
この問題について、中村支局長は、「現時点では、何も答えられない」と言葉を濁した。
朝日新聞は昭和60年6月23日付夕刊でも、昭和12(1937)年12月11日、戦車兵として、南京郊外の雨花台で白旗を掲げて来る中国人を次々に虐殺している場面を4時間にわたって凝視した、という東京・江戸川区の中山重夫氏の“虐殺証言”を紹介しているが、その後の南京戦参加者の調査で、中山氏の所属した岩仲戦車隊は雨花台には突入してはおらず、中山氏の証言が全くの虚構であったことが判明している。
朝日新聞が、このようにウソの証言や証拠まで集めて“南京大虐殺”があったことをことさらに強調する理由について、田中正明氏は、「朝日新聞がこれほどまでにして旧日本軍が“虐殺”や“犯罪”を行っていたと印象づけようとする狙いは、当時の日本軍を統率していたところの天皇陛下の戦争責任を告発する、そうした雰囲気をつくるところにあるのではないか」と指摘している。
本紙の報道をきっかけに、「週刊新潮」の記者が、宮崎に飛んで行った。中村支局長は、ニセ写真の件について尋ねられると、「中国の写真集の方がうちの記事より後に刊行された。向こうが間違っているのかもしれない」と反論、あくまで自己の報道は正しいとの姿勢を貫いたのであった。
だが、虚偽は永くは続かなかった。
問題の写真と同一のものが昭和6(1931)年、当時の朝鮮で売られていたことが日中戦争に参戦した元兵士の証言で明らかになったのである。
本紙昭和61(1986)年1月13日付け一面トップは、「朝日の南京虐殺ニセ写真/事件以前から市販/旧日本兵が購入・保管/説明文に『鉄嶺で銃殺』/中国の出版物も誤用」との見出しで、次のように報じた。
現在の北朝鮮、会寧で買った「馬賊の首」の写真を手にする佐藤進氏=昭和61(1986)年1月12日午後、藤沢市の自宅で(上写真) |
この写真の持ち主は、神奈川県藤沢市天神町に住む建築業、佐藤進氏(74)。
佐藤氏は昭和6(1931)年10月、当時の朝鮮と中国の国境に位置する会寧の工兵19大隊に入隊し、歩兵75連隊とともに国境警備にあたった。
佐藤氏によれば、同年末から翌年にかけて、この会寧にある文房具兼写真屋で、約10枚買った写真の1枚が、「朝日新聞」昭和59(1984)年8月4日付夕刊の“南京大虐殺”報道に用いられた写真の一枚と同じものという。白黒でタテ9.7センチ、ヨコ13.5センチの大きさである。
佐藤氏は「写真はせいぜい1枚5銭だった。ちょっと変わっている写真だったので買った。
同年配の兵隊仲間ならこの写真を持っている人もいるでしょう」と語る。写真の上部には、「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」との文字が刷り込まれている。
鉄嶺とは、遼寧省内の瀋陽の隣の都市。
佐藤氏は、「写真の撮影は昭和4、5(1929-30)年の頃かと思われるが、当時の中国東北地方は張学良が掌握していた。彼らの配下の者が中国人の匪賊(ひぞく)を一般人への見せしめとして切ったものと考えられる。
首を切り落とせるのは中国人の持っていた青龍刀であり、日本の兵隊の持っている銃剣では無理です」という。
また佐藤氏は日支事変のぼっ発で、召集され、工兵13連隊の兵士として中国の江蔭、南京、蒙城、徐州、武漢、宣昌などを回ったが、「入城時にはすでに敵兵は逃げていない。住民もわずかに老人が少し残っているのみ。
捕虜を大量に虐殺することなんかできない。
朝日新聞は誤報を訂正していただきたい」と要望する。
朝日新聞の中村支局長(当時)はこの写真について「名刺判」の大きさと記事で書いていることから、縮小した写真を入手したものと思われる。
だが中村支局長は十分な吟味も行わずに、“南京大虐殺の証拠写真”と決めつけて悪用、「撮影場所は南京城内かどうか記されていないが、生前家族に「南京虐殺の際の写真」とひそかに語っていたという」と、きわめて巧妙な表現を用いて読者を欺(あざむ)いている。
さらにこの写真は中国の新華出版社が「日本侵華図片史料集」の90ページに掲載、「遼寧省凌源で殺された男女同胞の惨状」との写真説明をつけ、誤って用いている。
同書には佐藤氏が会寧で買った、馬賊の首の写真も掲載されているが、それもまた「日本侵略軍はわが国の人民を殺したあと、その首を電柱にぶら下げた」写真として用うるなど全く杜撰(ずさん)な編集内容であることも判明した。
写真帳にある「馬賊の首」写真を拡大したもの。「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」と書かれている。 |
中村支局長は、日記と写真の持ち主が元都城23連隊の兵士と報じたが、同連隊の生存者で構成する都城23連隊の事務局長、中山有良氏は「この写真は昭和16(1941)年、中国の新京(現在の長春)で同級生の三好秀吉副官の兵舎で見たものと同じであり、かなり広範囲に出回っていたと思われる。記事のデタラメぶりがさらに一層明らかになった以上、朝日新聞に対してはどうしても謝罪と記事の取り消しを求める考えである」と、対決姿勢を強めている。
すでに「南京虐殺」記事はデタラメと報じて、この時点で2週間が過ぎていた。
朝日新聞社から、わが社に対する抗議は一度もなく、「自らの虐殺を認めたものと考えられる」とも書いた。
しかし、水面下では、朝日新聞社は積極的に動いていたのである。
朝日新聞西部本社の宮本隆偉・通信部次長が再三にわたって、連隊会の中山事務局長に接触をはかろうと面会の申し込みを行っていた。
先の藤沢市に住む佐藤進氏宅にも、本紙の記事が載った13日に2度も、朝日新聞社会部の女性記者が、「写真を見せて欲しい」と電話を入れてきている。
これは、ともに断られているのであるが。
朝日新聞本社ははたして、今回の虐殺報道について、本紙の報道を黙殺する態度なのであろうか。
反論できないのか。間違っているなら、その非を認めるべきではないか。
誤用認め全国版で「おわび記事」
そのあたりをどうしても聞いてみたいと、1月16日午後、朝日新聞東京本社の広報担当、青山昌史氏に聞いてみた。この時、青山氏は不在で、こちらは名を伝えるのみで、用件までは語らなかった。
しかし、夕方、秘書から電話が入り、「明日、午後2時に本社でお会いしたいとのことです」との返事が入った。
青山氏はすでに、こちらの用件を察知していたのであろう。
翌17日午後、朝日新聞役員室に青山氏を訪ねると、彼はおもむろに、「そちらが質問することに、私がお答えする形で進めましょう」と切り出した。すでに、朝日新聞の態度は固まっているな、と感じた。用意した質問を、順番に行った。
――宮崎前支局長の中村氏は、「世界日報」の記事を非難しながらも、肝心の日記、写真の信ぴょう性については何も答えることができない。
ただ「東京の広報に聞いてくれ」と言っている。
すでに半月もたち、調査をなされたと思うので結果を聞きたい。
「記事の再調査を行った。先(昭和59(1984)年8月4日付記事)の取材にタッチしていないわが社の者が担当し、日記の筆者の関係者、遺族にもあった。
詳細かつ慎重に調査した。
写真については、朝日新聞北京支局に調査依頼をした。
その結果はまず、日記については間違い無く現存している。
それはわが社で保管している。
しかし、写真については南京のものではない。
16日、北京支局より返事があった。
本紙で報道した3枚の写真いずれもが、戦後、上海で発行された『東北巨変血泪大画史』に収録されていた。
撮影の月日、撮影者はわからなかったが、場所は東北地方の凌源となっている。
このため近く、『全国版』で、写真および写真に関する記述についてはおわびし、取り消す」
――なぜ、このような間違いが起きたのか。
「担当記者(中村氏)が、写真提供者が、ただ『写真は当時のもの』としかわからないのに、南京虐殺のものと決め付けたようだ。取材のワキが甘かった」
――そのような問題の写真と一緒にあった日記が間違い無く、正しいと言えるのか。
「日記に関する記述は全て正しい」
そう答えて、青山氏は「朝日新聞」で報じた惨殺のくだりの部分をコピーで記者に示した。
日記には個人の名前も記されており、それがわかると日記の筆者もわかってしまい、取材源を秘匿できなくなる、という。
青山氏とのインタビューは1時間ほどで終わった。
18日付本紙は、この内容を「朝日、誤用認める/南京虐殺ニセ写真/全国版で近く訂正」との見出しで報じた。
この記事では深くふれなかったが、ニセ写真も悪質ではあるが、それ以上に巧妙でタチが悪いのが、写真に関するくだりである。
「撮影場所は南京城内かどうか記されていないが、生前家族に『南京虐殺の際の写真』とひそかに語っていたという」
「家族の話では、生前写真を見ては思い悩んでいる時もあったという。
家族は『京都で手帳が見つかったのを朝日新聞の報道で知り役立てばと思った。
二度と戦争は起こしてほしくない』と話している」
結局、この部分は全くの“自作自演”ということになるのではないか。
日記と写真の提供者が実在していても、その人物は写真が、南京攻略のものであるとは思っていなかった。
そのような人が、「南京大虐殺」事件の模様を克明に記録した日本兵士の手帳が京都で見つかった、というニュースが7月28日付「朝日新聞」に掲載されるや、せきたてられたかのように、「役に立てば」と、中村支局長に持ってきたというのか。
手帳発見の報道が7月28日付で、中村支局長の記事が8月4日夕刊。この間、7日間しかない。
わずか1週間で、日記がまぎれもなく昭和12年当時に、南京攻略戦に参戦した兵士のものに間違いないと判断、専門家に見てもらい、コメントをとったというわけになるが、どうも、話しが「うますぎる」気がしてならない。
さて、「朝日」、誤用認める」との本紙の記事が掲載された18日午後2時半から、宮崎市内の中華料理屋「四海楼」では、都城23連隊会の代議員大会が開かれている。
冒頭、あいさつに立った安楽会長は「朝日新聞」の“南京虐殺”報道にふれて、「徹底的に究明していきたい」と決意を述べた。
中山有良事務局長の経過報告が行われた後、朝日新聞社に対する謝罪、記事取り消し要求の件について協議。その結果、「“南京虐殺”の日記と写真は誤りでありましたので、23連隊の名誉を傷つけたことを深くおわびし、記事訂正を行い、23連隊は“南京虐殺”に無関係なことをお知らせします」との内容の謝罪記事を、1月中に、朝日新聞の「全国版」「地方版」におのおの報道したのと同じ大きさで掲載することを満場一致で決議した。
そしてもし、朝日新聞社側がこの要求を受け入れなければ
(1)宮崎県内での朝日新聞不買運動を起こす
(2)あらゆる報道機関にこの問題についてアピールしていく
(3)告訴に踏み切る―の3点を決めたのであった。
この日の決議を受けて、昭和61(1986)年1月21日付で都城23連隊会会長、安楽秀雄氏と事務局長、中山有良氏の連名で、内容証明、配達証明で朝日新聞社東京本社の一柳東一郎社長にあてられた「記事取消と謝罪に関する件」の内容は次のようなものであった(原文のまま)。
拝啓 陳者(のぶれば)昭和五十九年八月四日、五日貴紙地方版・全国版にて元歩兵第二十三連隊が南京に於いて虐殺を行った事を綴った日記と寫真が見付かり兎角(とかく)その有無が論議されている南京大虐殺は正(まさ)しく実在した事を物語る歴史的資料であるときめつけられた。 元歩兵第二十三連隊の生存者約二千名で結成された都城二十三連隊会にとっては全く身に覚えのない濡れ衣であり早速連隊会を構成する二十四の部隊に綿密なる調査を命じたところ右報道は全く事実無根の虚偽の報道であることが判明した。 依(よって)而昭和六十年二月八日文書をもって抗議、右抗議は受け入れられて同年二月二十四日の貴紙地方版に元歩兵第二十三連隊は南京大虐殺とは無関係の旨報道され本件はこれにて終息したかに見えた。 然る処、県外在住の戦友より全国版の何月何日に掲載されたかの問合せがあり、為に同年十二月二十日、貴社宮崎支局に出頭して尋ねた処、意外にも全国版に掲載の約束なしと反撥された背信行為に日本を代表する一流新聞社なるが故に怒りを殊更に覚え☆(ここ)に改めて左記に依り記事取消と謝罪を要求する次第である。 敬具 記 一、記事取消と謝罪は昭和六十一年一月末日までに貴紙全国版、地方版に掲載すること 一、南京大虐殺と元歩兵第二十三連隊とは無関係の旨を表明すること 一、今回の誤報に依り宮崎県民並びに元歩兵第二十三連隊そして朝日新聞社に迷惑をかけた担当記者の責任を追及されたいこと 一、前条につき拒否されたる場合は宮崎県民一丸となりこの貴紙不買運動を展開すると共に刑法230条に基づく告訴をする事を念の為に申し添う。 以上 (ルビは、世界日報社げ記入) |
