朝日新聞との闘い・われらの場合

都城23連隊の戦史を汚すことは断じて許さぬ

吉川正司(元都城歩兵第23連隊・中隊長)

「文藝春秋」昭和62(1987)年5月号

「文藝春秋」昭和62(1987)年5月号より転載


 昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊に5段抜きの大見出しが躍った。
 「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」と題されたこの記事は、翌5日朝刊の全国版にも掲載され、一大センセーションを巻き起こす。
 思えばこれが、朝日新聞との2年5ヶ月におよぶ闘いの幕開けだった。
 その記事によれば、宮崎県東臼杵郡北郷村の農家から、南京に入城した都城23連隊の元上等兵が所持していた、「虐殺に直接携わり、苦しむ真情をつづった日記と、惨殺された中国人と見られる男性や女性の生首が転がっているなどの写真3枚が見つかった」というのである。
 惨殺写真もさることながら、日記の内容は衝撃的だった。
 昭和12(1937)年12月12日の南京入城から3日後の15日に、こういう記述がある、と記事は言うのだ。
 (カッコ内は朝日の註)
 「今日逃げ場を失ったチャンコロ(中国人の蔑称)約2千人ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に出会う。・・・・・・処置なきままに、それぞれ色々な方法で殺して仕舞ったらしい。近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり、全く支那兵も顔負けするような惨殺を敢えて喜んでいるのが流行しだした様子」
 21日には、こう書かれてあるという。
 「今日もまたニーヤ(中国人のことか)を突き倒したり倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのであるが、それが内地だったらたいした事件を引き起こすことだろう。まるで犬や猫を殺すくらいのものだ」
 かねてから南京大虐殺に固執していた朝日にとっては、きわめて重大な発見とみえて、記事のリードには「広島、長崎の原爆やアウシュビッツと並ぶ無差別大量殺人といわれながら、日本側からの証言、証拠が極端に少ない事件だが、動かぬ事実を物語る歴史的資料になるとみられる」とある。
 ところが、この"歴史資料"は生き残り将兵で結成している「都城23連隊会」の人々のその後の調査によって、見るも無残に突き崩されることになる。
 南京陥落の時、私は中尉であった。
 都城歩兵第23連隊の中に連隊砲中隊というのがあり、その中隊長代理として南京作戦に加わったのである。
 突入翌日の13日には城内の掃蕩をやっているが、城内に敵兵は一兵も見ず、一般住民もいない全くの死の街であった。
 連隊はそれ以降、主力を水西門東南方地区の市街地に、第1大隊をもって12月21日まで水西門外に駐屯し、警備にあたったが、翌13年1月13日に蕪湖へと転進するまで、虐殺事件など見たことも聞いたこともなかったと断言できる。
 従って朝日の記事内容はまさに寝耳に水であった。
 身に覚えのない報道に対して、最初に行動を起こしたのは、地元に住む「都城23連隊会」の面々だった(私は東京在住)。
 これ以降の記述は、主として宮崎の連隊会事務所がまとめた「連隊会だより12号」にのっとってすすめていくことをお断りしておく

「新聞は嘘つかん」

 報道から2週間後の8月19日、連隊会は宮崎市で第1回対策協議会を開いた。
 調査のため北郷村に人を派遣することになったが、たまたま当時の第2中隊長だった坂元昵氏から、私が行くとの申し出があった。
 氏は生存者の中では最高責任者で、その時86歳という高齢を顧みず、8月24日、自分の息子に車を運転させて、わざわざ鹿児島から出てこられた。
 途中、宮崎で中山有良事務局長を乗せ、北郷村に到着したのである。
 何よりもまず、日記の主が誰であるかを突きとめねばならない。
 問題の記事によれば、日記を書いた兵士は当時23歳の上等兵で「帰国後、農林業を営み、49年に腎臓病で死去した」という。
 坂元氏らは、北郷村に住む数名の生存者に訊ねたが、誰にも記憶が無い。
 続いて郵便局に行き、年金や恩給の受給関係書類から見つけようとしたが、これも無駄骨だった。
 お手上げかなと思ったところで坂元氏が妙案を出した。
 「お寺を回ろう。過去帳があるはずだ。」
 北郷村には3つの寺があり、2度空振りあと、最後に回ったお寺で、ようやく49年に腎臓病で死亡した元兵士を探し当てたのである。
 名前は河野美好―――。
 ところが翌朝、河野未亡人に電話してみると、何とも意外なことに、
 「主人は日記などつけたことはありません。日記を書くような教養はありませんでした。それから写真機を持つような、そういう贅沢な身分ではありません」
 との返事である。
 この時点で調査はいったん暗礁に乗り上げてしまう。
 昭和59年9月22日。
 連隊会の一行5名が朝日新聞宮崎支局に第1回の抗議に出向いた。
 対応に出たのは中村大別支局長で、双方にはおおむね次のような激しいやりとりがあった。