この連隊会の抗議文送付に一日遅れて、朝日新聞社は22日付朝刊の全国版で「おわび記事」を出した。二十三日付本紙は、「『朝日』謝罪納得できぬ/“南京虐殺”報道/戦友会が記事取り消し要求/『日記の原文見せよ』」との見だしで、次のように報じた。
「おわび記事は、中村支局長の“南京虐殺”記事を再調査した結果、「日記は現存しますが、記事で触れている写真3枚については南京事件当時のものではないことがわかりました。記事のうち、写真に関する記述は、おわびして取り消します」という内容。
特に写真3枚と日記の写真を掲載した「大阪版」では、これに加えて、「写真のうちに昭和9年1月、上海文革美術図書公司から発行された『東北巨変血泪大画史』に収録されたものがあり、撮影場所は中国東北地方の凌源としている」といった説明も加えるという、異例の扱いで出した。
疑問残る「写真はウソだが日記はホント」の弁
だが、日記の持ち主の所属していた都城23連隊の生存者で構成する連隊会(安楽秀雄会長)は朝日新聞社に対して、
(1)南京大虐殺と、23連隊とは無関係との表明
(2)23連隊および宮崎県民の名誉を汚されたことへの謝罪
(3)担当記者の責任追及
――等を要求、これを受け入れない場合は、宮崎県下での朝日新聞不買運動と告訴に訴える、としている。
連隊会の安楽会長は、おわび記事について「これでは子供だましではないか。“おわび”とは考えていない。私たちは、写真よりも日記について謝罪をしてほしい。私たちの抗議にも中村支局長は数メートル離れてしか見せてくれなかった。そんな日記が本物と言われてもとても納得できない」と言う。
事務局長の中山有良氏もまた「日記の原本を朝日新聞が保管しているからには、それを見ない以上、納得しない」とあくまで真相を究明する姿勢を崩していない。
中山事務局長の話によれば、朝日新聞西部本社の宮本通信部次長から、21日夕、22日夜の2度、「おわび記事」の内容について中山氏に電話で説明し、「これでかんべんしてほしい」と伝えてきたが、中山氏は「承知できない」と突っぱねたという。
東京本社の広報担当、青山昌史氏は、日記の原本が西部本社に保管されていると述べており、連隊会ではそれを見て納得のいかない限り、朝日新聞への抗議は、一歩も譲れない、としている。
1月25日午後、都城23連隊会役員会は朝日新聞宮崎支局で朝日新聞西部本社通信部次長らと4時間近く会談した。
会談には、連隊会側から中山有良・事務局長をはじめ役員5人が出席、朝日側は西部本社の宮本隆偉、稲垣忠両通信部次長と金丸嵩・宮崎支局長が出席した。
席上、宮本次長は連隊会が21日に内容証明で送付した一柳東一郎東京本社社長あての抗議文について触れ、「検討の結果、さきの『おわび記事』以上の要求には朝日としては応じることはできない」「日記に関して事実無根の虚偽であると抗議されているが、私どもに言わせると逆に事実無根の抗議である」と突っぱねた。
これに対して連隊会側は、西部本社版の「おわび記事」にあった、「この日記は、南京に入城した宮崎県出身の兵士(当時上等兵・故人)の戦記で、なかに虐殺の様子や心情もつづっています」というくだりに言及、「おわび」に名をかりて逆に南京虐殺を宣伝する記事になっていて納得できない、と反論した。
そして、連隊会側は写真の誤り以上に、「南京虐殺と23連隊は無関係であることを全国版で表明してほしい」と要求した。
朝日側は、「歩兵23連隊の兵士の日記に虐殺の記述があると記載しただけで、23連隊が南京虐殺をやったとか虐殺に手をかしたとは一言も言っていない」と釈明したが、連隊会は会員からの抗議が事務局あてに相次いだことを挙げ、「読者は23連隊が虐殺をしたと判断する」と重ねて反論した。
朝日側は、この場では問題の日記については見せることを拒否したが、連隊会が指示した日付の部分を読みあげている。しかし、日記に他の師団についての動向が書いてあるなど、連隊会出席者は日記の信ぴょう性について納得せず、「国会で、朝日の報道が正しいか、われわれの主張が正しいか、白黒つけよう」と迫った。
連隊会は26日午後、宮崎市内で役員会を開催、18日に決議した代議員会の抗議事項を尊重し、あくまで朝日新聞に対して謝罪を要求することを確認したのであった。
連隊会は、他の要求はともかく「南京虐殺と23連隊は無関係である」との表明を、朝日新聞社に求めている。
異例の「おわび記事」を出した。「朝日」が1つの記事で、2度、「おわび記事」を出すということなど、常識的には考えられない。あくまで、突っぱねていく姿勢が予想される。連隊会には、今後、根気強い戦いが強いられよう。今後のなりゆきをじっと見続けていきたい。
朝日新聞は、テレビ朝日のやらせリンチ事件、豊田商事会長刺殺事件、ロス“疑惑”報道などでマスコミ倫理が厳しく問われた昭和60(1985)年の新聞週間の初日にあたる10月14日付の一面に富森編集局長の「新聞週間にあたって」と題する記事を書いている。朝日新聞の記者はその結論を思い出していただきたい。そこで富森氏は次のように述べている。
メディアも、報道の自由を乱用して受け手の側の知りたい関心にこたえることだけに腐心していると、自ら墓穴を掘ることになる。新聞もテレビも記事や番組の審査機構を内部に持っているのだから、とりあえずはその機能を強化して、批判に対応することが必要であろう。中でも新聞は、読者との太い信頼関係があって、はじめて民主社会での役割を果たすことが出来る。この点で一層の努力が必要と考える。(世界日報「朝日」問題取材班『朝日新聞の「犯罪」誰がために情報は操作される』より)
この話は今から十年前のことである。
南京攻略と同時に入城して取材にあたった朝日新聞の足立和雄記者に、評論家の阿羅健一氏が電話で面接を申し込んだ。すると、足立氏はこういったという。
「南京大虐殺とおっしゃっていますが、私は大虐殺なんか見ていません。あなたがどの様な立場の人か知りませんが、大虐殺の証言はできません」と最初断られたそうである。だが、ようやく了解を得て、お宅に伺った阿羅氏は「しかし、足立さんがいらっしゃった朝日新聞では本多勝一記者が南京大虐殺があったと主張しているし、社会面でもよくとりあげていますが・・・・・。」と切り出した。すると足立氏は、「非常に残念だ。先日も朝日新聞社の役員に会うことがあったのでそのことを言ったんだが、大虐殺などなかったことをね。」さらに足立氏は語を継いで、「朝日新聞には親中共(中国共産党)・反台湾、親北朝・反韓国という風潮がある。本多君一人だけじゃなく、社会部にそういう気運がある。だからああいう紙面になる。」(阿羅健一著『聞き書南京事件』127貢)これは何も朝日新聞だけじゃなくて、産経新聞を除く日本のテレビ局を含むマスコミ全般の風潮である。 阿羅氏によれば、87年の段階で、軍の参謀、師団の参謀など軍関係者だけで150人、報道関係者300人、外交関係者20人など、当時(占領直後)南京にいた約500人の人たちから、直接南京の様子を聞
けば、当時の本当の南京の様子が浮かんでくるのではなかろうか−−−というので、氏はこの中の67人と連絡を取り、情報を得、さらに35人には1人3回づつ面接をして取材し、本人の校閲をうけて出版したのがこの『聞き書南京事件』である。
朝日では足立記者の他に、朝日の南京支局長を務めた橋本登美三郎氏に面接してインタビューしている。橋本氏は朝日新聞社から派遣された50人近い記者や連絡員を統率して南京に入城し、支局を開設した支局長である。阿羅氏の、−−−−−「南京では大虐殺があったといわれていますが、南京の様子はどうでしたか?」の問いに、橋本氏はこう答えている。
「南京での事件ねぇ。私は全然聞いていない。もしあれば記者の間で話に出てくるはずだ。記者は少しでも話題になりそうなことを話をするし、それが仕事だからね。噂としても聞いたことがない。朝日新聞では現地で座談会もやっていたが、あったのなら、露骨でないにしても、抵抗があったとか、そんな話がでるはずだ。南京事件はなかったんだろう」(前掲同著132〜3貢)
橋本登美三郎といえば、佐藤内閣で官房長官、田中内閣で自民党の幹事長をつとめた実力者で、決してウソをつくような仁ではない。年月日は忘れたが、細川隆元氏が小浜利得氏とのテレビ対談でこう述べていたことを思い出す。
「わしが朝日新聞の編集長のとき、南京攻略戦に参加した記者やカメラマン全部を集めて、大虐殺のことを聞いたことがある。だが、誰一人として、見たことも聞いたこともありませんと、はっきり答えおった。大虐殺などありゃしないよ、デマだよ。」と大笑いしていた。
その証拠は、私が3年前に上梓した『朝日新聞が報道“平和甦る南京”の写真特集』である。南京に占領と同時に入城した約20名の朝日の記者・カメラマンは、入城の12月13日から12月30日まで、3週間たらずの間に、4面にわたって『平和甦る南京』の状況を、半ページ大のスペースに組写真にして占領での南京を紹介している。
その第1面は、占領5日目の写真特集で、題して『平和甦る南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》』である。この中には、早くも夜店が出て(1)「兵隊さんの買い物」姿がでており、(2)「皇軍入城に安堵して城外の畑を耕す農民たち」の姿が写されている。さらに早くも城外にいた(3)「避難民の群が続々と帰って来る風景」。さらに(4)「和やかな街頭床屋さん風景」。が写しだされている。(河村特派員撮影)
第2の写真特集は、占領8日目に撮った『きのふの敵に温情《南京城内の親善風景》』というタイトルである。写真説明は(1)は「治療を受けている支那負傷兵」で、捕虜虐殺どころか、日本の軍医が彼らを診療している写真だ。(2)は「皇軍将兵の様に食欲を満たす投降兵」である。日本兵が食糧を配給している写真だ。(3)は「兵隊と市民との親善風景」、(4)「手製の日の丸の腕章をつけた市民」たちの姿である。(河村特派員撮影)
写真特集その3は、題して『南京は微笑む《城内点描》』である。(1)は「玩具の戦車で子供達と遊ぶ兵隊さん」であり、(2)は「壊れた馬車で遊んでいる子供たち」(3)は「子供たちを診療している日本軍の衛生兵」、(4)は「支那人教会の庭から洩れる賛美歌」と題する約50人ほどのうら若い女性たちがオルガンの前で歌っている写真である。(林特派員撮影)
写真特集その4は、題して『手を握り合って越年《日に深む南京の日支親善》』である。(昭和12年12月30日の新聞掲載)写真説明の(1)は「兵隊さんお正月に靴の修繕いたしませう」と支那人の靴屋が大繁盛している風景、(2)は「サァおっぱいが足らなきゃミルクをお上がり」とヒゲの隊長が中国婦人にミルクを差し出している。(3)は「新しいガーゼをとりかえていいお正月を迎えませう」と日本軍の軍医達が支那兵捕虜の包帯をとり変えている風景だ。(林特派員撮影) 朝日新聞写真特集へ
いったい朝日新聞のこれらの写真が物語る風景のなかに、どうして30万の大虐殺、強姦2万件、6週間にわたる放火・略奪・暴虐の地獄図など想像できようか。まさしく前述の朝日の足立記者や、橋本南京支局長や、細川隆元編集長の言うごとく、「大虐殺など見たことも聞いたこともない、“でっちあげのデマ宣伝”だ。」というのが実話なのである。ことに占領してちょうど3週間目の1月3日に、陶錫山を委員長とする「南京自法治委員」が誕生したというので、3千の市民が日章旗と5色旗を振りかざし旗行列をしている写真まである。虐殺の街では絶対に考えられないことだ。
まことに奇妙なことに、その朝日が、大虐殺はあった、あったと、マスコミの先頭に立ってはやしたてはじめたのである。雑誌「正論」に『朝日新聞の戦後責任』を連載している評論家の片岡正巳氏によると、昭和45年の3月から4月にかけて、自社の株主総会をほったらかして、広岡知男社長は、中国に飛んだ。そして約1ヶ月間、中共政府の熱烈歓迎をうけた。この時から朝日の編集方針は一変したのである。「日中復交促進」を社論にかかげて、何もかも中国共産党政府の意向や言い分を正論として、日本国民に伝達することを使命とする「中国一辺倒の新聞に変身」したのである。社論だけではない。朝日の事業部は、日中卓球親善試合の開催、中国出土文物展の主催、上海舞劇団の公演など、矢継ぎ早に中国文化を紹介した。さらに東京本社編集局長後藤基雄を訪中せしめて、朝日の編集や紙面構成についてまでも談合したという。つまり社をあげて中共の政策にのめり込んだのである。本多勝一記者が中国に渡り、言論統制きびしい共産党の“語り部”(宣伝マン)とみられる人間から大デタラメの作り話を聞かされ、ありもせぬ大虐殺や、万人抗の凄惨きわまりない、日本軍軍民が犯した残虐
物語を無批判に、検証もせず、ウラもとらず、そのまま綴ったのが『中国の旅』である。 史実とも照合せず、日本側の意見も徴せず、無責任極まる『中国の旅』が発刊されたのは昭和46年であるが、これがさらに、朝日新聞にかこみ記事で、史実として大々的に連載されたため、日本国民に与えた影響は甚大なものがあった。 「南京大虐殺事件」なるものは、東京裁判で初めて知らされた事件である。それまでは日本国民は“噂”にすら聞いてもいなかった。南京城の面積は東京都世田谷区よりも矮小である。(約40平方キロ)そこへ外国人記者5人を含む130人ほどの記者・カメラマンが入城して取材にあたった。そのうえ西条八十、草野心平、大宅壮一、野依秀市、石川達三、林芙美子といった著名な詩人・評論家・作家等も入城し、視察している。そのうちの誰ひとりとして、大虐殺など見ていないし、聞いてもいないのである。従って死体の山も血の河も、非戦闘員を殺害している場面の写真なども一枚もない。松井大将は上海に帰って2回、外人記者団と会見しているが、その席でさえ、虐殺に関する質問など受けていないのである。 東京裁判は勝者が敗者に対する一方的な復讐裁判だ。
日本国民は初めて聞く南京虐殺の件に驚愕したものの、日時とともにその印象も薄れかけていた。しかし、改めて『中国の旅』が朝日に連載されるに及んで、国民は愕然とした。なぜならそれは、日本の新聞記者による現地報道だからである。 南京大虐殺事件が初めて中学の歴史教科書に登場したのは、昭和50年の春から使用する教科書である。それは、おそらく、朝日をあげてこの虐殺キャンペーンの影響と思われる。文部省の検定官は、驚き、「戦乱にまぎれて・・・」事件が起きたと修正意見を付した。 それが57年の「侵略」を「進出」に訂正したという誤報を、時の宮沢官房長官が、誤報にもかかわらず中国に謝罪して以後、どの教科書にも「20万、30万」という誇大な虐殺数を列記するようになり、「戦乱にまぎれて・・・」も消えてしまったことはご存じの通りである。朝日は本多記者を中心に社内に「南京事件調査研究所」を設け、大虐殺派の洞富雄元早大教授を顧問に、藤原彰、笠原十九司、吉田裕といった反日・虐殺派の学者を集め、もっぱら南京に大虐殺があったとする出版や寄稿を重ね、さらに虐殺の資料の発表や証言の収集につとめた。 かくして朝日をトップに、日本
のマスコミ全体が、南京に大虐殺があったとする風潮が支配的となった。(ただし産経新聞だけは正論を曲げないため、いまだに北京駐在から外されており、例外である)朝日は度が過ぎて、宮崎の歩兵第23連隊戦友会から訴えられた。それはウソの陣中日誌や満州馬賊の生首の写真までかかげて、大虐殺の証拠だと大きく報道したためである。朝日は訴訟に敗れ、謝罪訂正を余儀なくされている。また毒ガスのニセ写真などもバレて謝罪している。 昭和60年8月、中共は抗日戦争勝利40周年を記念して南京に「侵略日軍南京大虐殺遇難同胞記念館」を建設していたが、何とその企画を持ち込んだのは日本社会党(現在の社民党)某実力者であり、その資金は総評(現在の連合)がまかなったといわれている。 前述の朝日の「南京事件調査研究所」のメンバーも、記念館建設の前後に南京を訪問して熱烈歓迎を受けている。本多、洞、藤原氏ら12人による『南京大虐殺の現場へ』の著書が朝日から出版されている。館内に飾られた写真その他の資料は日本から持ち出されたとみえて、館内で販売される資料集は、なぜか当分、日本人には売らないことになっていたという。
南京大虐殺の最大のプロパガンダとして登場した本多記者の『中国の旅』の一角が完全に崩壊する日がきた。 『中国の旅』の中には撫順炭鉱での虐殺事件も出てくる。満州最大の炭坑であった撫順炭鉱には万人抗が30ヶ所もある。1ヶ所1万人づつ埋めたとして、日本人は中国労働者を30万人も虐殺したというのである。やはり『中国の旅』の影響でこのことは高校の教科書にも出てくる。 以下は「正論」2月号の田辺敏雄氏『「平頂山事件」「万人抗」にみる教科書と報道の不誠実』から引用させていただいた。 《「多くの中国人労働者が粗末な宿舎と食事をあたえられて酷使され、日本人経営者の一部の鉱山などでは、死んだ中国人労働者の遺体をすてる『万人抗』がつくられた」(三省堂『高校日本史』) 「指導のポイント」には、ほぼ1ページにわたって『中国の旅』の引用がある。その一部を抜き出すと、「(通りかかった隊列の日本兵2、3人が)赤ん坊を抱いた母を見つけると、引きずり出して、その場で強姦しようとした。母は赤子を抱きしめて抵抗した。怒った日本兵は、赤ん坊を母の手からむしりとると、その場で地面いっぱいにたたきつけた。赤子は声も出ずに即
死した。半狂乱になった母親が、我が子を地面から抱き上げようと腰をかがめた瞬間、日本兵は母をうしろから撃った。・・・」 そして、説明文の中には「中国での日本軍の残虐行為は本多勝一著『中国の旅』『中国の日本軍』が必読文献。ことに後者の写真は良い教材になる、」と書かれている。 『中国の日本軍』は『中国の旅』の日本版である。万人抗に関するものだけでも、白骨化した人骨の写真などが30ページ以上にわたっている。万人抗記述が教科書になくても、「必読文献」という以上、教師はこれらを読み、生徒に教えることになる。 田辺敏雄氏は昭和51年頃から『中国の旅』など中国における旧日本軍・民の残虐事件に疑問をもち、撫順炭鉱や満州鉱業の元社員約200名を対象に取材した。いくたびも座談会や研究会も開き、あるいは産経記者と共に現地の踏査にも行った。その結果、撫順炭鉱に万人抗などというものは1つもない、見たことも聞いたこともない、と関係者たちは異口同音に言う。まして病人や働けなくなった中国人鉱夫を生きながら穴埋めにするような残酷な行為など、断じてあり得ないと誰もが言い切る。 田辺氏はそれからの聞き書きや、座談会での記
録や、現地調査の報告書を雑誌正論や産経新聞に投稿した。そして朝日新聞にも抗議した。朝日新聞は「改めて調査をします」とまで約束したという。だが、調査した痕跡は皆無である。 著者の本多記者に対して、「撫順炭鉱の万人抗記述などは、全くの虚妄だ。取り消して欲しい」と抗議すると、なんと氏はこう放言した。 「私は中国人の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やって欲しい」と。 何という無責任きわまる夜郎自大ぶりか。朝日新聞ともあろう全国紙が、「白髪三千丈式」の誇大妄言をならびたてる中国の宣伝屋のプロパガンダを、そのまま1ヶ月以上も連載して、ありもせぬ大虐殺を煽るとは何事か。田辺敏雄氏は『朝日に貶められた現代史』という著書を上梓してこのことをくわしくのべている。
朝日は中国の言う「30万大虐殺」を信奉してきた。本多記者ごときは、「南京大虐殺というのは、何も南京における虐殺だけを指すのではなく、日本軍は杭州湾上陸時から虐殺をやっており、場所と時期も広げて考えるべきだ」などと詭弁を弄してまで、30万大虐殺を擁護してきた。かつて石原慎太郎氏が米紙プレイボーイ(平成2年11月号)に「南京大虐殺は中国人の作り話だ」と発言した内容の論文がのった。その影響は大きく、これに憤慨した在米華僑が、ニューヨークタイムズに1貢大の意見広告を出して「30万大虐殺」を強調した。ところが朝日は、それから1週間後の平成3年1月3日付けの社説で、「石原氏の発言は、歴史を無視した暴論であることは明らかだ」と華僑の意見広告を支持した。つまり朝日新聞社自体が初めて南京事件に対する見解を社説で明らかにしたのである。 そこで南京事件に関心をもつ多くの識者から、朝日は中国のいう「30万大虐殺の証拠を示せ」という投書が寄せられた。その1人、野村吾朗氏(富山の歩兵第35連隊の大隊本部付書記・軍曹)に対し、前述の社説の筆者(論説委員)から回答があった。2月2日付けで、要約すると、「30万とい
う数字が正しいとは思いません。『窓』で紹介した中公新書『南京事件』の見方が、現時点では妥当ではないかと考えます」というのである。 この著者というのは秦郁彦著で、秦氏は「虐殺は4万ていど」と述べている。筆者はこの著書を精読したが、推測やねつ造も多く、マスコミの虐殺風潮に媚びた文章である。 朝日は、石原氏が「論壇」に投稿したいと申し入れた際、ごう慢にもこれを断っている。多くの読者の質問にも「南京に30万の大虐殺があったか否かに付いての御質問には答える立場にない」と突っぱねてきた。だが朝日が「秦氏の4万説」を支持したことは、結果的には石原氏の言う「南京の30万虐殺は中国の作り話である」を認めたことになる。朝日は言論の自由さえないマルクス・レーニン主義の論理と価値観をもつソ連・中共にのめり込んで、そのいいなりになり、今なお自国の過去を侵略国だったとする史観で、反日主義をふりまいて正義ぶる。罪深い過去の反省など爪の垢ほどもない。恐ろしい新聞である。
最近の「朝日新聞」は気でも狂ったのではないかと思われるほど、中国大陸における旧日本軍の“罪悪”バクロに惜しげもなく紙面を割いて誇大なキャンペーンを展開している。いま私の手元にあるスクラップ・ブックを一瞥しただけでも、その“反日キャンペーン”がいかに気狂いじみたものであるかがわかる。
これらの記事が十分な調査をかさね、ウラをとって事実まちがいないものとして発表されるならまだしも、調べればすぐわかるような虚偽の証言までも、堂々と扇情的大見出しをつけて発表している。
しかも、あとから述べるように、明らかにそれらの記事が間違いではないかという証拠を揃えての反論に対して、「朝日新聞」はこれを黙殺して取り上げようとしない。要するに、一つの方向――日本軍は南京で30数万の中国人を虐殺した――という結論に初めから結びつけようとする態度である。いま朝日新聞社内で「南京大虐殺派」を代表してやっきとなって筆をふるっている本多勝一という記者が、かつてベトナム戦争報道で、いかに反米親ソ的な役割を果たしたかを想起してみていただきたい。その後、百万を越える難民や何十万ものボート・ピープルが出ても、「朝日新聞」も本多記者も、みずからの北ベトナム観について今日にいたるも反省の言動を全く聞かない。こうした新聞及び記者が、いままた新たにありもしなかった「南京大虐殺」という虚妄を国民に押しつけ、日本の「民族的恥辱」を永久に歴史に刻み込む工作に専念これ努めているのである。
私は「朝日新聞」に掲載される“南京大虐殺”に関する記事や評論の取り上げ方があまりにもでたらめが多いので、読者欄に5回にわたって投稿した。しかしいずれも拒否され、ついに一度も私の反論は掲載されることがなかった。