 連隊会「まずお伺いしますが、本件は東京の本社が取材されたのでしょうか」
 支局長「いや、当宮崎支局の取材です」
 連隊会「宮崎支局の取材とは驚いた。取材には万全を期しておられるか」
 支局長「万全を期している」
 連隊会「それなら、なぜ事前に連隊会に照会されなかったのか」
 支局長「日記帳や写真が出てきたから、照会の必要はないと思った」
 連隊会「日記には23連隊の何中隊と書いてあったか」
 支局長「そこまで確認しなかった。こんど見ておく」
 連隊会「その兵士の名前は」
 支局長「いや!それは言えない。本人に迷惑がかかるから」
 連隊会「真実なら何も名前を隠す必要はないではないか。本人の名前がわかなんとなれば、支局長、あなたを告訴せねばならぬことになるが、よろしいか」
 支局長「・・・・・・・・・」
 連隊会「貴社が虐殺があったと判断した根拠は、日記帳と現場を撮影したと思われる写真からか」
 支局長「その通りだ」
 連隊会「新聞記事によると、その日記は1月1日から12月31日まで、毎日1日も欠かさず記入されているとのことだが、本当か」
 支局長「その通りだ。表紙はボロボロになっており、白い紙質は褐色に変じ、インクの色も変色して昭和12年に記載されたものに間違いないと判断した」
 連隊会「それはおかしいではないか。戦争をしている兵隊が毎日毎日、日記がつけられると思いますか!それに鉛筆書きならいざしらず、インクとは恐れいった。当時は、ペン書きするにはインク瓶からスポイトでインクを補充せねばならない時代だが、戦場へインク瓶を携行するなど考えられない。ましてや一兵士が戦場へカメラを持参するなどとんでもない話だ。将校ですらカメラを携行したものは1人もいない。
 支局長のポストを就任されるだけの学識あるあなたが、1日も欠かさず日記が記入されているということだけで、これはおかしいと思い、カメラ携行とあれば、これは臭いな、となぜお考えにならなかったか。貴方ご自身の方が余程おかしいと私たちは思うのですが、いかがですか」

 ここで無言のまま席を立った中村支局長は、やがて1枚の写真を持って現れ、連隊会の代表たちに「これを見てください。」と突きつける。
 それは、建物の前の路面に生首が12、3個ころがっている写真であった。

 連隊会「これはなんです、これが虐殺現場を撮影したと思われる写真なのですか!」
 支局長「その通りです。中国人の生首です」
 連隊会「これを見て、支局長は即座に虐殺現場の写真だと思われたのですか」
 支局長「その通りです」
 連隊会「おかしいですね。生首が転がっているだけでは、兵隊なのか一般人なのかもわからない。悪く勘ぐるなら、中国の兵隊が匪賊討伐を行った際に打ち首になった匪賊の首かもしれません。支局長はこれをひと目見ただけで、よくも日本軍が中国人を虐殺した写真だと判断されましたね。その根拠は!?」
 支局長「この写真を持っていた本人が、生前この写真を見ながら後悔していたという事を聞いていましたから、てっきり虐殺の現場写真だと」
 連隊会「しかし、その本人は10年前に死んでいるんでしょう。それでは直接本人から聞かれたわけではなく、その家族の方からの話ではありませんか。信用できますか!」