最初に私が投稿したのは、4月2日の「朝日」の「声」欄に、私を名指しで誹謗する次のような投書を見たのがきっかけである。
《写真集が語る大虐殺の実態。 宮城県 橋本四郎(無職56歳)
私は戦争の悲惨さを子供や孫に知らせるためにそれらの図書や写真を買い求めています。日本軍人らが中国などアジアの各地で行った残酷な人殺しは数限りなく、南京大虐殺は、訴えを起こした(注@)旧軍人が言うように虚偽の風聞では決してありません。斬り落とした首をもっての記念写真、集団で生き埋めにされる中国人、これが虐殺でなくてなんでしょう。
東京裁判の記録には「20万人の中国人を殺害」とあるが、虚偽の風聞だと原告(注A)の田中正明氏らが信じているなら、なぜ証人として意見を述べなかったのだろうか。戦争についての事実隠しを進める自民党政府、文部省の喜びそうな田中氏らの反省のない行為に怒りを感じます》
(注)文中、「訴えを起こした」とか、「原告」とかいう言葉が出てくるが、これは、水津満、菅野豊太郎、畝本正巳、西坂中、木ノ下甫、伊勢貞一と私の7人が、国(文部省)を相手に、一昨年夏の教科書騒動で、中・韓両国政府の抗議に鈴木内閣が屈服して以後、その偏向ぶりが一層甚だしくなった中・高校の偏向歴史教科書の是正を求める訴訟を、さる3月15日、東京地裁に起こしたことを指すものである。ちなみに、第3回公判は10月1日開廷予定。(この件に関する問い合わせは東京都千代田区外神田5−6−3 教科書是正訴訟事務局へ 電話03−832−6805) 橋本氏の文中に「東京裁判」や「首」の件があり、東京裁判を説明するためには、五百字の「声」の欄では十分でないと思われたので、私は同じ投稿欄の「論壇」(三枚半)に投稿した。4月3日、内容は次の通りである。
《南京に“大虐殺”はあったか。本紙3月30日には本多勝一記者の「南京大虐殺46年」のレポートと「南京事件調査研究会」の発足記事がのり、4月2日には、私の名前まで出た「南京虐殺」に関する賛否両論の2つの投稿が掲載されたので、私にも言わせて頂く。 本多氏によると激戦地になった中国各地の地方政府当局の「両国間の歴史的事実を正しく知った上での友好こそホンモノの友好」との意見には私も賛成である。日中とも当時の責任者存命されている間に、一級資料を基礎にして公正なる調査を実施されんことを希望する。昨年長編記録映画『東京裁判』が上映され話題を呼んだが、その時小林正樹監督は、99%までドキュメンタリのこの映画に、1ヶ所だけ『中国の怒吼』という宣伝劇映画を挿入して、南京で「大虐殺」があったと解説した。小林監督は「プレジデント」(58年9月号)に「映画“東京裁判”に応える」と題して、この映画の制作意図についてかなり詳しく説明している。それによると小林氏は「確かにあれは国民政府が南京事件を告発するためにつくったいわゆるやらせ映画であることは最初からわかっていた」と述べてい
る。やらせとはわざとそのような場面をしつらえ、わざと演技して、真実のごとく見せる映画技法である。しかもこのフィルムを手に入れるため、関係者は台湾へ9回も足を運んでようやく手に入れたのだという(江田和雄氏談)。それほどまでして「南京大虐殺」を立証しなければならない理由はどこにあるのか、私にはわからない。 この映画には、真冬というに半袖、半ズボンの兵隊が出てきたり、南京に上陸していない陸戦隊の兵隊が生首をささげた写真が出てくるのである。投書の橋本四郎氏の写真集の写真もおそらくこのたぐいであろう。 橋本氏は、東京裁判でもその判決で、「20万人の中国人を殺害した」とあるではないかと言われるが、松井大将に対する個人判決では「10万人の殺害」とその数は半減しているのである。この裁判は日本軍の暴虐については、「偽証罪」なしの言いたい放題を許し、日本側の提出証拠はことごとく却下するという不公正な裁判であった。昨年5月サンシャインビルで開催された「東京裁判国際シンポジューム」で、連合国11ヶ国の判事中ただ1人の生存者であるオランダのレーリング博士も出席して、その不公正さ
を認め、たまたま出席中の家永三郎氏さえも、東京裁判は公正なる裁判とは言い難い旨の発言をしたほどである。「南京大虐殺」はこの東京裁判がデッチあげた“創作”なのである。 南京は郊外まで含めても約40平方キロ、東京世田谷区の5分の4の面積で、ここに100人以上の内外記者団が取材にあたったのである。当時の市民は20万人といわれ、早くから全部「安全区」の中に集められていた。(南京安全区国際委員会発表)。そこには一発の爆撃も砲撃もなく、火災すら一件もなく保護されていたのである。そのため3週間後にはその人口は25万に増えている。当時の朝日新聞は「平和甦る南京」と題する写真特集を組、日本軍占領4日目の12月17日、皇軍に保護される避難民の群れや、帰還した農民が城外の畑を耕している写真を掲載している。 ここを守備した唐生智軍約5万は、戦闘により壊滅的打撃を受けている。蒋介石氏は「南京における我が軍の損害6千」と発表している(『蒋介石秘録第12巻』)。いったい20万だの30万だのという虐殺数字はどこから出てくるのか。広島の原爆犠牲者でさえその数は14万であることを想起してほしい》
この投稿は「朝日」の編集局論壇係から、「残念ながら掲載を見送らせて頂きます」という印刷ハガキがあって、没になってしまった。そこで今度はこれを600字に圧縮して、「声」欄に投稿した。4月10日のことである。
《“南京大虐殺”は数字の一人歩き。 本紙3月30日に「南京大虐殺46年・日中両国はいま」という本多勝一氏のレポートが掲載され、また4月2日の「声」欄には、私を名指ししての質問もあるのでお答えします。 新年度からの中学教科書、高等学校の歴史教科書の中には、南京大虐殺20万、30万という数字まで現れました(東京書籍)。ご存じのように南京事件は東京裁判で大きく取りあげられ、以後真相究明のないままに、数字だけが一人歩きしているのが現状です。日中の「ホンモノの友好のためにも、両国間
の歴史的事実を正しく知る」ことが肝要だとの提言には双手をあげて賛成します。そのためには、政治宣伝的な数字や、一方的な、あるいは風聞による数字は別として、日中双方とも当時の関係者がまだ生存されており、公正なる第三者立ち会いのもとに、実証的調査を実施されるよう強く希望します。現在私の手もとに全国から、当時の従軍記者を含め参戦将兵約80名の方から、「20万、30万など論外だ」「大虐殺など絶対にない」と強く否定し、「無実のえん罪を教科書にまで書き立てられ、死んでも死にきれない」といったお手紙やお電話を頂いています。
東京裁判の判決文(多数判決)には20万とあるではないかといわれますが、松井石根被告に対する個人判決文は10万と半減しています。日本軍の非道残虐は言いたい放題という“偽証罪”のないこの裁判は全く不公正なばかりか、その数値もでたらめであることを付言して回答と致します》
この投稿に対して「朝日新聞」の「声」欄担当者から電話があった。
「投書を掲載させて頂きます。ついては、歴史教科書の中に、20万、30万という数字まで記述されているといわれますが、その教科書をお持ちでしょうか。」という質問である。そこで私は、手もとにあった「東京書籍」の中学校社会科(歴史的分野)の次の一節を読んだ。 「日本軍は、華北を占領し、さらにナンキン(南京)へ侵攻して、各地で多くの中国民衆の生命を奪い、その生活を破壊して大きな損害を与えた。※ 《脚注》※ ナンキンを占領した日本軍は、数週間のあいだに、市街地の内外で多くの中国人を殺害した。その死者の数は婦女子、子供をふくむ一般市民だけで7〜8万、武器をすてた兵士を含めると20万以上ともいわれる。また、中国では、この殺害による犠牲者を、戦死者をふくめ、30万以上ともみている。この事件は、ナンキン大虐殺として、諸外国から非難をあびたが、日本の一般市民は、その事実を知らさされなかった」(277貢)
「声」欄の担当者は「ありがとうございました」と丁重に礼を言って電話を切った。 それから一週間まち、十日待ったが一向に掲載されない。しびれを切らして当方から「声」欄係りに「どうなっているのか、のせると約束しながら、一向にのらないが――」と問い合わせた。「声」欄担当者が「ちょっとお待ち下さい」といってしばらく待たせたが、ちがった人物の声で、「紙面のつごうで載らなくなった、あしからず」と木で鼻をくくったようなあいさつで電話は切れた。 かくして私の2回にわたる「反論」は、ついに日の目を見ることなく葬り去られた。「朝日」の夕刊に「深海流」というコラム欄がある。5月14日、本多勝一編集委員名で、「虐殺した数とされた数」という一文が掲載された。次の通りである。
《・・・・最近この問題で争われているひとつに、一昨年の教科書問題から再燃した南京事件(1937年)での犠牲者数がある。先月24日に東京地裁で第一回法廷が開かれた第三次教科書訴訟では、教科書検定強化の実例の中から、象徴的な数例に争点をしぼっているが、その一つが「南京大虐殺」である。文部省が「修正」したがるひとつは殺された人の数だが、その調査官の意見を読むと、なんと「1−2万」という数字を示唆している。加害者側の政府の検定官としての中国では「30数万人」とか「30万人」といった表現が定着している。(中略)
都市での大量虐殺の常として、精密な調査や正確な数字は永久に不可能だが、状況調査からある程度の大ざっぱな推測はできよう。この冬、日本軍上陸点の杭州湾から、その進撃ルートを南京までたどって調査してきたも、この問題についてのヒントを得たいのが目的の1つであった。百数十人の生存者たちに個別に面接した結果、およそ次のようなことがいえると思う。
南京事件についてはその「時」と「場所」のとらえ方で数字も大きく違ってくる。「時」については、日本軍が南京城を完全占領したとされる12月13日から入場式の17日までの「5日間」という区切りが方が最短だ。また「場所」については、南京市の「市街地」部分に限定する区切り方が最小範囲である。しかしこの最短・最小の場合でも、「何千」とか「何百」の単位の集団虐殺が各所で行われたこと(その奇跡的生還者たちも生きている)や、当時の記録映画(日本未公開)・写真などから考えるとき、「1−2万」という数字はどうにも少なすぎはせぬか。
だが、このようにことさら少ない時と場所に限定すること自体にむしろ本質的問題がある。13日の1日前の12日に行われた虐殺を加えぬことはナンセンスだし、市街地を少し離れた川岸を加えぬのも奇妙なことだ。となると、どこかに境界を引くこと自体に無理がでてくる。 まとまった状況全体として無理のない解釈は、南京攻略の開始(11月上旬)から混乱のほぼ終息する2月はじめまでの約3ヶ月間であろう。そうなるとまた何十万か見当もつきかねることになるが、「南京攻略戦」という行為全体から南京市一点での五日間だけ切り離すナンセンスよりましかもしれない。集団虐殺は杭州湾上陸直後から南京までの途上各地で行われたのだから》
まことに奇妙キテレツな論理である。一体、本多氏は何を言いたいのか?まわりくどく、「時」がどうだとか「場所」がどうとか言っているが、要するに中国側の言う「南京虐殺30万人」が正確だということを言いたいのだろう。だがその30数万人という人間が南京にはいなかった―――ということを本多氏は知っている。そこで30数万人の犠牲者を作るためには、「時」をのばし、「場所」をひろげるほかない。そこで本多氏はこういう奇妙な、東京裁判でさえもでなかった論理をブチあげたのである。氏は言う。「いわゆる南京大虐殺は日本軍の南京占領直後に突然発生した事件ではないということである。虐殺・暴行は、杭州湾上陸直後から始められており、(中略)虐殺・暴行は南京への途上で“訓練”をつみながら進み、もはや習慣化した大軍となって、南京へなだれこんだ観がある」ただ「南京一帯は大人口だから、したがって相対的に犠牲者の数も大きいというだけあって、本質的にはこの事件は、南京攻略開始の十一月上旬から、陥落後二ヶ月近くつづいた“勝手放題”期間を含む約三ヶ月間の出来事、ととらえるのが実情にそくしているだろう」(「朝日」3月30日付「南京大虐殺