 このあともしばらくやりとりは続き、連隊会側は最後にこう要求した。

 「先日、孫がやってきて「爺ちゃんたちは悪い人間じゃねー」と言いますので、「何を言うか!爺ちゃんたちは、日本を守るために生命を投げ出して戦った立派な者ばかりだ。悪いことなどしてはおらん」と言うと、「新聞は嘘つかん」と逆襲されました。
 私ども生きている者は我慢の仕様もありますが、若き命を散らせて消えた英霊は浮かばれません。
 どうか、全国版で都城歩兵23連隊は南京大虐殺には参加せず、無関係である旨の記事を出していただきたい」
 中村支局長の回答は「その事はしばらく待って下さい。私一存ではどうも」というもので、物別れのまま朝日との第1回会談は終了した。

有力な日記執筆候補者

 昭和59年10月のある日、連隊会事務局に、問題の日記の筆者についての重大な情報が入る。
 情報は第1中隊の代表者である山路正義氏からのもので、
 「歩兵23連隊の戦記編纂の折に、「この日記は役に立つのではありませんか」と、北郷村の三浦松治氏が私に当用日記を届けてくれたことがありました。その日記は、北郷村出身で私と同じ中隊にいた、故宇和田弥一君のものでした。日記の中から何か戦記に掲載しうるものはないかと詳細に目を通し、結局、2ヵ所を戦記に載せた次第です。しかし、朝日が指摘している虐殺などのことは書いてありませんでしたから、この日記ではないかもしれませんが、一応ご参考までに」という連絡であった。
 調べてみると、宇和田弥一君は昭和48年に腎臓病で世を去っている。
 朝日の言う49年に死亡とは1年のズレがあるものの、戦争当時は上等兵で、農業学校を出ていて教養もあるし、筆も立つ、河野美好氏と共に、有力な日記執筆の候補者として浮かび上がってきたのである。
 実は、山路氏の情報の中にある「歩兵23連隊の戦記編纂」の最高責任者は私であった。
 私は、市ヶ谷にある自衛隊の幹部学校で戦史教官をやっており、戦記を編纂するなら一番適任であろうとなって、昭和49(1974)年に発案し、53(1968)年にようやく完成させたのである。
 その際、各中隊ごとに編纂委員を決め、資料を集めてもらった。
 その中に宇和田氏の日記も入っていたのである。
 ところが、私は全体の監修者という立場にあったため、当時、宇和田日記の現物は見ていない。
 実際の事務所は宮崎でやり、戦記完成後、この日記は未亡人の宇和田八重子さんに返送されていることが後にわかった。
 連隊会は情報入手後、ただちに仲介役の三浦松治氏に聞いてみたところ、
 「年月ははっきりしませんが、ある日のこと、故宇和田さんの霊前に詣でたところ、奥さんが「こんなものがありましたが、何かお役に立ちますか」と申されて、一冊の日記帳を差し出されました」との返事だった。
 "山路情報"は確実に裏付けられたが、奇妙なのは、「最初の北郷村調査の折に何故そのことを告げなかったのか」と問われた三浦氏が「別の日記かと思って黙っていた」と答えたことである。
 さらに奇妙なのは、宇和田未亡人の対応だった。
 連隊会から未亡人に電話をし、「ご主人は日記帳を持っておられたそうですね」と尋ねると、間髪を入れずに、
 「はい、写真3枚と日記帳がございました」との答えが返ってきた。
 日記の有無だけを尋ねたのに、なぜ聞きもしない写真の件を持ち出されたのか。
 いずれの電話のあることを予期していたかのような反応は、まことに不可解であった。

「家族のために助けてください」

 双方の都合で延び延びとなっていた朝日との2回目の会談が、昭和60(1985)年2月4日、朝日新聞宮崎支局で開かれた。
 連隊会側の出席者は前回と同じく5名、先方は中村支局長である。
 この席で、中村支局長は意外にも、
 「先般から日記が本件のポイントだとご指摘になっておられるから、今日はその日記をお目にかけます」と言ったのである。
 連隊会側は色めきたった。
 支局長は後方の棚から、ナイロンの袋に入った日記帳と思われるものを取り出した。
 てっきりテーブルの上に置かれるのかと思ったら、そうではなく、手に持ったままテーブルから10歩くらい、およそ5メートルほど離れた位置まで後退して、立ったまま自分の胸の高さのところで日記帳の真ん中あたりを左右に広げて見せたのである。
 連隊会の後藤田萬平氏が椅子から立ち上がり、近づこうとすると、支局長はこれを制した。
 「近寄ってはいけません。書体がわかると誰が書いたかわかりますから」
 5メートルも離れていたのでは、それが日記帳だと判断することさえ出来はしない。
 実は私自身も、昨年末に一度だけ日記の"現物"を見せてもらっている。
 しかしこの時も3メートルほど離れたところからで、判読はいっさい不可能であった。
 朝日のこうした態度は何を意味するのであろうか。
 日記が本物なら、なぜ堂々と見せようとしないのか。
 よほどやましいところがあると思われても、仕方がないではないか。
 ともあれ、会談は結局のところ第1回目の論争の蒸し返しに終始したが、それでも終わり近くでかなりの収穫があった。
 連隊会側が、「日記を書いた兵士は、49年に腎臓病で死亡したとの朝日記事を踏まえて調査したところ、河野美好氏であることが判明しました。しかし、未亡人は否定しています。どちらが本当か、支局長と河野未亡人とで対決していただけませんか」
 と持ちかけたところ、支局長はしばし間をおいてから、
 「いや、その人ではなく、別の人から届けられたものです」と答えたのである。
 ここで、日記の主は河野氏でないことがはっきりした。
 つまり、49年に死去したという部分は、誤報であることが明らかになった。
 小さなこととはいえ、記事全体の虚構性をうかがえるに足る貴重な第一歩となったのである。
 4日後の2月8日、都城23連隊会は、朝日新聞宮崎支局長宛に正式な抗議文を提出した、記事取消しを求めるなら、「正式の文書にしてご提出下さい」との中村支局長の強気な発言を受けてのものである。
 抗議文を提出してまもなく、当の中村支局長から連隊会の中山事務局長に連絡が入った。
 今日ご来社、ただし中山さん1人でおいで下さい、他人には聞かれたくない相談がありますから、との電話であった。
 前述した「連隊会だより12号」は、中山事務局長を中心にまとめられたものである。
 その「連隊会だより」によれば、中山氏が宮崎支社に赴くと、支局長はひどく低姿勢で2階の会議室へと案内した。

 支局長「抗議の公文書、確かに受け取りました。その事ですが、「お詫び」だけはご勘弁下さいませんか。その事を記事にすれば、私は首になります」
 中山「首になる。仕方ないじゃありませんか。嘘の報道を大見出しの記事として全国版に掲載したんですから。その責任をとって首になるのが当然じゃありませんか」
 支局長「その責任は重々、感じています。しかし首になると私は困ります。私の家族のために助けて下さい。お願いします。この通りです(両手をついて頭をさげる)」
 中山「お詫びがないと、私の方が困ります。亡き戦友の御霊を慰めるのが私ども連隊会の責務ですから」
 支局長「そこのところ何とか」

 2人の間で種々のやりとりがあったすえ、お詫びとか記事取り消しといった言葉は使わないが、全国版・地方版で連隊は南京大虐殺とは無関係との旨を報道することで、両者が合意した。
 事務局長は帰ってから連隊会の安楽秀雄会長とも相談し、やむを得ないとの承諾を得たのである。
 昭和60(1985)年2月24日、朝日地方版は「「南京大虐殺と無関係」元都城23連隊の関係者が表明」として次のように報じた。

 《日中戦争中の昭和12年暮れ、南京を占領した日本軍による「南京大虐殺」事件について、宮崎市に事務局をおく都城23連隊会の安楽秀雄会長、中山有良事務局長ら代表がこのほど朝日新聞宮崎支局を訪れ、同連隊会は南京大虐殺とは無関係であったと表明した。中山事務局長によると、都城23連隊は12年12月13日、南京城西南角から城内に入った。同事件について論議されることから、同連絡会員、関係者に対して調査を行ったが、事件に関係した証言などは得られなかったとしている。》