46年」より)
つまり、「場所」と「時間」をひろげないことには「30数万人」にはならないという告白である。ということは、裏返して言えば、南京では30数万人もの大量殺戮はなかったということを認めたことである。
『決定版南京大虐殺』の著者である洞富雄氏にしても本多氏にしても、およそ「大虐殺派」の立論は、戦闘による死体でも中国兵の死体はすべて虐殺として数える。捕虜が何千いたという証言があれば、これも勝手に虐殺にする。その他埋葬死体の数、難民区から摘出された便衣兵(ゲリラ)の数・・・・・これらすべてが被虐殺者の数として計算されるのである。 例えば前掲文で本多氏は「十三日の一日前(南京陥落の前日)の十二日に行われた虐殺を加えぬことはナンセンスだ」といっているが、これは一体どういう意味なのか。十二日は南京城に肉迫した日本軍が、南京城の守りが意外に固く、戦友のしかばねを乗り越え、一番乗りを目指して、勇猛果敢に悪戦苦闘を重ね、多くの犠牲を強いられた一日である。こんな時に、どういう「虐殺」があったというのだろうか。本多氏のいう「虐殺」とはいったい何なのか?戦闘行為で敵を殺傷し、撃滅することを「虐殺」というのだろうか。
当時、南京市民の人口はどのくらいか。占領十日目の十二月二十三日には、南京に自治委員会が成立し、委員長には江寧人の陶錫山がえらばれた。日本軍はこの日から中国人立ち会いのもとに「良民証」を下付した。これは良民の中に紛れ込んでくる敗残兵を除去するためである。このとき日本軍に登録された市民は16万に達したといわれる。しかしこの中には10歳以下の子供や年老いた婦人はふくまれていなかった。これを全部含めて「20万人」と推定した「南京安全区国際委員会」の記録は、それほど大きなあやまりでないとみてよかろう。洞富雄訳『日中戦争史資料集』によると、「安全区(難民区)には公共機関の建物を利用して十八ヶ所の避難民収容所が設けられていた。これらの公共物建物には十二月十七日現在で約5万人が収容されていたが、十二月下旬から一月中の最盛期にはそれが六万八千人ないし七万人にも達した」。このほかに「収容所へも入らず安全区内に住んでいたものが六万八千人いたという。」その他安全区内の私邸(空き家)やテント生活者、周辺の住民等を合わせて、約二十万と委員会は推定していた。 安全区(難民区)と
いうのは、城内西南の一角で、南は漢中路、東から東北は中山北路(現在の人民北路)、北は山西路、西は西康路に取り囲まれた四.二平方キロの面積で、城内総面積の八分の一にすぎない。しかしここには、金陵大学、金陵女子学院、高等法院、日本領事館、鼓楼病院などの公共建物が多く、高級軍人や官吏の官邸や外人・富裕階級の邸宅も多い。この地区を管理したのが外人居留民で、米人七名、英国人四名、ドイツ人三名、デンマーク人一名、計十五名からなる「国際委員会」である。 南京市長馬超俊は、十二月一日、全市民に対して、市民はすべて安全区に移住するように厳命し、一般市民は三万担のメリケン粉、および十万ドルの助成金を国際委員会に委託して、自らは船で脱出した。蒋介石、宋美齢、何応欽、白崇禧ら国民政府首脳が南京を脱出したのは十二月七日である。高級官吏や金持階級は、持てる限りの私財を自動車やトラックや船に積んで南京を後にした。九日からは電灯も消え、電話も途絶えた。 このころからは南京は完全な無政府状態におかれ、中国兵や市民による掠奪、暴行が行われた。九日には松井軍司令官の「降伏勧告文」が飛行機で撒布されたが南京防衛司令官唐生智将軍
はこれを拒否した。唐は数日前から「清野作戦」を下命していた。清野作戦とは焼き払い作戦のことである。ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は、この惨状をつぶさに報道している。彼はこれを「焼き払いの狂宴」といっているが、城外のあらゆる公共建物や竹やぶまで焼き払い、狂気のごとく建物や事物をぶち壊し破壊し、掠奪した。その損害は、これまで日本軍の空襲や砲撃の与えた損害の十倍にあたると報道している。(東京裁判ではこれらが全部、日本軍による犯行にすりかえられた)
分 類 |
資 料 | 昭和 年・月・日 |
人数 (万人) |
備考 | |
国 際 委 員 会 公 式 文 書 |
T 6号 T 9号 T14号 T19号 T22号 T24号 T26号 |
J20号 J26号 J41号 J43号 J46号 J47号 J49号 J54号 J68号 |
12.12.17 12.12.21 12.12.27 13. 1.14 13. 1.17 13. 1.18 13. 1.19 13. 1.22 13. 1.28 13. 2.10 |
20 20 20 25〜30 25 25 25 25 25 25 |
T : ティンパーリー「戦争とは何か」・(外国人の見た日本軍の暴行) J : 徐 淑希「南京安全区襠案」 |
統 計 |
国際救済委員会調査 南京地区における戦争被害 |
12.12.〜13.3. | 221150人 | スミス博士と助手による推計 | |
報 告 |
アメリカ大使館報告 ドイツ大使館報告 |
13. 1. 13. 1. |
20〜25 20 |
エスピー報告 ラーベ報告 |
|
証 言 |
許伝音 M・S・ベイツ |
21. 7.26 21. 7.29 |
20〜30 221000人 |
極東国際軍事裁 判検察側証言 |
|
参 考 |
R・O・ウイルソン | 21. 7.25 | 戦100 12月初め50 |
同上 鼓楼病院医師 |
このような阿鼻叫喚の中を、市民は安全を求めて、ほとんど一人残らず、安全区内に身をよせた。その数がおおむね二十万といわれるのである。
右の表は、日本軍占領直後の十三日から翌年二月十日まで、国際委員会が、安全区内外の治安や日本軍の暴行、あるいは食糧補充等に関する六十九通(号)の日・米・独大使館にあてた文章の中から、人口にふれている箇所を抽出したものである。右の表を見ていただきたい。十二月十三日の南京占領直後の人口二十万からわずか三週間後の一月にはいると、人口は二十五万に増えている。つまり難民が連日どんどん復帰しているのだ。この第三国人からみた人口の推移からおしはかってみても、南京に「三十数万」はおろか万というケタの虐殺があったなどと、どうして推測できようか。本多氏がいうように「時」を二月まで延長しようと、人口は増える一方なのである。松井軍司令官の二月七日の陣中日誌には、「目下南京城内の居住者約三十万の人民中十万余は城内に復帰して概ね我軍に親しみつつあり」とある。本多氏は南京で「“何千”とか“何百”の単位の集団虐殺が各所で行われた」というが、そんなぶっそうな“虐殺の街”にどうして五万も十万もの市民が毎日続々と復帰してくるであろうか。
そこで私は、この本多氏の「虐殺した数とされた数」を一読してすぐペンをとって「第三者の見た“南京虐殺”の数」という一文を草して「朝日」の「声」欄に投稿した。五月十五日のことである。
《第三者の見た“南京虐殺”の数。
本紙十四日付け夕刊に本多勝一氏が「虐殺した数とされた数」と題して「南京大虐殺」に言及し、奇妙な論を展開している。
日本軍が占領した時の南京の人口は約二十万(南京安全区国際委員会発表)であり、南京を守備した中国軍は約五万といわれている。一人残らず虐殺したとしても二十五万である。ところが日本軍占領からわずか三週間後の昭和十三年の正月には、南京の人口は二十五万に増えているのである。(前掲国際委員会発表)従ってどう計算しても三十数万の虐殺は数字の上でなりたたない――ということを本多氏は承
日 付 (1937 - 1938) |
死 亡 原 因 | 負 傷 原 因 | 拉致さ れたも の** |
死傷者 統 計 |
兵士の暴 行による 死傷者の 比率(%) |
||||
軍事 行動* |
兵士の 暴行 |
不明 | 軍事 行動* |
兵士の 暴行 |
不明 | ||||
12月12日以前 12月12、13日 12月14日〜1月13日 1月14日〜3月15日 日付不明のもの |
600 50 ― ― 200 |
― ― 150 ― ― |
― ― 150 ― ― |
50 ― ― ― ― |
― 250 2200 ― 600 |
― ― 200 ― 50 |
― 200 3700 250 50 |
650 550 4550 ― 1000 |
― 91 92 ― 75 |
計 | 850 | 2400 | 150 | 50 | 3050 | 250 | 4200 | 6750 | 81 |
12月13日以降の暴行件数の比率(%) |
89 | 90 |
知している。そこで氏は、「このようにことさら少ない時と場所に限定すねこと自体にむしろ本質的問題がある。と称して、「南京大虐殺」というのは「南京攻略の開始(十一月上旬)からはじまって翌年二月はじめの約三ヶ月間」と期限を延長し、場所も杭州湾上陸から南京までは中国側が発表しているような虐殺はなかったということを裏返して弁明しているのである。戦中南京に駐在したNYタイムズのターディン記者は「およそ二万人の中国兵が日本兵によって処刑されたことはありうる。(注(1))」という表現で南京事件をレポートしている。また日本軍占領三ヶ月後、多数の学
生を動員して戦争被害状況を50戸に1戸の抽出方法で調査したスミス博士は、日本軍による中国人殺害2136人と発表している。これらの数値は「第三者の見た(注(2))“南京虐殺”数であることを承知されたい》
注@ダーディン記者の二回にわたる詳細なレポートの中で、彼は日本軍による婦女・子供などシビリアンの殺害などには全く触れていない点は注目すべきであろう。な同記者は、市民をおきざりにして早くも逃亡した蒋介石はじめ中国首脳の無責任な行動を非難し、これが「全面的破滅への合図となった」と述べている。
注Aスミス博士は金陵大学の学生多数を動員して、二人一組となり、五十戸に一戸の割合で家族の被害状況の聞き取り調査を行っているその結果は表2の通りである。スミス博士は「兵士」の暴行によって殺害された二千四百のうちには、中国兵による殺害もあり、日本軍によるものその89%の二千百三十六人と計算している。戦争直後のこの科学的な貴重な証拠を東京裁判は却下した。その理由は死亡者数があまりにも少なかったからである。以後「虐殺派」はこの第一級資料である調査データを用いることをしない。
殺人 | 傷害 | 連行 | 強姦 | 略奪その他 | 備 考 | |
12月13〜20日 21〜31日 |
28 |
14 2 |
337A 20B |
134AB,AB,AB 120 |
48 11 |
No.114〜136 No.155〜164(欠) |
1月1〜10日 11〜20日 21〜31日 |
4 6 5 |
4 1 11 |
2 3B 26 |
13 3BB 68B |
1 5 66 |
No.204〜209欠 |
2月1〜7日 | 6 | 12 | 2 | 21 | 48 | |
合 計 | 49 |
44 |
390 A BB |
359 AAA BBBBBB |
179 |
No.1〜No.444 正味 405件 |
当時の南京市内の全人口二十万ないし二十五万のうち、日本軍によって殺害され、連行され、強姦された者が幾人いるか、国際委員会がはっきり示した記録がある。
十五人の国際委員はおおむね反日的な敵性国人であるが、その十五人と紅卍字会やYMCAの職員など数十名が、日本軍占領下の南京城内をくまなく四六時中探索し、これを毎日記録して、日本大使館に提出している、いわば日本軍に対する苦情申告のようなものである。十二月十四日から翌年の二月十九日まで約六十日間のあいだに提出された文書は、第一号文書から第六十九号文書まで六十九通、件数にして四百二十五件ある。この中にはデマあり、風聞、仄聞(そくぶん)、誇張ありで、信用し難いものも多いが、これを全部「黒」として統計すると次の表3のごとくなる。
この六十九号文書は、後年徐淑希の『南京安全区當案』とテンパーレーの『外国人の見た日本軍の暴行』(注@)の両書に記載されている。われわれはこれをダーディン記者はじめ内外記者のレポート、前出のスミス博士の調査報告書、各部隊の戦闘詳報、松井大将の陣中日誌その他将兵日誌類や記録と共に第一級史料(資料)と呼ぶ。この第一級資料を見るかぎり、南京に“大虐殺”は絶対ない。
この表は板倉由明氏が前記の第六十九号文書四百二十五件の日本軍に対する苦情を部門別に統計したものである。これによると殺人は四十九件である。傷害四十四件、連行三百九十プラス・アルファ、強姦は多数と記載してあるもの三、数名とか若干と記載しあるもの六、はっきり数字で示された累計は三百五十九件である。前線部隊と行動を共にし、占領直後の南京の取材に当たった同盟通信の前田雄二記者(現・日本プレスセンター専務理事)は筆者にこう語る。
「虐殺とは戦争に関係ない住民や婦女子をむげに殺害することだろう。ところが殺されなければならない住民婦女子は(難民区)内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。私の所属していた同盟通信の旧支局はその中にあった。入城四日目には私たちは全員この支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。つまり難民区内が私たちの生活圏内で、すでに商店が店を開き、露天商や大道芸人まで出て、日常生活が回復していた。この地区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。こういう中で、万はおろか、千、百、あるいは十をもって数えるほどの虐殺など行われようはずがない。もしあれば、私たちが見逃すはずがない」と言い切るのである。
松井大将の陣中日誌や獄中記によると、大将は南京入城を済まして上海で二回にわたり外人記者を集め記者会見を行っている。その会見で“虐殺”に関する質問はなに一つも受けていない。そればかりかニューヨーク・タイムズのアベント記者を二回も招いて、南京占領に関する国際評価や国際世論の動向を訊ねている。そこでも大将はこのことを聞いていない。当時の中国新聞をふくめ外国新聞のどこにもそのような記事はのっていない。南京に入城した百二十人もの日本のカメラマンや特派記者のうち誰一人として“大虐殺”の存在を知らなかったのである。と同様、十数人の外人記者も、南京に居残った約四十名の外人も、揚子江上の五隻の米英の艦船乗員も“大虐殺”は見ていないのである。そればかりではない、その翌年十月、上海駐在の外人記者団十数名が、つぶさに南京の戦跡を視察しているが、その時も“虐殺”の質問はなかったと、当時同盟通信南京特派員の小山武夫氏し(元・中日ドラゴンズ社長)は証言している。
中国自身にも当時「南京虐殺」を記録した文献はなに一つない。「ティンパーリーの編書(注@)に寄せた郭沫若の序文は例外的なもののように見える」と『証言・南京大虐殺』の解説者姫田光義氏は次のごとく述べている。「南京大虐殺から三、四年たって発行された書物の中にも、この事件のことはいぜんとして触れられていない」(同書二一八貢)
日本の中学・高校の歴史教科書には、「当時日本は国際的非難をあびた」とあるが全然ウソである。少なくとも前記の一級資料の中には「大虐殺」の片鱗すら見あたらない。
当時の新聞その他の記録はその逆である。
南京市内でも鼓楼病院や中央病院――そこには中国の敗残兵が多数病臥していたが、日本の衛生隊は、日本軍の傷病兵と同様に、給水し、食糧を運び、包帯のまきかえや施薬をして、感謝状まで受けているのである。
難民区に救恤物資を贈り、乳幼児には粉ミルクを配給し、子供たちにはキャラメル等を与えている。
「朝日新聞」はこうした風景を「写真特集」に組んで、どの新聞よりも忠実に、熱心に報道している。それも一度や二度ではない。十二月二十日付けの朝刊は「平和甦る南京」と題して、半ページを四枚の写真で埋めている(十七日、河村特派員撮影)。そこには早くも「皇軍入城に安堵して畑を耕す農民たちの姿」や「皇軍に保護される避難民の群」がぞろぞろ帰ってくる写真がのっている。
さらに翌二十一日には、三面トップ五段ヌキで、「抗日のお題目忘れた南京市民/日毎加る親密さ/“奈良の鹿”偲ばせる配給風景/敵首都に皮肉な明朗」と題して、守山特派員の十九日発電を、ミルク缶配給の風景写真と共に掲載している。
その翌日の二十二日、またも半ページをつぶして「きのふの敵に温情/南京城内の親善風景」と題して、写真特集を行っている(二十日、河村特派員撮影)。ここには日本の軍医や看護兵に治療を受けている支那兵の姿や、「皇軍将兵の情に食欲を満たす投降兵」と題して二人の日本兵がザルに入れた白飯を配給している写真等が大写しにされている。
さらに二十五日にも「南京は微笑む、城内点描」と題して、またも半ページを埋めた写真特集をやっている(林特派員、二十三日撮影)。ここでは日本の兵隊さんと遊ぶ子供達の明るい顔や遊戯の模様を多面的にとらえている。林特派員は「支那人の子供の無心に遊ぶ様を眺めて、兵隊さんは国に待つわがいとし子を偲んでいるのだ。“新聞記者どの、今度手紙をたのみます”と思い出したように国への便りを願うのである。」とコメントしている。教会の庭でオルガンに合わせて賛美歌を歌っている百名近い女性徒の写真もある。朝日はさらに、「手を握り合って越年/日に深む南京の日支親善」と題して五回目の写真特集を組んでいる。
なぜ私がこのようにくどくどしく「朝日新聞」を引用しつつ、日本軍の南京占領後の市街の状況を説明するかというと、東京裁判における中国側の証言や本多勝一氏によると、日本軍による婦女・子供をふくむ三十数万の虐殺が行われた」とか、あるいは組織的、集団的な放火、掠奪、暴行等の不法行為が占領直後から二月初めまで連日のように続いたといわれているが、もしそれが「事実」ならこの五回にわたる写真特集の画面に映された「事実」を、本多氏や「朝日」の編集スタッフは読者にどう説明するのか、私はそれを聞きたいのだ。本多氏にしても、今の「朝日」の編集スタッフにしても、四十数年前、戦場で命がけで取材し、国民に報道した諸君らの先輩のこれらの写真はみなやらせ写真だというのか?軍に迎合するためのデタラメのインチキ写真であり、ウソの記事であるというのか?いかに戦いに敗れたとはいえ、たなごころを返すように、昨日までの先輩の写真や記事はすべてウソでした、インチキでした、デタラメでしたといって、わざわざ日本軍の旧戦場に出向き、敵側の当時七つ八つの子供だった人々に、まるで魚屋か八百屋の御用聞きのよう
に、その被害状況をお伺いして、それをそのまま記事や写真にし、これこそが南京事件の真相だと発表する――こんな態度が許されていいものかどうか、読者に対する「報道の責任」というものを、いったい「朝日」はどう考えているのか問いたい。
注@マンチェスター・ガーディアンのテンパーレー記者の著書は、同記者が南京の友人から寄せられた文書を基礎に一九三八年三月上梓した本で、英・中・日の三ヶ国語に翻訳され有名となったが、実はこの著は、国民政府が対外宣伝のために出版したもので、例の郭沫若が序文を書き、蒋政権下で反日宣伝を担当していた青木和夫、鹿地亘の両氏が翻訳・発刊に尽力している。
「朝日新聞」六月二十三日付夕刊の社会面に、見出し五段ヌキで、「南京大虐殺目撃の中山老/『語り部』記録映画に/中国での講演など収録」――という記事が私の目をひいた。そこにはアゴ髭に眼鏡の七十二歳の中山重夫氏の顔写真もあり、トップ記事ではないが、見出し地紋入りの派手な扱いである。記事内容は次の通り。
「一兵士として目撃した南京大虐殺を語り続けている東京都江戸川区平井の中山重夫さん(72)の記録映画が近く完成する。この五月、中国の黒竜江大学で講演した模様を中心に、日本での活動などを三十分、16ミリカラー作品にまとめた。戦争の実相を証言する全国反戦行脚を始めてすでに百五十ヶ所。『死ぬまで語り続ける』という“戦争の語り部”にふさわしく、題名は『中山老の証言』と決まった」ここまでが導入部門で、本文は、「昭和十二年十二月。南京が陥落した時、中山さんは陸軍戦車隊の上等兵として、その状況をつぶさに見た。『私は整備兵だった。戦車を修理しながら進む道すがら、累々と重なる死体の中にとても戦闘員になれそうもない女性や老人が多く交じっているのを見て不思議に思った』忘れられないのは南京入城の二日前、郊外の雨花台で見た光景。白旗を掲げてくる中国人を壕(ごう)の上に座らせては、日本兵が次々と銃剣で刺し殺していく。一突きでは死にきれず、苦しんでいる人を軍靴で壕にけ落としては土をかける。年寄りであろうが、見境なしに殺戮が続いた。『四時間余りも凝視していたでしょうか。それまでは国のため、天皇のためには仕方がないと考え
ていたのが、その日からはああ戦争はいやだ、と思うようになった』
戦後一貫してこの体験を語り続けてきた。五十七年夏には静岡市の中学教諭森正孝さん製作の8ミリ映画『侵略』と出合った。南京大虐殺や三光作戦を扱ったこの作品に『私が言葉で語ってきたことを映像で証明してくれた』と感動。自費で買い求めてこれを携え講演して回った。(中略)“戦争の語り部”としての活動が、中国の光明日報に紹介された。本年三月には中国のテレビ局、黒竜江省電視台訪日団が中山さん宅を訪問。これが縁となって五月十一日から二十四日まで二週間の訪中が実現した。
映画『中山老の証言』は、十九日黒竜江大学の日本語専攻学生約百二十人に対する講演を中心に、ハルピン周辺の石井七三一部隊跡や東北歴史記念館を訪ねる中山さんを紹介。日本での活動をスチール写真で挿入していく。製作の日中映像企画によると、現在編集の仕上げ段階で、六月中には完成させたい、としている。
× × ×
映画についての問い合わせは、東京都中央区新川1ノ22ノ12、ニッテイビル902日中映像企画(電03−552−2468)へ」
中山氏のことは、かつて「毎日」にも載ったことがあり、私は返信付きで、ぜひお目にかかりたいが、ご都合よろしき日時・場所をご指定下さいという手紙を出した。
返事はナシのツブテであった。今度の「朝日」の記事に対し、私の友人Yは、日中映像企画に電話して、中山さんと直接お話ししたいがどうしたらいいかを聞いた。
長谷川と名乗る男性社員が、いろいろ脅迫を受けているので、直接話はできない、要件の向きは取り次ぎましょう、ということであった。
そこでYは、長谷川氏気付で、「侵略」という映画を見せて頂いたり、講演もお聞きしたい、そのためには、どのような手続きをしたらいいかと手紙した。
その返事も来ない。
そこでまた、せめて中山さんの所属部隊を教えて欲しいと再々電話した。すると「所属部隊は忘れた」という返事が帰ってきた。
当時、同じ戦車隊の上等兵で、南京攻略戦を戦ったKという東京に住む建設会社の社長さんがいて、この方が中山さんと面接した。この社長さんのおかげで次のようなことがわかった。
中山重夫氏は大正二年一月二十五日、福岡県三井郡草野町大字吉木で生まれ、昭和十二年七月応召、現住所は江戸川区平井○○○の都営住宅○○○○○○、一人暮らしで、生活・医療保護を受けているという。
南京戦での所属部隊名は戦車第一連隊(岩仲戦車隊)で、階級は上等兵、段列兵である。段列とは、戦車隊の弾薬・糧秣等の運搬および修理等に任ずる後方任務の部隊のことである。