 いささか不本意ではあったが、ともかくもこの記事で、およそ半年におよぶ朝日と連隊会の抗争に終止符が打たれるかに見えた。
 ところが、同年の6月、7月、10月と、大阪・名古屋などに住む戦友から相次いで「連隊は無関係という記事は全国版の何月何日に載ったのか」との問い合わせが事務局に殺到した。
 全国版に載せると言った朝日が約束を破るはずはない。
 この種の記事は紙面の片隅に小さく載せるのが新聞社の常道だから、もう1度よく見て下さい、と照会のたびに事務局は回答していた。
 昭和60(1985)年12月20日、"お詫び"記事から半年たったところで、意外な事実が判明した。
 この日、中山事務局長は、朝日宮崎支局に中村支局長を訪ねた。
 事件の取材で宮崎に来ていた「世界日報」の鴨野守社会部記者を伴ってである。
 中山氏はさっそく、
 「例の無関係の件、全国版の何月何日に載ったのですか」と切り出す。
 ところが支局長は言った。

 「全国版?全国版には載せてありません」
 「載せていない?それじゃ約束が違います」
 「約束した覚えはありません」
 「冗談をおっしゃってはいけません。あの日、固く約束されたじゃないですか。」
 「いや、地方版に載せるとは言いましたが、全国版とは言いません」

 そして中村局長は、「あの記事はすべて正しい。朝日新聞宮崎版に載った記事は訂正記事ではない。連隊会から抗議があった旨を載せたまでだ」と、言い放ったのである。
 中山事務局長は、

 「今からでもよいから、全国版に載せてくれませんか」と食い下がったが、
 支局長は「いや、もうこれ以上の事は朝日としては出来ません」と一蹴した。
 やむなく中山事務局長は、次のように言い残して席を立った。

 「卑怯ですねあなたは。あの時私に、1人で来て下さいと言われた意味が今になってわかりました。約束をした、しないは、当事者だけでは押し問答になりますからね」

 朝日は都城23連隊との抗争はこうして再燃したのである。

虐殺写真はデッチあげ

 それから1週間ほどたった12月28日、朝日にとって極めて衝撃的なスクープが「世界日報」の一面トップを飾った。
 「朝日、こんどは写真悪用 南京大虐殺をねつ造」と題された記事によれば、中国人の首が転がっている例の写真、南京大虐殺の動かしがたい証拠であると朝日が大見得を切った写真は、旧満州の熱河省で撮影されたもの、と指摘されたのだ。(その後の報道で、この写真は昭和6(1931)年、当時の朝鮮で市販されていたもので、満州の凌源で中国軍が馬賊を捕らえて処刑したものと判明する)
 年が明けて昭和61(1986)年1月となると、様々なマスコミがデッチあげ写真の件で朝日攻撃を開始する。
 朝日は窮余の一策で、1月10日、中村支局長を更迭し、我々の攻撃目標から外してしまう。
 以後、窓口は西部本社の宮本隆偉通信次長となるのだが、これは全くもって責任のがれの、卑怯きわまりない人事と言わざるを得ない。
 1月22日、朝日の全国版に、「おわび」と題するベタ記事が掲載された。

 《59年8月5日付の「南京大虐殺、現場の心情 元従軍兵士の日記」に記事に対し、日記の筆者が所属していた都城歩兵23連隊の連隊会から「連隊は無関係」との表明があったため、改めて本社で調べた結果、日記は現存しますが、記事で触れている写真3枚については南京事件当時のものではないことがわかりました。記事のうち、写真に関する記述は、おわびして取り消します。》