かねて南京事件を調査・研究している広島市矢野町在住の畝本正巳氏(当時独立軽装甲車第二中隊小隊長)に岩仲戦車隊について調べてもらった。その結果岩仲戦車隊は、雨花台の戦闘には参加しておらず、麒麟門から中山門に向かい南京街道を進撃していることがわかった。雨花台は起伏多く、谷あり河ありで地形複雑のため戦車隊は突入できず、そこで日本軍は軽装甲車をかり集め、品川大尉がこれを指揮して戦っている。岩仲戦車隊とは全然無縁である。こんな場所に岩仲戦車隊の段列がいるはずがない。
入城二日前といえば十二月十一日のことである。十日、十一日の両日はことに敵の反攻ものすごく、トーチカと鉄条網と地雷で固めたこの要塞に立ち向かった宇都宮の第百十一師団と熊本の第十六師団の一部は、多くの犠牲者を強いられた。戦史によると南京城外におけるわが軍の損害は戦死二百六、負傷六百八十二、戦傷死六、敵の遺棄死体約五千とある。その大部分はこの雨花台での死闘である。段列の兵隊が四時間にもわたって、捕虜を一人一人突き刺すさまをじっと「凝視」するといった環境ではないのである。そこで私はペンをとって次のように疑問符を投げかけた。六月二十六日のことである。
《入城二日前は雨花台大激戦。
本紙六月二十三日付夕刊に「南京大虐殺目撃の中山老/『語り部』記録映画に」と五段ヌキで東京都江戸川区の中山重夫氏の談話が掲載されました。それによると中山さんは南京「入城の二日前」郊外の雨花台で、白旗を掲げて来る中国人を虐殺している場面を四時間にわたって「凝視していた」と証言しています。私は疑問に思って早速関係者にあたって調べてみました。
@中山さんの所属した第一戦車隊(岩仲戦車隊)は雨花台には突入していません。Aまして山中さんは岩仲部隊の段列(輸送隊で後方勤務)ですから雨花台には行っていないはずです。B「南京入城二日前」といえば十二月十一日のことと思いますが、雨花台の戦闘は、九日から十二日にかけて大激戦が展開し、日本軍も悪戦苦闘の末多くの犠牲者を出しています。とても白旗を掲げての大量降伏とか、四時間余にもわたる殺害場面など想像すらできない激戦の修羅場であったというのが、ここで戦った歩兵第四十七連隊将兵の証言であり、戦史にもそう記録されています。中山さんは何か勘違いされているのではないでしょうか、一度お目にかかりたく以前お手紙しましたが、ご返事は頂けないままでした。大新聞である「朝日」ともあろうものがこのような記事をたしかめて頂きたく、それが報道の責任かと存じます。もし私の調査が誤りでしたらご教示下さい》
これに対して「朝日新聞」は、私の投書を無視したばかりでなく、私の調査に対する回答もなかった。
「朝日新聞」は七月二十八日、「南京大虐殺克明に/従軍兵士の手帳発見/京都の戦争展」と題して大きく報道した。その手帳にはこう書いてあるという。
「十二月十四日晴天 はい残兵が(略)或大きな一家に千名ほどの難民と一緒になっていたので(略)約はい残兵らしきもの五百名ばかりより出した(略)一ヶ小隊をもってはとても殺す事ができないので、第一機関銃(中隊)機関銃二門をたのみ、なお中隊の機関銃六銃で、小銃兵全部集まり、遠くの城へき山きわに、はい残兵全部を集めて、軽機、重機の一声射撃により全部撃ち殺した、見るもあわれな光景だった」(原文のまま)
「朝日」はこの記事を鬼の首でも取ったかのようによろこび「“大虐殺”をうかがわせる箇所が随所にある」とし、例えば「○連隊の敗残兵の掃討で、城外に四千人ばかり集めていた」(同月十六日)と記してあると言い、大阪市大の広川禎秀助教授の「軍が組織的に虐殺を行った事実が、当事者自身のメモとして見つかった意義は大きい」という談話までのせている。ちなみに、この手帳は、どうしたものか、京都の戦争展に展示されることなく、「朝日」「毎日」「赤旗」の三社が報道したのみで、姿を消し以後非公開を宣言、“まぼろしの手帳”となっている。
本多勝一氏はこの記事をうけて、七月三十日「朝日新聞」夕刊の「ルポ’84」に約四分の一の紙面を塗りつぶす署名入りの記事を書いた。凸版白ヌキ横見出しで、「南京大虐殺・教科書裁判に一石」さらにタテに凸版で「一兵卒の陣中日誌と伍長徳証言」とし、中央に「敗残兵残らず射殺〈陣中日誌〉/〈伍証言〉掃射→クシ刺し→焼く」といったどぎつい大見出しである。
本多氏によると、今度発見された京都の一兵士の日誌と自分が南京で聞き取りした伍長徳証言とは符節があっており、この二証言は目下東京地裁に提訴している家永三郎氏の主張する「南京に大虐殺があった」とする動かぬ証拠だというのである。
本多氏が聞いた伍長徳氏の話というのは、次の通りである。十二月十五日の八時ころ、伍氏のいた難民区内の司法院に日本兵数十名が突然入ってきて青壮年男子を外へ追い立てた。他の建物からも追い立てられた青壮年と合わせておよそ二千人余りの一団が歩き出したのは午前十一時ころ。途中「首都映画館」前にすわらされ、数台のトラックが来て、憲兵が包囲陣に加わった。午後一時ころ漢中門に着いた。二千余名は門の内側ですわらせられた。二十分ほどのち、二人の日本兵がナワの両端をもち、百余人をナワで小グループに分けた。そのグループのまわりを武装兵が囲んで門の外に出た。二十分ほどすると門の外から機関銃の轟音が起こった。それまで不安だった群衆は、これで決定的に虐殺とさとった。
このようにして一グループずつがナワで分けられては門外に連れ出されて虐殺された。伍さんの組の番になったのは午後五時ころだった。四台の機関銃が二台ずつ分かれて並び、その間から伍さんらは土手の斜面に追いおろされた。眼前に死体が層をなしているのを見た瞬間、伍さんは前につんのめるように倒れた。と同時に一斉射撃となり、死体が折り重なってきた。「お母ちゃん!」と親を呼ぶ悲鳴がきこえた。
機銃のあと小銃の狙い撃ちの音がした。それがやんだあと、人体の層の上を歩く気配がする、といきなり背中に激痛を覚えた。生存者をさがして銃剣で刺していた兵隊が、上に倒れている人体を貫いて伍さんをクシ刺しにしたのだ。じっと我慢していると、今度は木材などを死体の上に投げ、それにガソリンをかけて火をつけた。伍さんは火のついた着物を脱ぎ捨て、死体の間をはいながら川へとびこんだ。泳ぎの得意だった伍さんは、川岸に着くと二百五十メートルくらいはって進んだところで小舟をみつけ、中にあったボロ服を着た。さらにはって川沿いに南下し、水西門の一軒の焼け残りの空き家にころがりこんだ。
これが伍長徳氏の物語である。本多氏はこの物語をながながと情景描写を加えながら綴ったあと、伍氏の語る型にはまったおきまり「私は幸福です」という毛沢東語録での長文をしめくくっている。
この物語には幾つかの疑問点がある。 その一は、十二年十五日には、日本軍は司法院の検索はしていないということが、国際委員会の第七号文書に記載されている。従って伍氏の逮捕、連行はウソである。
その二は、司法院を出て、中央ロータリーを左へ回る中山路・漢中路は東京で言えば銀座通り、日本橋通りに匹敵する。午前十一時から午後一時まで、二千余人が武装した日本軍に連行されて行くのを、新聞記者も将兵も、誰一人見たという者がいない。国際委員会の者もこの大事件を知っていない。
その三は、重機関銃射撃音は通常4キロから6キロまで鳴り響く。当時漢中門から約1.5キロ東南方の実輝巷には第四十五連隊(鹿児島)本部があり、南方1.5キロの水西門には四十五連隊の一部が、約2キロ東方の甘露寺には独立山砲第二連隊の一部が、そのさらに一キロ先の江東門には第四十五連隊第三大隊が駐屯している。これらの諸部隊のうち四時間にもわたる重機四台の射撃音を聞いたという将兵は一人もいない。
その四は、漢中路の左側一帯は難民区で、国際安全委員会の事務所のある海寧路や難民がいっぱいいる金陵女子学院や金陵神学校はいずれも1.5キロから2キロの距離である。重機発射音四時間に及ぶとなれば、二十万の難民は黙っていないはずだ。しかし国際委員会の記録にはこのことは全く記述されていない。
その五は、紅卍字会の埋葬簿にも、崇善堂の埋葬簿にも、漢中門外の二千余の死体を埋葬したという記載はない。要するに伍長徳氏の一人の物語であって、これを裏づける傍証は何もないのである。こんな物語がまかり通っていいものかどうか?そこで私は「朝日新聞」に次のような反論を投稿した。八月七日のことである。
《「南京大虐殺」の欺瞞。
本紙七月三十日付夕刊に本多勝一編集委員の「南京虐殺・教科書裁判に一石/敗残兵残らず掃射/〈陣中日誌〉/〈伍証言〉掃射→クシ刺し→焼く」というショッキングな記事に対して一言したい。
このルポは、南京攻略戦に従軍した京都出身の一兵士の手帳(陣中日誌)が発見され「朝日」「毎日」とも『「南京大虐殺」克明に』と題してその内容の一部を発表したが、本多氏はこれを受けて、東京裁判で証言台に立った伍長徳氏の聞き取りと符節が一致すると称し、「四千人より少ないらしいが、ともかく千のケタの虐殺」があったとして、その目にあまる残虐振りを生々しく披瀝した記事である。ところがこの記事には巧妙なカラクリというか、トリックと欺瞞がある。
その一は、一兵士の日誌は十二月十四日、敗残兵らしきもの五百名の難民の中からより出して銃殺したとある。本多氏はこれを頭ごし虐殺と決めつけて、鬼の首でも取ったように「直接当事者による当日の記録だ」といって小躍りしているが、十四日は南京陥落の翌日、掃討戦の最中で、各所で市街戦が行われていた。武器を隠匿して、難民の中にまぎれ込み、便衣でひそんでいるいわゆる“便衣隊”なるものは、戦時国際法の違反であり、捕虜とちがってその場で処刑されても文句は言えないことになっている。
その二は、伍長徳氏が十二月十五日司法院で便衣隊と一緒に捕らえられ、約二千人と共に引き立てられて、漢中門外で射殺されるところを免れられたという記述であるが、これはウソである。十五人の米英独等第三国人よりなる「南京安全区国際委員会」が南京の日本大使館にあてた十二月十八日付第七号文書によると、十二月十四日、日本軍将校が司法院に来て難民と便衣隊とをえり分けて元中国兵を逮捕・連行したが、「十五日にはえり分けに一人の将校も来なかった」と明記し、「翌十六日になってこの難民グループ(先に取り調べを受けなかった半数を含めて)から数人の中国兵を発見」して連行したと書いている。(洞富雄訳・H・Jテンパーレー編『戦争とは何か―――中国における日本軍の暴虐』百三十二貢)すると伍長徳氏の十五日司法院から約二千名と共に連行されたというのは、虚偽の証言ということになる。
その三は、兵士の陣中日誌の十二月十六日には「○連隊のはい残兵のそうとうで、城外に四千人ばかり集めていた」とある。これを本多氏は「同師団の別の連隊が四千人を駆り出したのを目撃、これも虐殺されたらしい」と勝手に憶測し、小見出しに「四千人駆り出し虐殺か」と記述して、前記伍長徳氏の「掃射→クシ刺し→焼く」という、女子供を含めての残忍極まる虐殺風景へと文章をつないでいるのである。つまり「四千人ばかり集めていた」が「四千人を虐殺した」に話がスリかえられているのである。何とも悪らつな曲筆である。 本多氏がこれほどまでして日本軍の罪科告発にやっきとなるのは何なのか。私には解らない》
この投稿もまた、日の目を見ることなく、黙殺されてしまった。
本多氏は言論統制下にある共産国中国へ出かけて行き、草の根を分けるようにしてカギまわり、そこで語られる反日反軍の怨恨の数々をそのまま記述して発表するという奇妙な性癖のレポーターである。それが真実か否かを疑うことを知らない。批判もしない、まして日本側の証言や資料と照合することもしない。自分が聞いた中国側の言い分は百パーセント正しいモノとし、これが「南京大虐殺」の真相だと示す態度である。「万人抗」や「死体橋」の物語もそのデンである。(三月三十日付「朝日新聞」)。
本多氏の説明によると、昨年の十二月十三日、南京市は南京大虐殺(中国語で「南京大屠殺」)四十六周年を期して記念碑の定礎式を行った。その場所は南京城水西門の西郊外江東村の大通りに面した一角で、今なお大量の人骨が層をなして埋まっているところ。その記念に建てられた石碑の写真と、「最近試掘された南京事件犠牲者の万人抗の一部」として白骨堆積の写真が大きく掲載されている。本多氏によると、この万人抗は近いうちに正式に発掘されて、一般に参観できるよう記念館として整えられる予定とのことである。試掘されたこの白骨の堆積が、日本軍の虐殺によるものであるなどと宣伝されることは甚だ迷惑であり、事実とも相違する。日中友好の将来のためにも、このことをはっきりさせたいと主張する人がいる。第六師団通信班小隊長の鵜飼敏定少尉(当時。東京都杉並区在住)は南京攻略の十二月十二日からこの地区の戦闘に参加し、十二月二十一日太平府に移動するまで江東門付近に駐屯しており、併せて歩兵第四十五連隊戦史の編纂者でもある。鵜飼氏によると、四十五連隊第二大隊は十二月十二日夜九時、江東門を占領した。第二大隊長成友少佐の回想記によると、敵兵すでに
退散し、街に人影見ず、電線が石畳の道に垂れ下がって、不気味な静寂が街を包んでいたという。第二大隊は江東門に宿営し、翌十三日早朝、濃霧をついて出発、三叉河において敵と遭遇し激戦する。この第二大隊出発のあと、第三大隊が上河鎮から江東門に入ってきた。するといったん遁走したと思った敵が侵入してきてたちまち市街戦となった。この戦闘でわが方は、日高中隊長重傷、岩間小隊長戦死、ほかに下士官兵十名が戦死した。敵も遺棄死体約百を残して退却した。白骨の堆積はこの戦死者の遺骨であり、女・子供は一人もいない。すべて戦闘員である。なお江東門西方の新河鎮では、大薗大尉を長とする歩兵第十一中隊と高橋義彦中尉の指揮する山砲および工兵、騎兵各一小隊二百五十は、十三日払暁、城内から敗走してきた敵約一万五千と遭遇、朝五時から四時間にわたる大激戦を展開、この戦場で敵は二千三百の死体を遺棄して逃走している(わが方の死傷者三十六名)。
このあたりを掘れば、白骨はまだまだいくらでも出て来よう。しかしこれらはすべて戦死者の遺骨であって、断じて屠殺(虐殺)死体にあらざることを銘記すべきである。
次に本多氏は「死体橋」について説明する。
「石碑の近くにある幅4、5メートルの運河の橋は、日本軍の南京占領直後に国民党軍(蒋介石軍)が爆破したが、占領後このあとが大量の虐殺死体で埋められて“死体橋”となり、その上を日本のトラックが往来していたという。
当時の目撃者の一人・孫殿炎(59)よると、その“死体橋”のたもとに孫さんの家はあった。ほんの十メートルほど離れた道路ぎわだったので、日本軍がしばしば通過して危険を感じ、二百メートル離れた空き家に引っ越した。“死体橋”は断面が台形上に積まれた死体の上に、破壊された家の扉や板・草・土などが敷かれていたが、かなりでこぼこがあり、多少ぶよぶよと動く感じだった。まだ少年の孫さんは、殺された上にトラックの橋にされてしまった大量の人を見て、恐ろしさと同情で言葉も出なかったという」
いかにももっともらしい作り話である。
前出の鵜飼敏定氏も、新河鎮で戦った高橋義彦中尉(当時。久留米市在住)らは口を揃えて言う。
「あの橋(江東橋)は爆破されてなどいませんヨ。われわれはしょっちゅうあの橋を通っていました。若干修理はしたがネ。だいいち運河の幅は四、五十メートルなんてない。せいぜい二、三十メートルだ。われわれの部隊にはトラックはなかった。トラックは兵站で、十四日以降の上海――南京間の補給は揚子江の船舶輸送に依存した。われわれの輜重は馬の背だ。江東門にトラックは一台も通っていない」と言い切るのである。
いったい“死体橋”などというものが物理的にあり得るだろうか、常識でもわかるはずだ。幅四、五十メートルのドロ深い運河に、人間の死体を積み重ねて橋ができると、本多氏は本気でそう思っているのだろうか?死体は水に浮き沈まない。とくに当時の中国兵は、冬期は綿入れの軍服で着ぶくれていた。死体は冬でも一、二週間水につけるとガスが体内にたまり、土左衛門となって水に浮いてくる。作り話もここまでくると茶番である。
本多氏は、ちょっと常識をはたらかすならわかるようなウソやでたらめでも、それが中国側の言い分なら阿呆みたいに一切の合理性や科学的判断もすてて、もっともらしくメンメンとこれをそのまま綴り、いかにもそれが真実であるかのごとく表現する。
中国は『三国志』の遠い昔から、宣伝謀略が得意である。修飾も粉飾も誇張も天性秀れた民族と言っても良い。その言い分をそのまま忠実に取り次ぐ日本の本多勝一というレポーターは、中国にとって貴重な存在と言わねばなるまい。
(なお南京事件の詳細については拙著「南京事件の総括 虐殺否定の十五の論拠」=謙光社発行=を参照されたい)
田中正明著『南京事件の総括 虐殺否定15の論拠』謙光社あとがきより
昭和60年11月24、5の2日間にわたって、朝日新聞は私の編著した『松井石根大将の陣中日誌』〈芙蓉書房刊行〉について、「『南京虐殺』史料に改ざん/900ヶ所原文とズレ」と題して、翌日はまた「『南京虐殺』ひたすら隠す/田中氏の松井大将の日誌改ざん」と題して、両日とも九段、白ヌキ見出しという派手な扱いで大々的に取り上げて私を誹謗しました。
前日拙宅に「朝日」の記者が来訪し、コメントを求めたが、私は「改ざんの覚えはない、どこがどうズレているのか、調べるまで発表を待って欲しい」と言いましたが、しかしその翌日前述の記事となり、しかも私が言いもしない「申し訳ない」という詫びごとまでねつ造して、いかにも私が意図的な改ざんを認めたかのような記事になっており、有無も言わせぬ切り捨て御免の弾劾記事となった次第。反論も、弁解も許されない、一方的な断罪です。私は「朝日」にさっそく釈明の一文を投稿しましたが、もちろん一顧だにされず没書となりました。
「朝日」は本著でも紹介しているように、終始一貫して南京に虐殺があったとしてキャンペーンを張っている新聞であります。私の抗議や反論など取り上げようはずがありません。
数百万部を発行する大新聞が、二日間にわたって私を非難し、その弁明の余地さえ与えられないということは、いったい私の人権はどういうことになるのか?新聞は第四の権力と言われていますが、ひとたびマスコミのターゲットにされた者からすると、これほど無残な、反論も反駁もできない、ほどこす術もない一方的な暴力はありません。世の中には、マスコミの暴力の一撃をくらって、反論も弁解も許されず、いかに多くの人権が踏みにじられたまま泣き寝入りさせられているケースが多いことか、今更ながら思わずにはいられませんでした。自殺した高校の先生、取りつぶされた病院、名誉毀損や人権回復のため、多くの訴訟事件がマスコミ相手に起きていますが、しかし、これらはほんの氷山の一角にすぎないのではないでしょうか。
○
私が改ざんしたと称される『松井大将の陣中日誌』と私の記述とのズレは、板倉由明氏が中公出版の「歴史と人物」(60年冬期号)でくわしく指摘しているが、氏の推定箇所以外はほぼまちがいありません。専門家が二ヶ月かけて、松井大将の日記と私の文章を対比したと言いますが、それをごらん頂いてもおわかりの通り、「南京事件」を隠すために、意図的に改ざんしたものでは毛頭ありません。だいいち大将の日誌には、南京に“虐殺”事件があった、なかった、などということとはまったく無関係なのです。
隠さなければならぬことは何もないのです。そのほとんどは、私の筆耕の誤植、脱落、あるいは注記すべきところをしなかった等の不注意によるものであります。それを「『南京虐殺』ひたすら隠す」といかにも私が実在した“虐殺事件”を秘匿したかのごとく誹謗したのです。
なにぶんにも兵馬こうそうの間に走り書きされた日記で、しかも大将独特の難解な草書体で読みとることのできない不明の箇所が多く、その中の一字を判読するのに、三時間も四時間も要し、それでもなお読みとることができなかった例がいく箇所もありました。
このほかに、不鮮(すくなからず)、如此(かくのごとき)、不詳(くわしからず)、併(ならびに)、方(まさに)、不審(つまびらかならず)、仍而(よって)、太(はなはだ)、此(かかる)、遽(にわか)・・・・・・・等々数えあげれば際限ありませんが、これらの漢文調の文字を、現代の読者に読みやすくする配慮から、かなまじり文になおし、あるいは新かなづかいにそって、おくりがなを付したり、句読点を付すなど、語句の扱いに配慮を欠いた点は認めますが、原文を勝手に書き直して、虐殺事件を隠したとか、大将の不利を補ったとかいったようなことは毛頭もありません。その他きめ細かく〈注〉を付して、日記以外に大将が弁護人に与えたメモの挿入(二ヶ所)を日記本文と峻別しなかった等、づさんな点のあったことは認めます。
ここではっきり申し上げたいことは、私は大将の日記を著述した目的は、第一級資料である軍司令官の日記を通して、この戦闘期間中の松井大将の行為・心境・真意をひろく江湖に伝えることでありますが、字句に多少のズレはあっても、松井大将の真意を曲げることなく、その目的は完全に果たし得たと言うことであります。朝日新聞をはじめ洞富雄氏ら虐殺派の人々は、ニセ写真やウソの記述までならびたてて、ありもせぬ20万、30万の“大虐殺”がさもあったかのごとく宣伝し著述しています。
これこそ歴史の改ざんでなくてなんでしょうか。
私が松井大将の日記を改ざんしたと称して朝日新聞で叩いた本多勝一氏が、今度は板倉由明氏から、本多氏よ汝こそ南京事件の「改ざんの常習者」ではないかと叩かれているのはその一例と申せましょう。(月刊評論八三四号)
○
朝日新聞社は私を2日間にわたって誹謗したのち、大虐殺派のリーダー格の洞富雄氏の『南京大虐殺の証明』を出版しました。この本は私をはじめ虐殺否定論者七名(板倉由明、畝本正巳、渡辺昇一、山本七平、畠中秀夫、阿羅健一)の名をあげ、その所論を反駁し、批判したもので、とくにこの本の70〜80パーセントは拙著に対する批判であります。20万、30万の大虐殺があったとする洞氏のこの著書と前後して、一橋大の藤原彰氏が岩波ブックレットから『南京大虐殺』を出版し、その弟子の吉田裕氏が『天皇の軍隊と南京事件』を青木書店から出版しました。いうまでもなくこの二著も洞氏同様、中国の政治宣伝通り、南京に大虐殺があったことを一生懸命に書き連ねている本であります。さらに続いて拓大の秦郁彦氏が中央公論社から『南京事件=「虐殺」の構造』という本を出しました。秦氏は中間派と自称し、虐殺数を四万と推測していますが、洞氏同様、東京裁判史観を展開して、松井大将に対するいわれなき誹謗と日本軍の残忍性をひたすら綴っています。
私は本著で、以上四氏に対する批判や反論を随所に加えつつ、また先年出版された中国初の公的発表と称する南京市文史資料研究会編の『証言・南京大虐殺』の白髪三千丈式の大デタラメの被害者の証言も徹底的に批判し、各部隊の戦闘詳報や、当時の一級資料をふまえて、しかも新しく発掘した資料や証言を駆使して、南京事件の真相に迫ったつもりであります。
私はさきに日本教文社から『“南京虐殺”の虚構』を上梓しました。この著は国内で多くの反響を呼んだばかりでなく、中国では「南京大屠殺記念館」建設にあたって、この本がよほど目ざわりとみえて「人だましの本」だと悪宣伝につとめ、ソ連の赤い電波も、著者の私を名指しで非難しました。つまりそれだけ海外でも反響が大きかった訳です。本著は若干前著とダブル点もありますが、文字通り「総括」の名にふさわしく、虐殺の定義からはじまって、東京裁判や教科書との関係、本件と虐殺論、否定論を網羅し、欧米のマスコミや米・英・仏政府にこの事件に対する反響や対応にまで手を伸ばし、「南京事件50年の節目」を期して、その全貌と真相に迫った決定版のつもりであります。
いずれにせよ、巷間伝えられるがごとき南京に20万、30万もの大虐殺があったとする俗論は、歴史の真実をゆがめる歴史の改ざんであり、虚妄であります。ことにこの虚妄を教科書にまで記述し、次代を担う小国民にかかる自虐的な、祖国呪詛のいつわりの教育を施しつつあるということは、許し難い父祖の歴史への冒涜であり、民族の恥辱であり、国をあやまることこれ以上はなはだしきはありません。私は今後ともこの歴史的虚構――日本罪悪史観――一掃のため、不退転の決意でいっそうの努力を重ねて参りたいと思っています。