 不可解なおわびではないか。
 読みようによっては、写真についてはミスだったが、日記は現存するのだ、と朝日が逆攻勢に出てきたと受け取れなくもない。
 朝日のそもそもの記事によれば、写真と日記は二進一体のものだったはずである。
 例の記事には、「写真はアルバム3枚残っていた。・・・・・・生前家族に「南京大虐殺の際の写真」とひそかに語っていたという。・・・・・・生前写真を見ては思い悩んでいる時もあったという」と書かれているのである。
 写真と日記には切り離せないものと考えるのが自然であり、それでもなお日記には信憑性があると強弁するのは、居直り強盗と同じたぐいではないか。
 それでも、一方の柱であった写真はデッチあげとわかった。
 残るは日記の信憑性である。
 すでに述べたように、中村支局長の弁によって、日記は河野美好氏のものではないとわかった以上、該当者は宇和田弥一氏以外な考えられない。
 どう調べても、他に該当者はいないのだ。
 連隊会では数度にわたって未亡人に接触したが、反応は思わしくなかった。
 未亡人は「朝日新聞は取っていませんし、朝日新聞社の方と会ったこともない」と繰り返し、ついには「主人の持っていた日記も写真も、昭和57(1982)年7月の洪水の折に納屋が土砂に埋まり、読めなくなったので焼却してしまった」と言い出す始末。
 終始一貫、朝日との接触を認めようとはしなかった。
 昭和61(1986)年1月25日、朝日新聞宮崎支局2階会議室において、連隊会と朝日西部本社との間で会談がもたれた。
 出席者は連隊会5人に対して、朝日側3名。
 この会談は、どこまでいっても平行線だった。
 「日記も嘘である。日記についての詫びがなされない限り、和解は出来ない」とする連隊会側に対して、朝日側は「写真についてのお詫びで終止符を打っていただきたい」と主張。
 「日記を白日のもとにさらせば解決する」と迫れば、「そうなったら日記提供者の氏名が判明して、本人に迷惑が掛かる」と取材源の秘匿を楯に応じようとしない。
 押し問答のすえ、「日記は見せられないが、ご指摘の箇所を読み上げることはできる」となり、連隊会側が指摘の部分を宮本次長が読み上げることになったのである。
 これは大きな収穫であった。
 宮本次長が読み上げた日時のうち、7月27日と12月10日の分が、先述した「都城歩兵23連隊戦記」に引用した宇和田日記の中の日時とたまたま一致し、その内容もほぼ同一であることがわかったのだ。
 朝日の所持している日記は宇和田弥一氏の日記に間違いはない。
 そして、読み上げられた日記の内容を細かく検討することによって、日記の信憑性に多大の疑問があることも分かってきた。
 例えば昭和12年7月27日の日記に、

 《午后3時、突如師団からの電報により動員下令。将校集合のラッパ。週番司令から各中隊週番士官に通達された》

 とあるが、一兵士の身で師団から電報がきたことがどうしてわかるのか。
 午後3時とあるが、その時刻には将校は全員在営中で(午後5時まで勤務)、連隊長が将校全員に直接命令を下すはずだ。
 週番司令は連隊長の帰営後に警備のために勤務するもので、動員令のような重大な命令を伝達する権限はない。
 また、11月3日から5日にかけての杭州湾上陸の状況も問題である。
 11月4日の日記にはこう書いてあるという。

 《・・・(不明)・・・の命により、軍は上海南方80里の・・・(不明)・・・地区に先ず第5師団をもって敵前上陸を敢行。F第一線を占領し・・・・・・》

 こういう事実を一兵卒がどうやって知り得たのだろうか。
 私の連隊は第6師団に属していたかなど、中隊長の私でさえ知る由もなかった。
 先述したように、私は昭和49年に歩兵23連隊の戦記編纂の責任者となり、その時初めて旧日本軍の公刊戦史を見て、第5師団が来ていたことを知ったのである。
 それを一上等兵が、しかも当日の日記に書くことなどあり得ない話ではないか。
 さらに、日記の中に「F」という言葉があるが、これは「敵」を意味し、将校たちが図上演習の際に用いる略語である。
 あとからテープを聞いてみると、読み上げた朝日の宮本次長も「これは何だろう」とひっかかりながら読んでいるし、聞いている連隊会もピンときていない。
 そんな用語が、なぜ上等兵の当時の日記に書いてあるのか。
 次に、翌11月5日の記述に、

 《金山衛城を占領との情報到る》

 とあるが、「金山衛城」なる地名が出てくるのはおかしい。
 この地名を知るには地図が必要だが、地図は中隊に1枚しかなく、わが中隊では私だけが所持していた。
 こうした不可解な記述は枚挙にいとまがない。
 特に問題の12月15日以降、虐殺の記述に至っては疑問だらけである。
 15日、2千名の中国人が逃げ場を失って現れたというが、その時の部隊配置と湖沼の多い特殊な地形を考え合わせると、水西門西方2.5キロの警備を突破しない限り、水西門付近に敵兵が現れることなどあり得ない。
 さらに決定的なことを言えば、宇和田氏の所属していた第1中隊は大隊主力とともに、12月22日には南京城内に移駐している。
 それなのに、当初の朝日記事によれば、21日以降、"虐殺"の日々が続き、28日には「人格の陶治とか何とか戦場こそこれがこの良き舞台だと喜んだ我だったが、いまの状況では全く何事かと思われる」などと書いているという。
 移駐してしまった部隊の兵士が、そこになお留まっているかのように記述しているのは全くおかしい。
 日記の筆者は誰なのだろう。
 一兵卒でも日記を書く者が皆無であったとは言えない。
 しかし、兵馬倥偬(へいまこうそう)の戦場の中にあって、一兵卒が1日も欠かさず日記をつけることなど、とうてい考えられない。
 宇和田氏と同じ中隊にいて南京作戦に参加した生存者も、彼が日記を持っていたり、つけたりしている姿を見たことも聞いたこともないと証言している。
 私は朝日の持っている宇和田日記は、当時その一部を空白のまま、メモとして書き残し、戦後、大幅に加筆されたものではないかと考える。
 しかもその内容から見て、かなりの軍事知識と情報を持つ者の指導を受けたのではないだろうか。
 最悪のケースを想定すれば、戦後、宇和田氏が昭和12年版の当用日記を持っているのを知った何者かが、これを借りるなり、譲り受けるなりして、空白の部分に勝手に書き込んだことだってあり得ないではない。
 とりわけ南京陥落以降の記述については、そういう疑問を私は抱いている。
 我々はすでに、宇和田氏本人の筆跡を手に入れていた。
 復員後、ある知人に宛てた達筆の手紙を入手していたのである。
 これと問題の日記の筆跡を照らし合わせれば、すべてが明らかになるだろう。
 仮に2つの筆跡が一致すれば、宇和田氏本人の日記となるが、その場合、記述の内容から見て、何者かが戦後に指導して書かせた公算が大きくなる。
 筆跡が一部でも違っていたら、特に南京以降の筆跡に違いがあれば、事は重大である。
 写真のデッチあげどころの騒ぎではない。
 何としても、日記を出さざるを得ない状況に朝日を追い込む必要がある。

朝日は筆跡鑑定を恐れた?

 昭和61年2月5日から10日にかけて、朝日側からしきりに和解嘆願の電話が入ったが、連隊会はこれを拒否、12日に西部本社へ和解拒否の文書を送りつけた。
 5月6日、闘いの舞台は宮崎から東京に移される。
 朝日の東京本社を相手取って訴訟を起こすため、東京の弁護士に依頼することも含めて、事件は東京在住の私に引き継がれたのである。
 6月12日には、弁護士を通じて朝日に最後通牒を出した。
 連隊に対する謝罪文を出せ、要求が受け入れられない場合は本裁判にかける、という通告書である。
 朝日側は、専務が海外出張中といった理由で引き延ばし戦術に出てきた。
 「6月いっぱいまで回答は待って欲しい」が「7月の10日頃まで」となり、7月9日にようやく双方の弁護士が顔を合わせることになる。
 この席で朝日側は、裁判にかけるならいつでも受けて立つ、と開き直ったのである。
 私の顔は日記のことでいっぱいだった。
 万が一にも日記が焼却されたりしたら、とりかえしがつかなくなる。
 本裁判よりも日記の保全が第1だと考えた私は、弁護士を通じて8月22日、小倉簡易裁判所に対して日記保全の申し立てを行った。
 舞台が小倉になったのは、西部本社が日記を所持していると言明していたからだ。
 判決が下されたのは、それから4ヶ月たった12月17日のことである。
 裁判所側はほぼ連隊会側の主張を認め、朝日は翌18日に西部本社で日記を見せろとの判決を下した。
 ただし、全文を見せる必要はない、一番問題なのは昭和12年の12月15日から28日までの記述だから、その間の日記だけをすべて写真に撮らせるよう言い渡しただけである。
 翌18日の朝は、今日こそ日記が見られる、しかも写真に撮れる、すべてが明るみに出る、という緊張でピリピリしていたが、そこへ弁護士から通報が入った。
 昨日の判決にあわてた朝日側が、守秘義務の配慮が万全でないとして、その日のうちに福岡地裁小倉支部に抗告したという。
 日記はどうあっても見せるわけにはいかないという朝日の執念が、素早い対応となって現われたのだ。
 朝日は結局のところ、筆跡の鑑定を極度に恐れたとしか思えない。
 私と弁護士はとりあえず西部本社に出向いたのだが、もちろん日記の撮影は中止となった。
 問題は地裁の判決がいつになるかだが、おそらく昭和62(1987)年の2月以降になるだろう。
 そして地裁で同様の判決が出たとしても、朝日はたぶん高裁に控訴する。
 時間稼ぎは朝日の最も望むところではないか。
 それでなくともわが連隊会の実情は、最高責任者たる坂元昵氏が88歳、最後の連隊長だった福田環氏が89歳、比較的若い私でも73歳という高齢である。
 これから先、何年続くかわからない裁判に、どれだけの会員が頑張り通せるか。
 実際、坂元氏は心労のあまり昨年暮れに入院し、私もまた酒の力を借りなければ眠れぬ夜が続いた。
 酔って寝ても、夜半に目がさめ、やがて睡眠薬を飲むようになっていた。
 高齢に加えて、金銭上の問題もあった。
 老後のための僅かな貯えをこれ以上会員たちに放出させるに忍びない。
 朝日は恐らく、露骨な引き延ばし戦術に出てくるだろう。
 本裁判となれば10年はかかるだろう。
 それまで我々の余命があるかどうか。
 あれやこれやを考え合わせると、今後の裁判闘争を闘い抜く見通しがたたない。
 私は一件の終息を考えざるを得なくなった。
 私は、その日のうちに朝日西部本社の幹部と話し合い、こう提案した。
 「これは今のところ私だけの判断だが、うちの連隊は南京事件に無関係であるという記事を全国版に載せてもらえないか。そうすれば、保全申し立てを取り下げてもいい」
 朝日側は、まるでこの提案を待っていたかのように、「それだったら応じてもよい。検討します」との返事であった。
 年が明け、今年(昭和62)の1月7日に私は鹿児島に飛んで、坂元氏の了承を得る。
 翌8日には連隊会に報告し、ここでも了承を得た。

もう一つの「戦史」

 昭和62(1987)1月21日、いよいよ福岡地裁に保全申し立ての取下書を提出することになった。
 手続きは当然こちらの弁護士が行うものだが、後から知ったことだが、おかしなことに朝日側の弁護士がわざわざ書類を取りに来て、自ら小倉まで運んでいき、22日に手続きをすませてしまったのである。
 一刻も早くこの問題を片づけたいという朝日の意見が、ありありとうかがえる一幕であった。
 そして翌23日の朝刊全国版には、「証拠保全を取り下げ、「南京大虐殺と無関係」、都城23連隊が表明」と見出しをつけた記事が早くも掲載された。

 《いわゆる「南京大虐殺」報道に関して、都城23連隊会(宮崎市)は朝日新聞社を相手に、当時の状況を記録した日記の保全の申し立てを小倉地裁に行っていたが、22日、申し立てを取り下げた。取り下げに当たり「連隊は南京虐殺とは無関係」と表明した。この問題は、朝日新聞が59年8月、日記の内容を報道したのに対し、連隊会側が「連隊として虐殺に関係したような印象を与えた」と反発していた》

 2年5ヶ月におよぶ闘いは終わった。
 決して上々の結果ではない。
 むしろ甚だ不本意な終戦である。
 しかし、だからといって、これで朝日がすべての責任から逃れたわけではない。
 連隊会が味わった苦痛もさることながら、この事件で一番苦しんだのは河野美好未亡人の吉江さんではなかったか。
 「49年に死亡」という誤報のせいで、吉江さんは村人から白眼視され、老いた身で働く職場でも肩身の狭い思いをしていると聞く。
 言論の自由の美名の陰で、こうした精神的苦痛をなめるひとがいることを忘れてはなるまい。
 問題の日記は永久に陽の目を見ることはないだろう。
 しかし、朝日新聞が連隊会の投げかけた疑問に何一つ答えられなかったという事実も、また永久の残る。
 連隊会はこの4月、宮崎で慰霊祭を開き、護国神社で英霊に対し事件の解決を報告し、あわせてその経緯を克明に記した前記「連隊会だより」を刊行する。
 それはわれら都城歩兵23連隊の、もう1つの「戦史」となるであろう。


関連項目:[「世界日報」記事] [「南京事件・関連資料」項目ページへ]